番外編『宮本さんと風間さん⑧』
「その子を最初に見た時、俺は『鬼座頭』の血族かと思った。しかし、すぐに違うと気付く。『鬼座頭』には、誰が見ても一目でそれと分かる大きな身体的特徴があった。その子には、それが無かったからだ」
━━━その子は、ひどく顔立ちの整った男の子だった。
「恐らくは小学校に入ったばかりか、入る直前くらいの歳だろう。顔立ちがタレントのように整っていること以外、その子には特段変わった特徴は見受けられなかった。俺はその子を前にして、一人首を傾げていた。この子は、何らかの事故に巻き込まれて『領域』に流れ着いて来たのだろうか? そういうことは稀にあると耳にしたことがある。しかし、そうだとしたら━━」
━━━この子は何故、無事なのだろう?
「俺が『領域』に足を踏み入れた時には、ここに住むバケモノ共から熱烈な歓迎を受けた。『あの子』の影響か、はたまた『アイツ』の影響なのか、今はバケモノの姿は影も形もないが、『領域』とは本来、普通の人間では一分一秒足りとも生きていられない場所なのだ。それなのに、その男の子には外傷がまったく無かった。ただ、眠っているだけのようだった。この子は、バケモノ共がいなくなった後に、『領域』に迷い込んで来たのだろうか? 考えられる可能性はそれしかないが、そんな偶然があるのだろうかと思う。違和感を感じた俺は、男の子の『道』を覗いてみた。普通の『道』だった。何の変哲もない、ごく普通の一般人の『道』の形。しかし━━」
━━━何かが、おかしかった。
「それが『何』なのかを、俺ははっきり言い当てることが出来なかった。男の子の『道』は至って平凡だった。しかし、じっと見続けていると、胸の奥に言いようのない不安が湧き上がってくる・・。俺は小学校に入ったばかりの頃、美術室前の廊下に飾られているモナリザの絵を酷く怖いと感じていた。あの絵の薄気味悪い女とうっかり目を合わせてしまったら最後、俺はこの女に絵画の向こう側に引き摺り込まれてしまうのではないか? そんな妄想を抱いていた。・・・男の子の『道』は、まさにそんな風な『道』だった」
━━━何でもないもののはずなのに、自然と目を逸らしたくなるような・・そんな、人間の根源を揺さぶるような『何か』を、男の子の『道』は有していた。
「重ねて言うが、それが『何』なのかは分からない。俺のような凡人ではなく、強大な『道』と『力』を有する怪物のような『使い手』ならば話は別だろうが、俺如きでは、男の子の『何か』が『何』なのかを想像することすら出来なかった」
━━━だが、明らかに普通ではない。
「それだけは確かだった。しかし、だからと言って、男の子を見捨てる選択肢など無かった。俺は男の子を抱き抱え、改めて周囲を見回す。360°見渡す限り地平線しかなかった。元より命は捨てるつもりでここに来たから、帰る手段など欠片も考えてはいなかった。せめてこの子だけでも元の世界に還してやりたかったが、現状を打破する知識も無ければ、糸口もない。俺は男の子を抱き抱えたまま、どうすれば良いか分からず途方に暮れていた」
━━━と、その時、ガラスにヒビが入ったような小さな音が聞こえた。
「音は遥か上空から聞こえた。何だ?と思い上を見上げると、赤紫色の空に小さなヒビ割れが出来ていて、そこから何か黒い欠片のようなものがパラパラと落ちていた。ヒビ割れの向こうには、あらゆる光を呑み込んでしまいそうな黒い世界が広がっている。ゾッとしながら、その黒を見つめていると━━」
━━━先とは比較にならない破壊音と同時に、地面が大地震のように揺れ始めた。
「とても立ってはいられないほどの振動だった。俺は男の子を抱き抱えた格好で膝立ちになり、首だけを回して逃げ場を探す。が、そんなものはどこにも見当たらない。無数のヒビ割れが、空間全体を覆い尽くしていた」
━━━『領域』が、崩壊しようとしていた。
「俺は必死になって活路を見出そうとした。しかし、一歩踏み出そうにも、その先が無い。空間のヒビ割れは地面にまで及んでいて、かつて荒野を形成していたモノは細かい破片になって底の見えない奈落へ落ちていく。その崩壊は荒波のように四方八方から俺たちへ向けて迫っており、俺はその暴威をただ見ていることしか出来かった。すべてはあっという間の出来事だった。ヒビ割れが俺の足元の地面を砕き、世界が傾いた瞬間━━」
━━━誰かに、背後から襟を掴まれた。
「首を向けた一瞬、白い女の細腕が見えた。その腕は恐ろしい力で俺を後方へ投げ飛ばした。背中に、何枚もの窓ガラスを割っているような歪な衝撃が走る。投げ飛ばされた俺の背後から、暴風に混じって『領域』の破片と思しきものが無数に飛んでくる。俺は男の子をしっかりと抱き締め、その破片から守ろうとした。何とか目を開くと、『領域』を形成していた空間の破片が渦を巻き、まるで万華鏡のように鮮やかに舞い散っているのが見えた。その中で━━」
━━━絶対にこの場所にいるはずがない人影を、俺は確かに見たような気がした。
※※※
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※
「気付いたら、俺はどこかの山の中で突っ伏していた。クラクラする頭を抑えながら上半身を起こすと、眼下に街明かりが見えた。どういうわけだか、俺はあの地獄から還って来れたらしい。空を見上げると、あの墨を垂れ流したような不気味な闇は消えていた。気温も元に戻っている。終わってしまったのか、それとも阻止されたのか。あの時起こりかけていた『ベルゼブブの顕現』がどうなったのか、その時の俺には確かめる術が無かった。チカチカと明滅を繰り返す街明かりを、俺はしばし黙って眺めていた。眺めながら、色々なことを考えていた」
━━━『あの子』はどうなったのだろうか?
━━━『アイツ』は結局何者だったのか?
━━━最後に見た人影、アレは俺の幻覚だったのだろうか?
━━━そして
「すぐ傍らから、微かな呻き声が聞こえた。間抜けな話だが、その時まで俺は男の子の存在をすっかり忘れていたんだ。慌てて立ち上がり、呻き声がした方を見やると、男の子が上半身を起こそうとしているところだった」
━━━ばったりと、目が合った。
「澄んだ目をしていた。男の子が目を見開くと、元々整っていた顔面が更に魅了的に映えた。俺は━━俺たちは、黙ったままお互いの顔をしばらく見つめ合っていた」
━━━何故だか、目が離せなくなった。
「数瞬の後、俺はハッと我に帰った。そして、今更ながら『怪我はないか?』と訊ねた。男の子は不思議そうな顔で小首を傾げた後、ゆっくりと首を振って『大丈夫です』と答えた。歳の割に、受け答えがしっかりしている子だった。顔だけでなく、頭もかなり良いのだろう。声に、知性と気品が備わっていた。会ったばかりの子どもの前で、この子は将来が楽しみだなと呑気なことを考えていると、ふと、今が真夜中で、この子から見たら、俺は不審者以外の何者でもないことに気付いた。オマケにここは山の中だ。誰に見つかっても言い逃れが出来ない状況だった。俺はとりあえず、自分は怪しいものではないと男の子に伝えた。男の子は薄く微笑み、『分かっています』と答えた。相手を刺激しないよう注意しているとか、そういう警戒しているような様子は一切無かった。俺が犯罪者の類いではないことを、男の子は一目で見抜いたらしい。聡明なだけでなく、人を見る目も兼ね備えている。俺は男の子のことがますます気に入ってしまった」
━━━スマホは持ってるか?
「俺が訊くと、男の子はゆっくりと首を横に振った。俺も持ってなかった。親御さんに連絡して迎えに来てもらうのが一番手っ取り早いと思ったのだが、残念ながらその手は使えないようだ。公衆電話を探すか、タクシーを捕まえるしかない。『・・・』『・・・』俺たちはお互い目を逸らしたまま、しばらく黙っていた。何か言わなければならないことは分かっていたが、何の言葉もかけられなかった。・・・かけていい言葉が見つからなかった。しかし、だからといってこのままずっとここにいるわけにはいかない。俺は、とりあえず下山しようと男の子を促した。男の子は『はい』と、良い子のお手本のような返事をして俺に着いてきた。その山は獣道しか無かったが、幸い坂は緩やかで、10分もかからず下山することが出来た。山を抜けた先は緩いカーブの続く二車線道路で、そこにあるのは錆の浮いたカーブミラーとガードレールだけだった。案内板のようなものは何も見当たらない。俺は後頭部をかきながら、とりあえず下り方面に向かってみることにした。公衆電話はないものかと辺りを見回していると━━」
━━━ふと、自販機が目に入った。
「瞬間、俺は猛烈な喉の渇きを覚えた。生死の境にいた反動で今の今まで気にならなかったが、身体が猛烈に水分を欲していた。俺は自販機を横目にしつつ軽くため息を吐き、思わず「・・喉が渇いたな」と呟いてしまった。呟いてから、ふと後ろを歩いている男の子のことが気になった。強烈に喉が渇いているのは、この子も同様かもしれない。何か飲み物を買ってあげたいところだが、生憎と俺には手持ちが無かった。山暮らしを長く続けていたせいで、財布を持ち歩くという習慣自体が消えていたんだ。こんなことなら裏ポケットに紙幣の一枚でも入れておくんだったなと後悔しつつ、小銭がどっかのポケットに入っていないものかと自分の身体をまさぐっていると、後ろから「・・あの」という遠慮がちな声がかかった。振り向くと同時に、ガコンッという軽い音がする。ジャラジャラと小銭が落ちる音と同時に、男の子が自販機の排出口に手を突っ込んでペットボトル飲料を取り出した。そしてそれを、「よかったら、どうぞ」と言って、俺に差し出して来た」
━━━・・・。
「頭の中が、初めて感じるタイプの恐怖に支配されてしまった俺は、ついそのジュースを受け取ってしまった。背を伸ばして自分の分を買っている男の子の背中を見つめながら、『いや、あの・・これは、キミが飲みなさい・・』と、震える声で言った。今の俺は、客観的に見れば、職歴も学歴もなければ住居もない、どこに出しても恥ずかしい住所不定無職の中年だった。そんなろくでなしが小学生くらいの幼い男の子にジュースを奢ってもらい、あまつさえそれを飲んでしまっては、自分の中の何かが決定的に終わってしまうような気がした。ジュースを返そうとすると、男の子は菩薩様のような笑顔を浮かべ、『いいんです、気にしないでください』と言った。そういうわけにはいかないからと粘ったが、『僕一人じゃ、2本もジュースを飲めません。勿体無いから、飲んじゃってください』と、返されてしまった。気を遣われているのは明らかだった。聡い子なので、俺が金を持っていないことを見抜いていたのだろう。男の子はジュースを手に、俺のことをじっと見上げている。俺が口をつけるまで飲む気はないのだろうと、直感で分かった。礼儀作法と人を慈しむ心が、時に誰かの心を殺すこともあるのだなと、俺はこの時初めて知った。かなり━━本当にかなり迷ったが、俺は仕方なしにジュースの蓋を開け、口をつけた」
━━━滅茶苦茶美味かった。
「身体が死にかけていたということもあったが、それ以上に、甘味を口にすること自体久しぶりだったのがいけなかった。俺はジュースを一息に飲み干してしまった。ヤクザや半グレの事務所から金を失敬したり、絡んできたチンピラをボコって財布から金を抜いたりしていたので多少の蓄えはあったが、『裏』の情報を得るには何かと金がかかる。まとまった金はブリキ缶・・もとい、金庫に放り込んでいた。なので、俺の食生活といえば米と塩が基本だった。たまに山菜や川魚を取ることもあったが、甘味は何年もご無沙汰だった。ジュースを飲み干した俺は『あー、うまい・・』と、サウナで達したような声を出してしまった」
━━━ガコンッ、という音が聞こえた。
「たまらなく嫌な予感がした。恐る恐る首を向けると、男の子が2本目のジュースを取り出しているところだった。『よかったら、これもど━』『いや、それは本当にいいから、本当に。本当に、大丈夫だから』俺は、男の子の刃物のような好意を全力で拒否した。男の子は笑顔でぐいぐい来たが、コレに口をつけてしまったらいよいよ終わりだと思い、俺は頑なに拒否し続けた。押し問答はしばらく続いたが、最後は男の子が残念そうな表情をして、『じゃあ、これは家に帰ってから飲むことにします』と折れてくれた。最初から俺もそう言えばよかった。何もかもが後の祭りだった」
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「俺は『班』にいた頃、女子どもから、『ノンデリクソホスト』『からあげレモン』『宦官』『ガワが良いだけのドブネズミ』『激カス君』『クソゴミカスサイコパス野郎』と、散々なあだ名で呼ばれていた。当時は、大きめの猿どもが何か言ってんなくらいの気持ちで流していたが、どうやら俺は、そのあだ名より酷い人間になってしまったらしい。自分に対する言いようのない危機感と恐怖を感じながら、俺は男の子を連れて車一台通らない見知らぬ道路を歩いていた。程なく山道を抜け、民家が密集する住宅街らしき場所に辿り着く。適当な家の呼び鈴を鳴らして電話を貸して貰うことも考えたが、今のご時世それは難しかろうと却下する。やはり公衆電話を探すか、タクシーが通りかかるのを待つしかない。金はないが、公衆電話はちょっとだけ『部位破壊』すれば使えるし、タクシーはこの子の家に着いた後に親御さんに払って貰えば大丈夫だろう。そんなことを考えていると、男の子が急に『あっ』と、声を上げた。
━━━この場所、知ってます。僕の家のすぐ近くです。
「俺はそれを聞いて、色々な意味で安堵した。道も分かっているし、家も近くならこのまま別れてもよかったが、男の子が『ここは土井山市ですよ』と言ったのを聞いて、思い直した。土井山市のことは風の噂で知っていた。昔は何のことはない小都市だったのに、どういうわけだかろくでなし共が続々集まってくるせいで、近年治安が極端に悪化していることで有名な都市だった。そんな場所で、この子をこんな夜中に一人で歩かせる訳には行かなかった」
━━━ここまで来たんだから、家まで送るよ。
「そう言って、俺は男の子の指差した方へ向け歩き始めた。しかし、ほんの少し歩いた後、男の子は急に歩みを止めた。どうしたのだろうと思い振り向くと、男の子は暗い顔をして俯いていた。大丈夫か?と訊くと、男の子はゆっくりと顔を上げ、何かを決心したような表情で、」
━━━『姉さん』は、どうなったんですか?
「と、訊ねてきた。何故だか俺はその時、この子の言う『姉さん』とは『あの子』なのだということがはっきり分かってしまった。俺はゆっくりと首を横に振り、『分からない』と答えた。それを知りたいのは俺も同じだった。『領域』から生還して以降、俺の中に残っていた『あの子』の『道』の『痕』は消えてしまっていた。それの意味するところは考えたく無かった」
━━━・・・そうですか。
「男の子は暗い表情で俯いている。かける言葉が見つからず、阿呆のように立ち尽くしていると、男の子は何かを無理矢理吹っ切ったのような表情で顔を上げた。そして、俺に向けて深々と頭を下げてきた。何に対する礼なのかはすぐに分かった。俺は『・・ん』と答えるだけにとどめ、そのまま歩き始めた。男の子も後に続く。それから、曲がり角毎に道を訊ねる以外、俺たちは一切口を開かなかった」
━━━聞きたいことは山ほどあった。
「しかし、男の子は何も答えてはくれないのだろうなという確信があった。・・・俺もそうだからだ。俺は言えないこと、言ってはならないことを山のように抱えている。そのほとんどは、『あの子』に関することだった。男の子が『あの子』とどういう関係なのか分からない。何故『あの子』を『姉さん』と呼ぶのか、あの時『領域』でいったい何をしていたのか、知りたくないのかと言われれば嘘になる。・・・だが、聞けなかった。何故なら━━」
━━━俺はこれ以上、この子に重いものを背負わせたくはなかったんだ。
「男の子の家は、本当にすぐ近くだった。家の門扉が見えると、あそこが僕の家ですと言って駆けて行った。男の子が家に辿り着いたのを確認し、俺は片手を挙げて別れの言葉を口にしようとした。しかし━━」
━━━なあ、キミ。
「口からついて出たのは、思っていたのとは全く違う言葉だった。俺は家の前に佇む男の子の目を真っ直ぐに見つめながら━━」
━━━どうか、『あの子』のことを嫌いにならないでやってくれないか?
「と、言っていた。何故、そんなことを言ったのかは分からない。言わなければならないと、何故だかその時強く思った。男の子はしばらく俺をじっと見ていた。その表情は、どこか遠くを眺めているような顔だった。緩やかな風が、お互いの前髪を揺らす。それにつられるようにして━━」
━━━男の子の目から一筋、涙が零れ落ちた。
「男の子は俺に向かって一礼し、今度こそ家に入って行った。・・・今でも時折考える」
━━━男の子はどうして、あの時涙を流したのだろうか?
「男の子が中に入ると、家族と思しき人たちの安堵の声が次々聞こえてきた。誰かさんと違い、やはりちゃんとした両親の元で育った子らしい。それを確認し、俺は男の子の家からゆっくりと背を向けた。と━━」
━━━すぐ側の電柱に、陽炎のように揺らめいている『何か』が見えた。
「その『何か』は、曇りガラスの向こう側にいるかのように輪郭がぼやけている。しかし━━」
━━━死んだ鴉の羽根ような暗い光沢の黒髪と、血のように赫い眼。
「それが、はっきりと見えた。俺はその陽炎を眺めながら、『あの子』の名前を口にした」
━━━伽菜。
「俺が名を呼ぶと、陽炎は小さな蝋燭の炎のようにすうっと消えた。『あの子』が今更どういうつもりで俺の前に姿を現したのかは分からない。『道』も『痕』も消え失せていたが、『あの子』はまだ生きているという確かな確信が俺の胸にはあった。そして、それは俺の妄想や願望の類では決してなかった。俺は電柱の影を見つめ続ける。確かにそこにいた、『あの子』に語りかけるように」
━━━まだ、終わりではないんだな。
「『あの子』が今どこにいるのか、何をしているのか、何をするつもりなのかは分からない。だが━━
━━━次に伽菜がどこに現れるのか、それは、はっきりと分かった。




