番外編『宮本さんと風間さん⑦』
「・・・菜々子は、俺と出会った時には、もう心が壊れてしまっていたんだ。修復が不可能なほどにな」
『おじさん君』と呼ばれる男は、そう言って、項垂れながら長い前髪をかき上げた。
「・・・」
宮本静佳は、そんな男の姿を見つめながら、内心の動揺を必死に押し殺していた。
風間菜々子が、半グレの類とはいえ、無関係の人間を刺そうとしていたことも衝撃だったが、それ以上に宮本静佳を深く動揺させたのは、先の男の言葉だった。
━━━風間菜々子の心は、もう修復不可能なほどに壊れてしまっている。
そんなわけがあるか、と、宮本静佳は握る拳に力を込めた。
「・・・アンタのようなろくでなしが、あの子の心のことを勝手に決めつけないで」
宮本静佳は、絞り出すような声で、そう言った。
男は長い前髪の隙間から、陰鬱な眼を覗かせている。
「決めつけているわけじゃない。言っただろう? 俺は知っているんだよ。菜々子と同じ目をした女の子をな」
「アンタが誰のことを言ってるのか知らないけど、アンタは菜々子ちゃんとその子を勝手に重ね合わせて、勝手に決めつけてるだけでしょうが。アンタのそれは、ただの思い込みよ」
宮本静佳が言い切ると、男は「ふっ」と薄く笑った。
「何がおかしいの? 私、今何か面白いこと言った? ねぇ? 何か言ったかしら?」
「気色張るな。笑ったのは悪かったよ。ただ、『同じだな』と思っただけだ」
「何がよ?」
「昔の俺とだよ。現実を認めることが出来なかった。サインも予兆も腐る程あったのに、そのすべてに目を瞑った━━瞑ってしまった」
男が、宮本静佳と目を合わせる。
━━━アンタだって、本当は分かっていたんだろう?
そう、問うてきた。
ふざけるな、と怒声を発するのに、一瞬の間を要した。
その、自分でも予期せぬ無意識の空白が、宮本静佳に続く言葉を飲み込ませる。
でたらめだ、戯言だ━━頭の中で、その言葉が踊り狂っている。しかし、頭の芯の芯では、男の言葉に納得してしまっている自分がいた。
ずっと、変だとは思っていた。
風間菜々子が不良や半グレの類をじっと見つめているのを、宮本静佳は何度も目にしている。それを彼女は、風間菜々子が『怯えているから』と解釈したが、果たして本当にそうだったのだろうか? 本当に怯えているなら、普通は目を背けるか、逃げるかするのではなかろうか? 恐怖で立ちすくんでしまい、目を動かすことも出来なくなってしまっている? あり得る解釈だ。宮本静佳は、ずっと『そう』だと信じていた。しかし━━
どうして、風間菜々子は不良や半グレをそれほどまでに恐れる必要があるのだろうか?
彼女は不良のろくでなしに弟を殺され、そのせいで世間から謂れのない誹謗中傷を浴びせられ、心に深い傷を負った。そのせいで人間自体に恐怖するというのなら理解出来るが、彼女が恐怖している━━恐怖していると思っていた対象は、不良や半グレの類のみだった。確かに、彼女の弟を殺したのは不良であるが、風間菜々子自身は、直接的に連中に何かをされた訳ではないのだ。理由とするには弱い。
なら、あれはいったいどういう心理から成る行為だったのか?
怯えや恐怖ではないのだとしたら、それは━━
煮えたぎるような、憎悪と怒りの発露。
「・・・」
いつの間にか宮本静佳の頰に、汗がつうっと一筋、流れていた。
今までずっと見て見ぬフリをしてきた風間菜々子に対する違和感。それをピタリと言い当てる答えを得たような気がして、宮本静佳は全身の血管が収縮するような恐怖を覚えた。
「・・・セキセイインコ共をボコった後、俺は残った連中に介抱を任せてさっさとその場を後にした。取り上げた包丁は買い物袋の中に放り込み、菜々子のことは見向きもしなかった。正直に告白すると、俺はあの時怯えていたんだ。ただ買い出しに出かけただけのはずだったのに、気付いたらERで重症患者を前にメスを握っていたような━━そんな気分だった。俺には患者を助けるだけの手段があった。しかし、それは━━」
━━━相手に、重い代償を支払わせる結果になる。
「俺はな、婦警さん。あの時、名前も知らない、顔も見たことのない、今日会ったばかりの女の子の人生を決定的に左右するような、そんな重い決断を迫られていたんだよ。・・・俺はその決断から逃げようとした。アンタはさっき、俺のことを『菜々子と誰かを勝手に重ね合わせている』と言ったよな? その時の俺も、そうだと思っていた。『あの子』と似ているような気がしたのは単なる俺の思い込みで、俺のような人間のクズが手を差し伸べなくても、菜々子の周りにいる誰かがきっとこの子の人生を正してくれる━━。そう、自分に言い聞かせていた。つい先程、菜々子は見ず知らずの半グレ共を刺そうとしたっていうのにな。あの子の人生を正してくれる『誰か』が本当にいるのなら、こんなことにはなっていないはずなんだ。そんなことは少し考えれば分かることなのに、俺は思考を放棄して歩き続けた」
━━━しばらくして、後ろから服を掴まれた。
「振り向かなくても、それが誰なのかは分かっていた。俺の服を掴む手は小さかった。菜々子が俺を追いかけていたのは分かっていた。分かっていたのに、撒くようなこともせず放置していたのは、自分でも理由がよく分からない。俺は立ち止まり、なるべく強い言葉で追い払おうとした。しかし━━」
━━━菜々子は助けを求めるような表情で、俺の服を必死になって掴んでいたんだ。
「それを見て、俺は何も言えなくなってしまった。ただ阿呆のように突っ立って、こちらを見上げる菜々子の顔を見つめていた。俺はその時、いったいどんな表情を浮かべていたんだろうな? あの子のガラス玉みたいな瞳に、俺を案ずるような色が浮かんだ」
━━━大丈夫?
「まるで病み上がりのように、ひどく掠れた声だった。けれど、その声を聞いて、俺は不覚にも涙を流してしまった。馬鹿みたいに聞こえるだろうが、俺は人から優しい言葉をかけてもらったのが嬉しかったんだ。胸の奥の奥から、すり減って消えてしまったとばかり思っていた感情が鉄砲水のように湧き出てきて、俺はそれをどうしても抑えることが出来なくなってしまった。・・・婦警さん。アンタは俺のことをろくでなしだと言ったが、それは正しい。正しいが、間違ってもいる」
━━━俺は、アンタが思っているよりも遥かに罪深い男なんだよ。ろくでなしという言葉では片付けられないほどのな。
パチリッ、と、何かが小さく爆ぜる音がした。
「俺の地獄行きはガキの頃から決まっている。だから、俺はこの先一生、誰かに優しい言葉をかけてもらえることはないだろうと思っていた。けれど、俺が今まで出会ってきた奴らは、変わり者だらけだったがみんないい奴らで、俺のようなろくでなしにも優しくしてくれた。くっそったれ共が作った家畜小屋のような環境だったが、俺はあの場所を愛していたんだ。例え家畜だとしても、ずっとずっとここにいたいと思えるほどに。でも━━」
━━━先生も薫も沙月さんも他のみんなも、みんなみんな、いなくなってしまった。
「『班』で残ったのは、あの時いなかったリンとオトと円香、そして、無様に生き残ってしまった俺だけだった。こんなことがあっていいはずがないと思った。俺みたいなのが生き残って、他のみんなが死んでしまうなんて、そんなことはあってはならないと思った。こんなのは間違いだ。間違いは正さねばならない━━。俺はあの時、すべてを捨てて復讐に生きる決意をした。しかし、その結果━━」
━━━俺は『あの子』に、決して開けてはならない地獄の底の底にある扉を開けさせてしまった。
「自分に価値などないと、ガキの時分から弁えていたはずなのに、俺はあの時、自分自身に対するすべての感情がすっと消えてしまったのを感じた。笑える話だ。自分に価値などないとのたまっておきながら、腹の底では、俺はまだ自分自身を見捨ててはいなかったんだ。それに気付いた時、俺は自分のことを殺してやりたくなるくらい憎らしくなった。いっそ腹でも斬ってやろうかと思った。しかし、自分の腹に突き立てた刃をどうしてもそれ以上先に押し進めることが出来ない。命が惜しかったわけじゃない。俺がここで死んだら、誰が『あの子』を止められる? 『あの子』が『何』になってしまったのかを分かっているのは世界で俺しかいないんだ。その俺が死んだら、誰が『あの子』が『次の扉』を開くのを止められるというんだ━━」
━━━そこまで考えた時、俺は刀から自然に手を離していた。
「それから、俺は息をしているだけの糞袋になった。初めの頃は、廃屋に片足を突っ込んだような雑居ビルを根城にしていたが、次第にそんな場所すら耐えられなくなった。いつの間にか、俺は人間の気配そのものに苦痛を感じるようになってしまったんだ。俺が今すれ違った人間は、もしかしたら俺と『あの子』に、大切な誰かを奪われてしまった人なのかも知れない。・・・あの日━━」
━━━空に巨大な赫い眼が浮かんだあの日、『ベルゼブブの十三秒間』の間に連れて行かれてしまった数百万の人間の中に、この人の家族も含まれているかも知れない。
「そう考えると、もう駄目だった。俺は住処を人里離れた山奥に移した。打ち捨てられた山小屋や獣の住処のような洞穴の中で、俺はほぼ一日中、『あの子』の『道』を追っていた。『ベルゼブブの十三秒間』の後、自分のことを棚に上げて『あの子』を責めてしまった俺は、『あの子』から見限られてしまった」
━━━アナタは、もういい。
━━━アナタは所詮、※※※だもの。
「そう言って、『あの子』は何処かへ姿を消した。同時に、俺としっかりと繋がっていたはずの『あの子』の『道』も途切れてしまった。だが、途切れはしたが、『痕』はまだかろうじて残っていた。俺はその『痕』を追った。それは、都会のアスファルトの中から一人の足跡を探し出すような無謀な試みだったが、構いはしなかった。俺がやれることなど、最早それくらいしか残っていなかったからだ。そうして、俺は何年も山奥に篭り、『道』を通じて『あの子』の姿を捜そうとした。大昔の密教の修験者のように、俺は各地の山々を渡り歩き、その土地の『力場』に座して『あの子』の痕跡を探る━━そんな生活を長く続けた。そうして時間も曜日の感覚も消え失せ、今が西暦何年なのかすら分からなくなった頃、失っていたはずの『あの子』との『道』が、ある日いきなり繋がった。その瞬間━━」
━━━恐ろしいほどの『力』が、大量に流れ込んできた。
「全身の血管が爆発したかと思った。咄嗟に『道』を外せのは運が良かったとしか言いようがなかった。俺は血反吐を吐きながらその場にうずくまり、意識を失わないよう己の舌を強く噛んだ。手には、先程外した『道』がまだ残っている。いったい如何なる手段を得たのか、あの子の『力』は、俺と繋がっていた時とは比較にならぬほど強くなっていた。とっくに切り捨てた残骸のような『道』にさえ、強力な『力』が逆流してくる程に。空を見上げると、すべてが墨のように黒く塗り固められていた。星も見えなければ雲も見えない。そして、まだ暑さを感じる時期だというのに、真冬のように空気が冷え切っていた。俺の吐く息に白いものが混じっている。あの時と、すべてが同じだった」
━━━『ベルゼブブの十三秒間』
「俺は一刻の猶予もないと判断した。『あの時』ですら、たった十三秒の間に人間が数百万人も連れて行かれたんだ。今の『あの子』━━以前とは比較にならない『力』を手にした『あの子』が再度『門』を開いてしまったら、今度はいったい何人が犠牲になるのか想像もつかない。俺は覚悟を決めた。俺が掴んでいる『道』は、『領域』に繋がっていた。それが『天』なのか『冥』なのかまでは分からなかった。だが、どちらであろうとも大した違いはない。『鬼座頭』のような特殊な血筋なら話は別だが、俺のような凡百の生まれでは『領域』に入ればタダでは済まない。運が良ければ肉体が爆散して死ぬだけで済むが、悪ければ精神だけの存在になって未来永劫『領域』を彷徨い続ける亡者となってしまう。そんな場所に踏み込もうとして、怖くなかったかと言われれば嘘になる。俺の身体は震えていた。だが━━」
━━━『あの子』に、これ以上罪を重ねさせるわけにはいかない。その一心で、俺は『領域』の中に飛び込んだ。
「飛び込んだ瞬間、全身の細胞を針で突かれたような激痛が走った。前後どころか、上下の感覚すら消え失せていた。『あの子』を止めるどころか、俺はその場から一歩を踏み出すことさえ出来なかった。ただされるがまま、肉体と精神と魂を『領域』のバケモノどもに蹂躙され続けた。意識だけは保てていたのは俺の意地だったのか、それともバケモノ共の趣味だったのか。だがそれも、消えかけの蝋燭の火のように吹き飛ばされようとしていた。もがくことすら許されなかった。ここまでか、と俺が諦めかけたその時━━」
━━━不思議なことが起こった。
「不思議なこととしか言いようがなかった。アレが━━『アイツ』がいったい何なのか、俺は未だに理解出来ない。俺は『アイツ』にバケツの中の雑巾のようにバケモノ共の群れから雑に引っ張り出され、地面に放り投げられた。何が起こったのか理解出来ずに混乱する俺の目の前で、『領域』のバケモノどもが『アイツ』に群がっていく。その全てが、『アイツ』に触れようとするなり、雪像のように簡単に爆散していった。まるで末期のポン中が製作した子供向けのアニメのように、それはあまりにも出鱈目過ぎる光景だった」
━━━1分も経たないうちに、周りで動いているものは俺たちだけになった。
「呆気に取られる俺の前で、『アイツ』は首をキョロキョロと動かしながら何かを探し始めた。その背中には、緊張感というものがまるで感じられなかった。場所が場所でなければ、かくれんぼか缶蹴りでもやっているのかと思うところだ。声をかけるべきかどうかはかなり悩んだ。相手は得体が知れないにも程があるし、何より今見た光景が現実であるとは到底信じられなかった。これは今際の際に見る幻覚の類ではないのか? 本気でそう思っていた。しかし、全身を覆う激痛が、これは現実であると教えてくれている。俺は意を決して、『アイツ』に声をかけようとした。その瞬間だった。『アイツ』は俺に背を向けたまま、明後日の方向を指差した」
━━━あっちに誰か倒れてるから、拾っといて。
「俺は『は?』と間抜けな声を上げ、『アイツ』が指差した方を見やった。その先は、遥か彼方まで薄暗い空と地平線が広がっており、何の姿も見当たらない。何を言ってるんだ、と声をかけようとしたら、『アイツ』はまるで路上の石ころを蹴り飛ばすような動作で、何もない空間を突然蹴った」
━━━瞬間、ガラスが割れるような音と共に、空間にヒビが入った。
「その先に広がっていたのは更なる地獄だった。俺が今まで地獄の底だと思っていた場所は単なる水溜りに過ぎなくて、空間の裂け目の向こうには、真の地獄が渦を巻いて待ち構えていた。中に入ろうなどという気は欠片も起きなかった。『そこ』を目にするだけで精神が削がれた。そんな地獄の中に━━」
━━━『アイツ』は、いとも容易く入って行った。
「俺は阿呆のように立ち尽くし、見ていることしか出来なかった。『アイツ』が中に入ると同時に、空間の裂け目は消えた。後にはただ、荒野のように寂しい世界が広がっているだけだった」
━━━しばらくして、俺はゆっくりと歩き始めた。
「向かう先は、『アイツ』が指差した方角だ。正直立っていることすら厳しい状態だったが、何故だか行かねばならないと強く感じた。俺は足を引き摺るようにして歩を進める。かなり長い時間、歩き続けた。しかし、行けども行けども何の姿も見当たらない。あるのは虫一匹存在しない死んだ荒野と、毒々しい赤紫色の空だけだった。ここが『天の領域』なのか『冥の領域』なのかは分からなかったが、とにかく寂しい場所だった。俺は子供の頃、夕焼けを眺めていると酷く不安な気持ちになることがあったが、この時の俺は、久しぶりにその不安を思い出していた。と、同時に━━」
━━━俺は、沙月さんのことを思い出していた。
「あの人は『鬼座頭』の血族だった。彼女は自分のことを『落ちこぼれ』だと言っていたが、それは絶対に間違いだ。『鬼座頭』の世界では、『領域』から一度でも生還出来れば天才、二度生還すれば歴史に名を残すと言われている中で、沙月さんは七度潜って七度生還した。しかも、ただ生還するだけでなく、あの人はいつも強力な『道』をしっかり掴んで還ってきた。その『道』のおかげで、俺たちは何度も絶対絶命のピンチを乗り切ることが出来たんだ。けれど当時、俺たちの誰もが━━先生ですらも━━沙月さんの異常な天才性をまったく理解していなかった。・・・知らなかったんだ」
━━━例え『鬼座頭』といえど、『領域』に入って無事に還って来れる者など、百人に一人もいないのだということを。
「それを知らない俺たちは、沙月さんが還ってくることを普通のことだと勘違いしていた。沙月さんは『領域』から還ってくると、酷く疲弊していた。無理をしているのはみんなが分かっていた。・・・分かっていたが、分かっていなかった。沙月さんは、俺如きが想像も出来ないような無茶をして、俺たちのことを助けてくれていたんだ。そのことが、『領域』に足を踏み入れて初めて分かった。怖かったろうに、痛かっただろうに、沙月さんは俺たちを助けるためにこんな地獄に八度も潜ってくれたんだ。沙月さんがいてくれたおかげで、俺たちは誰一人死なずにやってこれた。それがどのような『無茶』の上に成り立っているのか誰も何も理解していないまま俺たちは戦い続け、そして、生き残ってしまった。まるで追放系の異世界モノに出てくる間抜けな勇者パーティのようだった。自分たちの成功のすべては主人公の力のおかげであることに気付かず、『自分たちは強い』と勘違いして天狗になっている━━あの頃の俺たちは、そんな風になってしまっていた。勿論、俺たちは沙月さんを冷遇したり、傷つけるような真似は一切していない。みんなが彼女のことを気にかけていたし、感謝もしていた」
━━━だが、言ってしまえばそれだけだった。
「あの時、俺たちが本当にするべきだったことは、沙月さんをこれ以上『領域』に行かせないようにすることだったんだ。だが、『領域渡り』の恐ろしさを知らない俺たちは、彼女を強く止めるようなことをしなかった。歪んだ成功体験を重ね過ぎた俺たちは、沙月さんに依存し、次第に分不相応な夢まで見るようになってしまったんだ」
━━━もしかしたら、使い捨ての道具のような人生から脱却出来るかもしれない。
「あの頃の俺たちは、それが出来ると本気で思っていた。沙月さんの『力』があれば、『上』の奴らを見返すことが出来ると本気で信じていた。使い捨ての道具はどこまで行っても使い捨てでしかないのに、俺たちは全員が浮かれてしまっていて、現実が見えなくなってしまっていたんだ。・・・だが一人だけ、俺たちの中で浮かれていない奴がいた。それが、薫だった」
━━━『上』の奴らの言いなりになるのなんかやめて、いっそみんなで逃げられるところまで逃げてみないかい?
「薫は俺たちの中で一番気配りの出来る奴だった。だから、沙月さんが俺たちが思っている以上の無茶をしていることに薄々勘付いていたんだと思う。それ故の、無謀な提案だったんだろう。魅力的だが、それは不可能な話だった。『上』の連中は何より面子を重んじる。例え使い捨ての道具とはいえ、逃亡者を赦すことなど絶対にない。地の果てまで追いかけられて、全員殺されるのがオチだ。俺がそう言うと、薫は反論するようなこともせずあっさり引いた。あの時、アイツはいったいどんな気持ちだったんだろうか? 薫は頭の良い奴だったから、俺の言った程度のことなど百も承知だったはずだ。承知して尚、そんなことを言ったということは、きっとアイツには、俺たちが見えていない『先』が見えていたのだろう」
━━━結果として、薫が正しかった。
「例え破滅しか待っていないのだとしても、あの時逃げてしまっていた方が、俺たちはいくらかマシな最後を迎えられたと思う。・・・破滅の第一歩は、それからすぐにやってきた。あの日、俺たちは未だかつてないほどに追い込まれていた。戦いの最中に円香が重症を負い、俺たちは総崩れになった。すでに一度潜っていた沙月さんが八度目の『領域渡り』を強行してくれたおかげで、何とか窮地を脱することは出来たのだが━━」
━━━沙月さんは、還ってこなかった。
「『領域』はひどく寒い場所だった。冬の寒さとは違う、肉体ではなく魂を凍させる空気に支配されていた。俺は果ての見えない荒野を彷徨い歩きながら、いつの間にか涙を流していた」
━━━沙月さんはまだ、この場所に囚われているのだろうか?
「それを思うと涙が止まらなかった。『領域』は、死ねれば幸運と呼ばれるような場所だ。もしも、あの日還ってこなかった沙月さんが、まだこの場所を彷徨い続けているのだとしたら、何としてでも見つけてあげたい、助けてあげたい。そうしてあげたかった。・・・だが、俺にはそれが出来る手段が何一つない。慣れ親しんだ無力感が、絶望と一緒になって襲ってくる。俺の人生は、無力感にすべてを支配された人生だった。何も出来ない、何の才能もない自分を変えたくて、『力』を得ようと死ぬ気でもがき続けてきた。だが、もがけばもがくほど、何かが狂い続けていく。そうして、新しい絶望と無力感がやってくる。その繰り返しだ。俺はその『狂い』を、ただの一度も正すことが出来なかった━━」
━━━身体が、ひどく重い。
「もう、このまま倒れ伏してしまいたかった。俺のような負け犬の死に場所に、この何もない寂しい地獄はひどく似合っているような気がした。だが頭とは正反対に、身体は動くことをやめなかった。足を引きずりながら、俺は『領域』を歩き続けた。何かが俺の足を動かしていた。心の中に何か小さくて固い芯のようなものが出来ていて、それが俺の歩みを止めさせてはくれなかったんだ。それが何なのかは自分でもよく分からない。強いて言語化するなら、『意地』に近かったように思う。何に対する意地で、誰に対する意地なのかも分からなかった。けれど、ここで歩みを止めてしまったら、自分の人生が本当に無価値なものになる気がして、俺は歯を食いしばって歩き続けた。そうして、どれほどの時間が経ったろうか」
━━━前方に、何かが見えた。
「明らかに人間だった。それを目にした瞬間、俺は呆然と立ち尽くしてしまった。しかし、すぐに我に帰り、その子の元へ駆け寄る」
そこに倒れていたのは、幼い男の子だった。




