第三話 『月島さんとごへいもちん①』
ある日の朝のこと。登校してきた僕は、学校の総合掲示板の前に人集りが出来ているのを見つけた。何だろうと思い見てみると、そこには━━
『二年生 柳田おれんじ
同 風間菜々子
両名を停学処分とする』
という張り紙が貼られていた。
それを見て、僕は「ふーん」という感想しか湧いてこなかった。あの二人が停学になったところで、さほど驚くことではない。仮に広域指名手配になったと聞いても、たぶん「ふーん」としか思わないだろう。
しかし、周りはそうではないらしく、ガヤガヤと何事かを騒ぎ立てている。
「柳田ちゃん、どうしちゃったんだろう。大体想像つくけど」「柳田さんはともかく、風間様まで・・。あ、でも、あの方は割と頻繁に停学になる方でしたわね」「メシウマだぜ!!」「でも、柳田さんと風間さん二人いっぺんに停学になるのって初めてじゃない? 柳田さんの場合は、大体月島さんとセットだけど」「風間さんが停学になる時って、いつも校門の前に警察っぽい人が立ってるんだけど、今日はいないな」「うめぇや!! うますぎてふりかけが欲しいや!!」「時代はやっぱり、やなかざなんだね! こいつぁ、てぇてぇや!!」
・・・前言撤回。みんなも、大体同じ感想らしい。まあ、あの二人は定期的に問題を起こしては停学になるのを繰り返している人たちなので、当たり前といえば当たり前なのか。
僕は人集りに背を向けて歩き出した。若干名、SNSで5回くらい垢凍結をくらってそうな人が混じっていたが、彼ないし彼女は、何か嫌なことでもあったのだろうか? 関係ないしどうだっていいのだけれど、その生き方は地獄行きの特等席だぞと心の中で呟いて、僕は柳田さんと風間さんのことを頭の中から追い出した。朝からあの二人のことを考えるのは、精神衛生上、あまり良くないからである。
「・・・」
しかし、数歩も歩かない内、僕は違和感を感じて歩みを止めた。
振り返ってみたが、そこには先程の総合掲示板の前でたむろする人集り、今しがた登校してきたばかりの生徒たち、朝練の帰りっぽい体操服を着た部活生たち、『常在戦場』と書かれた赤い鉢巻を巻いて天下国家について大演説している留年生、全身を赤く塗りたくって思春期の妄執を身体で表現しているよくわからない人・・それくらいしか見えなかった。誰も僕の方を見ていない。先程の違和感は、誰かにじっと見られている時のもののように思えたのだが・・。
「気のせいか」
僕は苦笑し、視線を戻した。しかし━━
「・・・」
思わず仰け反ってしまう。いつの間に忍び寄ってきたのだろう。目と鼻の先に、見知った女子の顔があった。
「・・・」
恐ろしいと感じる程に美しい女子だ。流れるような黄金色の長髪に、陶磁器のように白い肌。吸い込まれそうなくらい大きな緑色の瞳が、僕の顔面をじっと見据えている。
ただし、その目には「ころすぞおまえ」と書かれていた。
僕は引き攣った笑みを浮かべながらそっと仰け反り、彼女の名前を口にした。
「お、おはよう・・月島さん」
「・・・」
返事はもらえなかった。
代わりに、無言で向こう脛を蹴られた。
※
月島のの子。
我が土井山高校には、世界に通用すると言われる十人の美少女━━通称・土井山十傑が存在する。月島さんはその一人である。
しかも、ただの十傑ではない。
土井山十傑の中で、特に容姿が神懸かっている三人を『土井山三大天』というのだが、月島さんはその三大天の一人である。ちなみに、本日晴れて停学になった柳田さんも三大天の一人である。ただ、同じ三大天とはいえ、何故かこの二人は壊滅的に仲が悪く、何かにつけては喧嘩になり、去年の文化祭のミスコンみたいな事件を引き起こしては停学になるのを繰り返しているのだ。
どうせまた月島さんと揉めたのだろうなと思っていたのだけれど、彼女がこうしてここにいるということは、今回の件には、月島さんは無関係らしい。
じゃあ、柳田さんはいったい何をやらかしたのだろうか?
僕はいかんいかんと頭を振った。どうせロクでもないことに決まっているのだ。精神の衛生のためにも、柳田さんのことを頭から追い出さなくては━━
僕は自分自身を落ち着かせるため、ゆっくりと深呼吸をした。
と、同時に、お尻を思い切り蹴られた。
思わずつんのめる。ポケットに入れた僕のスマホがぴろりんと鳴った。お尻をさすりながら画面を見やると、
『みかん畑。お前今、柳田のこと考えてたよね?』
と、書かれたリャインが届いていた。送り主は月島さんになっていた。
何で分かったんだろう。そして、僕は何故蹴られたのだろう?
「・・・」
後ろを見やると、「ころすぞおまえ」という殺意100%の眼差しを向ける月島さんの姿があった。
どういうわけかこの頃、月島さんはこんな風になってしまった。
一切、会話をしてくれない。会話をしてくれないが、何かにつけて僕の前に現れ、こうしてガンを飛ばしてくる。そして何か言いたいことがあると、今のようにリャインを送ってくるのだ。
何が原因か不明だが、月島さんはひどくご機嫌斜めだった。
心当たりはない。
そこそこ長い付き合いだが、こんなに不機嫌な月島さんを見るのは初めてのことだった。
月島さんとは、中学の頃からの同級生である。
向こうはどう思っているか知らないが、僕は彼女のことを、不思議な縁で結ばれた友達だと思っている。
中学二年から高校二年の今に至るまで奇跡的な確率で同じクラスになり続け、席替えでも毎回隣の席になる。お前何かしてるだろうと月島さんのシンパに幾度となく絡まれたが、神に誓って僕は何もしていない。これを不思議な縁と呼ばずして何と言うのだろうか?
一度、僕はこの不思議な偶然について月島さんと話してみたことがある。
「僕たちって、何か不思議な縁で結ばれてるのかもね」
しかし、四畳半に三人で生活してる売れないホストみたいなことを言ったのが不味かったのか、月島さんに激ギレされてしまい、長時間に渡り殴る蹴るの暴行を受けてしまった。あの時は、一生分の「キモい」という言葉を聞いた気がする。それから一週間くらい、月島さんは口をきいてくれなくなってしまった。丁度、今みたいに。
ぴろりん、という音が鳴った。
スマホを開くと、
『今日、学校サボるから、お前も来い』
と、書かれたリャインが届いていた。
僕は振り返り、リャインの送り主を見やった。
「・・・」
その目には、「ころすぞおまえ」というメッセージの他に、「何か文句あんのか?」というジャイアリズムが追加されていた。
「・・・わかったよ」
僕は諦めて首を縦に振った。本日何度目か分からないため息を吐こうとすると、同じく本日何度目か分からない向こう脛キックが飛んで来た。声にならない叫びを上げつつ蹲ると、再びスマホがぴろりんと鳴った。
『何で敬語じゃないの? バカなの? ミドリムシなの?』
流石にちょっとひどくない?と思い月島さんを見上げたが、先程よりも不機嫌さを増している表情を見て、僕は言葉を引っ込めた。
「・・・はい、分かりました」
涙を飲んで立ち上がる。理不尽の権化が、今ここに顕在していた。
※
始業のチャイムが鳴った。
しかし、僕は何故か、教室ではなく保健室の前に立っている。
「・・・」
僕の後ろには月島さんが立っていて、例の如く不機嫌な表情を浮かべていた。月島さんに従って学校を出ようとした所、ガトリング銃もかくやという勢いでお尻を蹴られたので、どこか寄りたい所でもあるのと訊くと、
『学校出る前に、用があるから保健室へ行け』
というリャインが届いた。お尻を蹴る前に言って欲しかった。
そんな訳で、僕は今、保健室のドアの前に立っている。
失礼しますと一声かけてドアを開けると、微かに消毒液とタバコの匂いがした。
世界広しと言えど、保健室でタバコの匂いがするのは、ここ土井山高校の保健室以外存在しないのではなかろうか? というか、存在しないでほしい。
「んあ?」
タバコの匂いの元は、キャスター付きの椅子の背もたれにこれでもかと言わんばかりに上半身を預け、まるでイナバウワーのような格好でタバコを吹かしていた。あくび混じりに背伸びをすると、口から綺麗なドーナツ型の煙が一つ二つゆっくり天井へ登っていった。この人、保険医なんて辞めてこれで食っていけばいいのにと思っていると、匂いの元はやる気のやの字もないだらけた目線をこちらに向け、「はっ」と鼻を鳴らした。そして、
「ガキども。保健室はヤリ部屋じゃねぇんスよ? ヤることヤりてぇなら、ケチらずにちゃんとホテルに行け、ホテルに」
と言って、しっしっと手を振った。
「ぐぇ」
今日一の威力でお尻を蹴られた。
思わず四つん這いになって後ろを見やると、能面のような無表情の月島さんが高橋名人もかくやという指の動きでスマホをいじっていた。ぴろりんという音が鳴る。リャインを開くと、小説投稿サイトで一撃BANをくらいそうな禁止ワード&差別用語てんこ盛りの罵詈雑言が、画面全体を埋め尽くしていた。初級英会話みたいな感じで「これは何ですか?」と訊ねると、月島さんは無言で顎を前方にくいっとやった。どうやらこの罵詈雑言を僕に読めと言っているらしい。僕がいやです、と言おうとすると、先んじてお尻を蹴られた。思わず「ひゃん」と、女の子みたいな声を出してしまう。緑ヶ丘先生はそんな僕を見てボール遊びに夢中なチンパンジーみたいに手を叩いて爆笑し、「キメェww」と言った。
この白衣を着た半グレもどきは緑ヶ丘美鈴先生といい、こんなのでも恐るべきことに土井山高校の正式な保険医なのである。そして━━意味が分からないと思うが━━僕と月島さんが中学生の時の保険医でもある。
緑ヶ丘先生が僕ら(正確には月島さんに、であるが)の進学に合わせて、中高と保険医を勤めているのには理由があるのだが、それは━━
「お嬢、もしかしてアレっスか? 初めては一人じゃ怖いから、美鈴ちゃん助けて〜ってやつっスか? いいっスよ!この不詳・緑ヶ丘美鈴、お嬢のためにひと肌脱いでやろうじゃありやせんか!! まず何やればいいっスか? やっぱ最初はエロ漫画みたく後ろに回って、お嬢のお嬢をご開帳するのがいいっスかね? ギャハハハハハッ!!」
「・・・」
月島さんは先とはうって変わってゆっくりと指を動かした。その表情は完全に人間らしさを失っており、まるで等身大のビスクドールのようになっている。それが月島さんが極大にキレている時の表情だと知っている僕は、生まれたてのマーモットのようにただ震えることしか出来なかった。
スマホがぴろりんと鳴る。
恐る恐る画面を見やると、
「こ ろ す」
と一言、シンプルな決意表明が送られてきていた。
※
緑ヶ丘先生は、土井山高校の保険医兼、月島さん専属のメイドさんという、ややこしい肩書きの持ち主である。
もっとも、メイドさんと言っても緑ヶ丘先生は料理掃除洗濯すべてダメで、月島さん曰く、九九も怪しいらしい。
じゃあ何の役に立つのかというと、これまた月島さん曰く、「腕っぷしだけは立つから弾除けに雇っている」とのことだった。
月島さんに、「それ、メイドさんじゃなくて、ボディガードっていうんじゃないのかな」と訊くと、彼女は柳田さんのような性根の腐った笑みを浮かべ、「あんな大年増がメイドとか超ウケるじゃない」と、答えた。要するに、なんか面白いから、ボディーガードではなく、メイドという扱いで雇っているらしい。
しかし、メイドさんにしろボディーガードにしろ、保険医を兼任させる意味はないのではないかと思うのだが、それは緑ヶ丘先生曰く、
「いや、何かしらの役職が無いと学校になんか潜り込めないっしょ」
とのことだった。
それを聞いて、僕は「なるほど確かに」と納得する。漫画なら、『お付きのメイドさん』という意味不明な存在でも、主人と一緒に学校に通うことが出来るのだが、現実の世界で、そんなことが出来るわけがない。そのための『保険医』というわけか。僕は、そう納得したのだが━━
「いや、出来るところは出来るっスよ? ただ、お嬢の頭じゃ、そういうのがOKな名門には百万年勉強しても受からないってだけの話で」
僕は、緑ヶ丘先生の話を聞かなかったことにした。
とかく、月島さんは、メイドさん兼ボディーガードを常に側に置いておく必要があるほどのスーパーお嬢様であり、緑ヶ丘先生は、そんなスーパーお嬢様に仕えるお付きの人というわけだ。・・・勤務態度はアレであるが。
僕は月島さんとは中学からの付き合いだが、月島さんと緑ヶ丘先生の付き合いは、当たり前だがそれよりずっと古い。
中学時代、何かの機会で緑ヶ丘先生と二人きりになった時、僕はこんな話を聞かされたことがある。
月島さんの実家はドバイでも舐められないくらいの超お金持ちで、月島さんが産まれた時は大量の使用人と構成員が上へ下への大騒ぎになった。その混乱の最中、不届なことを考える輩が現れないよう、当時は月島家の元で『拳で会話するタイプの営業職』についていた緑ヶ丘先生は、産まれたばかりの月島さんの警備に駆り出されていた。その時たまたま、緑ヶ丘先生は、保育器の中で眠る、赤ん坊の月島さんを目にした。
不思議と、目が離せなくなった。
緑ヶ丘先生には、今も昔も結婚願望はない。子どもを持ちたいだなんてカケラも考えたことがない。それにも関わらず、保育器の中で眠る赤ん坊に目を奪われてしまったそうだ。
「その後、すぐに我に帰って持ち場に戻ったっスけどね。当時は、自分の中に母性なんてあったのかよキメェなぁとか思っちゃったりしたんスけど、今になって考えてみると、あの時のアタシは母性が爆発したんじゃなくて、直感で察しちゃったんでしょーね」
━━━これからアタシは、このクソガキに死ぬほど手を焼かされるハメになる。
実際、子どもの頃の月島さんは、それはもう手がつけられないクソガキで、毎日のように癇癪を起こしては、世話係を『壊して』いたそうだ。
壊す、とは、ストレスで「ああああ」ってなる方のやつですよねと訊ねたら、緑ヶ丘先生は意味深な笑みを浮かべ、
「そんなの『ストレートな意味』での『壊す』に決まってるじゃないっスか」
という答えが返ってきた。僕は、それ以上何も聞かなかった。
とにかく、そんな調子だった幼い月島さんは、月島家に勤める世話役さんを片っ端から壊しまくり、やがて月島家からは、メイドさんも家政婦さんも消えてしまった。
月島家の『上』の方は、次に女性の構成員を月島さんの世話役に回したが、彼女たちも多少長持ちする程度で、結局は壊されてしまった。
そして遂に、月島家に勤める女性の中で、『壊れても問題ない』女性構成員は、緑ヶ丘先生のみになってしまった。
『上』はとても悩んだ。
緑ヶ丘先生は、家事育児はおろか、人間の営みに必要なことが何一つ自分で出来ないのだ。九九も出来ない。出来ることといえば、人を殴ることだけである。それだけは、誰よりもうまかったらしいが。
『上』の方では、この女に任せるくらいなら野生のボノボに任せた方がマシなのではないかという鋭い意見もあったそうだが、何やかんやの事情が重なり、結局緑ヶ丘先生が、月島さんの世話役を勤めることになってしまった。
そして、その初日に、緑ヶ丘先生は月島さんをボッコボコに分からせた。
「クッソ怒られたっスけどね。耳ほじくりながら『あ? だったらテメェらがやれや。人にベビーシッターなんてクッソ面倒なこと押し付けといて、ウダウダぬかしてんじゃねぇぞカスどもが! アタシの教育方針に文句あるなら口じゃなくて拳で言って来いよ』って煽ってやったら、アイツらマジになりやがって。半日くらいだったっスかね? 月島の屋敷にいる警護人と外からきた応援の奴ら相手に大立ち回りして、屋敷をぐちゃぐちゃにしてやったんすよ」
その間、緑ヶ丘先生にボコられた月島さんは完全に忘れら去られており、部屋の隅で水揚げされたばかりの魚のようにピクピクと痙攣していたそうである。
その話を聞いてドン引きする僕の前で、緑ヶ丘先生はタバコを吹かしながらうぇひゃははははっ!!!と反社丸出しの声で爆笑し、
「マジでウケるっすよね。アイツら二言目には『六ノ宮の姫様』・・あっ、違った。えーっと、お嬢様お嬢様って言ってた癖に、そのお嬢様が死にかけてるのをほったらかしにして、アタシとドドンパチやってたんっスから。ロクでもねぇのはどっちだよって話っスよ? ねえ?」
それは間違いなく緑ヶ丘先生の方でしょうと思ったが、口には出さなかった。
その後、緑ヶ丘先生は、月島家頭主である月島さんの祖父、そして『上』の人たちの連合軍に拘束され、コンクリートを流し込んだドラム缶に首まで沈められた。
「流石にあの時は、終わったって思ったっスけどね。でも、何でかしんないっスけど、『上の上の上』の人が急に出て来て━━」
その人の鶴の一声で、緑ヶ丘先生は助命された。詳しくは教えてもらえなかったが、緑ヶ丘先生曰く『上の上の上』の人の言葉は絶対で、たとえ月島家頭主であっても、逆らうことは出来ないのだという。
緑ヶ丘先生は儲けたと思った。
しかし、解放される際、『上の上の上』の人から条件を出された。
━━━月島のの子の世話係は続けること。
緑ヶ丘先生はざけんなと喚いた。その他大勢も似たようなことを喚いた。しかし、先にも言ったように、『上の上の上』の人の言葉は絶対で、命令が覆ることはなかったそうだ。
それを聞いて、僕はちょっとだけ不思議に感じた。
緑ヶ丘先生は、イヤなものをイヤなまま受け入れるタイプの人ではない。そういう時は、暴力で我を通すタイプの人なのに、その時は暴れなかったんだな、と。
僕は、なるべくオブラートに包んで、その疑問を訊ねてみた。すると、
「いや、普通に暴れようとしたッスよ? でも、相手側に下北沢がいやがったし、それに━━」
ふいに、緑ヶ丘先生は遠くを見つめるような目をした。短い沈黙の後、
「・・・まあ、色々思うところがあって、矛を収めたんッスよ」
という答えが返って来た。
何だか触れてはいけない話のような気がしたので、僕はそれ以上訊ねなかった。
緑ヶ丘先生がドラム缶大脱出チャレンジから無事生還した翌日、自分のせいで半壊した屋敷に悪びれもせず出勤すると、中庭に幼い月島さんが立っていた。
「・・・」
月島さんはスカートの裾を抑え、じっと緑ヶ丘先生を睨んでいた。
緑ヶ丘先生は朝食変わりのタバコを吹かしながら月島さんの顔を見つめ、「へぇ・・」と呟いた。癇癪で人間の骨を折るようなガキなどロクな奴ではない。その後の行動は、取り巻きを集めて復讐にくるか、布団に丸まってガタガタ震えるかの二択だろうなと思っていた緑ヶ丘先生は、たった一人で24時間前に自分をボコボコにした相手の前に立つ月島さんの子どもらしからぬ胆力に、少しだけ感心していた。
幼い月島さんは目に涙を浮かべ、悔しそうに唇を噛み締めている。何だろうと思い、月島さんを見つめる緑ヶ丘先生の前で、月島さんはスカートを握る手に力を篭ると、大きな声で、
「ばーか、ばーか、うんこ!!」
と、賢さゼロの捨て台詞を吐き、何処かへ走り去ってしまった。
緑ヶ丘先生はその背中をぽかんと見つめ、一拍の後、大爆笑した。
「ひとしきり腹抱えて爆笑した後、悪いことしたかなぁって思っちゃったんスよね。アタシ、お嬢に対して悪いことをしたと思ったのは、後にも先にもこれ一回きりなんスけど、思い違いでボコったのは申し訳なかったなぁって思っちゃいましたよね」
思い違い?と訊ねると、緑ヶ丘先生は「あー・・」と中空を見つめ、
「ちょっとヤな例えになっちゃうんスけど、お嬢はアタシの妹と『同じ』だと思ってたんス。だから、手がつけられなくなる前に人の痛みを教え込まないとヤバいと思ってボコッたんスけど・・」
緑ヶ丘妹とか、字面だけでもう危ない。妹さんどれだけヤバい人なんですかと訊ねると、
「一言で言うなら、サブちゃんの姉貴の同類」
その瞬間、僕の胸裏によぎったものは、到底言語化出来るものではなかった。
緑ヶ丘先生はそっぽを向き、何事もなかったかのようにタバコを吹かしている。
姉を知っているんですか、とは訊かなかった。
僕が月島さんと初めて会った時、あの場には緑ヶ丘先生もいたのだ。なら、姉さんと面識があっても不思議ではない。
「・・・」
沈黙が続く。
僕は、無言で言葉の続きを待った。
緑ヶ丘先生は、指で弾くように吸い殻を投げ捨てると、ゆっくりと口を開いた。
「・・・まあ、つまりはそういう奴ってことっスよ」
━━━人間のモノマネをしているバケモノ。
「私も最初は、お嬢もアッチ系かと思ってたんスけどねー。でもアレは、ただ単に、力が強いだけの頭の悪いクソガキなんスよ。世話役壊しまくってたのだって、面白がってやってたわけじゃなくて、単に力の加減が出来なかっただけっスからね」
「月島さんは、どう見ても姉さんと同系統じゃないでしょう・・」
「そりゃ今はそうっスよ。アタシが念入りに調教してやったんスから」
「調教て」
「調教以外の何ものでもなかったっスよ、マジで。お嬢の教育、ガチのマジで大変だったんスから」
そう言って、緑ヶ丘先生はキシシと笑った。その表情は、先程までの反社丸出しのものと違い、どことなく幼子の保護者を連想させた。
「お、噂をすれば何とやらっスね」
緑ヶ丘先生の指さす先に、月島さんの姿があった。
「丁度よかった。おーい、お嬢!!」
緑ヶ丘先生は何か白いものを手に持ちながら、学校中に響き渡る大声でこう言った。
「これー、変えのタンポンとパンツ!! お嬢は多いんだから、ちゃんと代えを・・って、あっぶね!! 何しやがるこのクソガキッ!!」
レンガブロックがメジャーリーグもかくやの豪速球で飛んできて、僕と緑ヶ丘先生の間の地面を大きくえぐった。一拍遅れて、「くたばれ!!」という月島さんの罵声が飛んでくる。腕まくりしながら上等だこのメスガキ久しぶりに分からせてやると言いながらズンズン歩いていく緑ヶ丘先生に対し、月島さんは両手で中指を立てた格好で地面に唾を吐いた。そうして、いつものように二十世紀初頭の塹壕戦もかくやの大乱闘が始まるのである。
そう、今のこの、保健室のように。
※
現在、土井山高校の保健室では、トムとジェリーをロック様とステイサムで実写化してテリファーの監督にメガホンを取らせれば多分こんな感じになるんじゃないなぁという光景が広がっている。
何も出来ない無害で無力な僕は部屋の隅に縮こまり、天敵を前にしたマーモットのようにただ震えることしか出来なかった。
長い攻防の末、月島さんが緑ヶ丘先生の足を引っ掛け、押し倒すことに成功する。すかさず月島さんはマウントを取り、右手をチョキの形にして何の躊躇もなく緑ヶ丘先生の両目に突っ込もうとする。緑ヶ丘先生はヘラヘラ笑いながら首を動かして目突きを回避した。保健室の床に月島さんの指の形をした穴が二つ開く。月島さんは眉ひとつ動かさずに指を引き抜くと、今度は右手を鉄槌の形に変えて緑ヶ丘先生の顔面に振り下ろそうとした。しかし━━
「おーっと、タンマっスよ、お嬢。コレが目に入らないんスか?」
いつの間に取り出したのか、緑ヶ丘先生の手には小さな腕時計のようなものがあり、それを月島さんの目の前でプラプラと揺らしていた。
月島さんの手が止まる。
「・・・!」
月島さんは悔しそうな顔で歯軋りすると、緑ヶ丘先生の手から腕時計のようなものを乱暴に引ったくってマウントを解いた。
そして立ち上がると、月島さんは、その腕時計のようなものをおもむろに首に巻き始めた。
僕が腕時計だと思っていたものは、どうやらチョーカーだったらしい。何でチョーカー?と内心で首を捻っていると、
「あー、痛ぇ痛ぇ。あのガキ、目ん玉ばっかり執拗に狙いやがって・・。危うくヤベェ技使うところだったじゃないっスか」
緑ヶ丘先生がいつのまにか起き上がり、僕の側に立っていた。
「何ですか、ヤベェ技って」
「んー、ざっくり説明すると、肛門に指突っ込んでマウントひっくり返す技なんスけど、聞きたいっスか?」
いいえ全然、と返すと、スマホがぴろりんと鳴った。画面を開くと、
『これどうやってつけんの?』
と、書かれたリャインが来ていた。
「あー、なんかそのでっぱりみたいなのに小さいボタンついてるっしょ? ・・・そう、それ。それを押せば勝手にベルトがしまって起動するらしいっスよ」
先程の殺し合いをダチョウ並みの脳みそで忘却し、月島さんと緑ヶ丘先生は呑気なやりとりを交わしている。
月島さんが緑ヶ丘先生に言われた通りにボタンを押すと、首に巻かれたベルトが収縮し、小さな電子音がピッと鳴った。緑色のランプが点灯する。月島さんは居心地が悪そうに首を動かし、チョーカーのベルトを爪で引っ掻いていた。チョーカーの見た目は海外の性犯罪者が足首につけるGPSに酷似していたが、首につけるということは、たぶんそういうものではないのだろう。
「月島さんがつけてるアレ、いったい何なんですか? 小型爆弾とかじゃないですよね?」
緑ヶ丘先生に訊ねてみると、
「やだなぁ、サブちゃん。そんなつまんねぇものなわけないじゃないっスか? アレは、お嬢専用に作った特注の『補声器』っスよ」
という答えが返ってきた。
僕が、補声器という聞き慣れない単語に首を傾げていると、緑ヶ丘先生は「ん?」と言った。
「あれ? もしかしてサブちゃん、ご存知なかったんスか? お嬢って今、声が出せなくなくなっちゃってるんスよ?」
その言葉の意味を理解するのに、数秒の時間を要した。
脳が意味を呑み込んだ瞬間、
「いやいやいやいや、大変じゃないですか!! 何をそんな平然としてるんですか!! 病院とか薬とかカウンセリングとか、とにかくこんな所で殺し合いなんかしてる場合じゃないでしょう!! 早く何とかしてあげないと!!」
僕が大慌てでそう言うと、
「落ち着きなって、サブちゃん。医者とかカウンセラーとか、その手の奴らにはもうとっくの昔に診せたっスよ。・・・つーか」
緑ヶ丘先生はそう言って軽く身を折り、くつくつと笑い始めた。
「誰のせいでこうなったと・・いや、サブちゃんが悪ぃわけじゃねぇんスけどね。あー、でも、やっぱ超ウケる。だって、何も分かってねぇんだもんな、サブちゃん。うっひゃっひゃひゃひゃひゃ」
面白くてたまらないという表情で笑う緑ヶ丘先生の前で、僕はポカンとしていることしか出来なかった。
━━━誰のせいでこうなったと・・・
緑ヶ丘先生はそう言ったが、僕に心当たりは全くなかった。
(月島さんが声を出せなくなった原因が僕にある?)
しかし、いくら記憶を掘り起こしてみても、原因らしい原因にまるで思い至らない。
僕は、月島さんに対して、いったい『何』をしてしまったのだろうか?
僕は思わず、月島さんに目を向ける。
しかし、目を向けようとした瞬間、ゾッとするような風切り音と共に、何かが切れる『ぷちっ』という小さな音がした。
僕の視界を、真っ白な何かが埋め尽くす。
それが、月島さんのおみ足であり、緑ヶ丘先生へ放ったハイキックなのだと理解した瞬間、今度は僕の顔面に、生温かい『何か』が覆い被さって来た。慌てて引き剥がし、そのピンクっぽい何かの正体を確かめようとすると━━
『ババアッ!! 余計なことを言うんじゃねぇにょにょん!!!』
という、場違いなアニメ声が保健室じゅうに響き渡った。
※
月島さんは言葉少なめ人で、女子にはそれなりに普通の態度で接するのだが、男子には基本的に三つの単語しか使わない。それは、
『しね』『キモい』『失せろ』
の三つである。
月島さんの男子へのあたりはひどく冷たい。その冷たさは、氷結地獄系女子と揶揄される程で、月島さんは男子に対する思いやりとか優しさとか、そういったものを一切持ち合わせていない。月島さんに告白して完膚なきまでに撃沈した男子たちが、心と身体をバキバキに折られて泣いている様を、僕はこれまで幾度となく見てきた。
「もうちょっと、こう・・手心というか、なんというか・・」
そんな場面を目にする度、僕は月島さんに、人間社会で生きていく上での心得を教え諭そうするのだが、そういう時は決まって、
「・・・」
無言で睨まれた後、みぞおち辺りにパンチが飛んでくるのだった。そして、
「しね」
という捨て台詞を吐かれる。暖かさのあの字もない、氷結地獄に生きる女子の声。
僕はみぞおち辺りを抑えながらげぇげぇと呻き、果たしてこの子が人間社会に適応出来る日は訪れるのだろうかと危惧していたのだが━━
しん、という静寂が保健室内に降りる。
僕は、目だけを動かして月島さんを見やった。
「・・・」
月島さんは、緑ヶ丘先生へハイキックをかました格好で止まっている。緑ヶ丘先生は上半身を軽くのけ反らせ、月島さんの蹴りを紙一重でかわしていた。
両者、その姿勢のままぴくりとも動かない。
今の謎のアニメ声は、間違いなく月島さんの方から聞こえて来た。
そして、アレは間違いなく月島さん自身の声だった。・・・いつもの月島さんの声に、業務用角砂糖をキロ単位で溶かしたような、甘ったるい猫撫で声ではあったけれども。
「な・・ななな・・な」
壊れたラジオみたいな音が聞こえてくる。その音源である月島さんはプルプルと震えており、顔は茹で蛸のように真っ赤になっている。
「な、なにこれ・・これ、何にょにょん? 何なんにょにょん!!!」
月島さんはひどく混乱した様子で頭を抱えている。いつもの氷のような表情は何処へやら、泣きそうな顔で右往左往している。
それは、僕が初めて見るタイプの月島さんの表情だった。
そんな月島さんを見つめながら、緑ヶ丘先生はいつかの柳田さんのような、邪悪で愉悦に満ちた笑みを浮かべている。そして、
「何って、そんなもんお嬢が一番分かってんでしょ? ごへいもちんっスよ」
と、意味不明なことを言った。
何それ?と僕が思った瞬間、突如月島さんは
「ん嗚呼ああああああああああああああああっっ!!! ・・・にょにょん」
と発狂し、自らの頭を壁に高速で叩きつけ始めた。
脳を寄生虫にやられたキツツキのようになってしまった月島さんの側をそっと離れ、僕は恐る恐る緑ヶ丘先生に話しかけた。
「あの・・月島さん、どうしちゃったんですか?」
「さあ? アタシにもさっぱりっスね」
少しも『さっぱり』ではない表情だった。この人、絶対何もかも分かってるよなと思いつつ、僕はとりあえず一番気になっていたことを尋ねてみた。
「ごへいもちんって何なんですか?」
「一言で簡潔に説明すると、V tuberっスね」
そう言うと、緑ヶ丘先生はスマホの画面を僕に見せてきた。
それは世界一有名な動画投稿サイトのホーム画面で、『上豊田ごへいもちんch』と書かれたロゴの下で、90年代の美少女ゲームみたいなやたら目の大きい金髪の女の子が笑顔で手を振っていた。チャンネル登録者数は六名と表示されていた。
「ポチッとな」
緑ヶ丘先生が、トップに置かれた動画の再生ボタンを押す。
るんるんとしたアニメ声が流れてきた。
『こんにちはにょにょん!! 私の名前は、上豊田ごへいもちんだにょにょん! チャンネル登録とSNSのフォローをよろしくだにょにょん!!』
画面の中の女の子が、ものすっごいカクカクした動きで手を振りながら、そう挨拶した。
「この声、お嬢に似てるっしょ?」
緑ヶ丘先生が、悪意の固まりのような笑みを浮かべてそう言った。似ているというより本人そのもののような気がするのだが、僕は「まあはい」と答えておいた。
「お嬢の補声器━━喉の動きを感知して付属のスピーカーから擬似的な声を出す装置のことなんっスけど、それを作る際、テンプレみたいな合成音声じゃ可哀想だってんで、どうせなら『お嬢に近い声』をサンプリングして合成音声にしてやろうって話になったんスよ。んで、アタシはちょうど、お嬢にすんげぇそっくりで、これ本人じゃね?ってくらい声がまんまのV tuberをたまたま知ってたんで、ウチのパソコンの大先生どもに紹介して、『上豊田ごへいもちん』をベースにした合成音声を作ってもらったんっスよ。いやー、それにしてもごへいもちんって、マジでお嬢に声そっくりっスよね? パソコンの大先生どもが調べたところによると、声の一致率百パーらしいっスよ? 世の中には自分に似た人間が三人いるって話っスけど、自分の声とまったく同じ人間も三人いるってことなんっスかね? ねぇ、どう思います? ごへいもちん・・じゃなかった、お嬢?」
そう言って、緑ヶ丘先生は後輩に根性焼きを入れて楽しむイカレた半グレみたいな顔をして、ウェヒャハハハハハハッッ!!!と大笑いした。
バキバキバキバキ、という物凄い音がした。
月島さんの手が、保健室の壁のコンクリートを砂場のように削り取っている音だった。
月島さんはゆっくりと動きを止め、僕らの方へ首を回す。人は「ころす」という意志をここまで瞳に込めることができるのかと戦慄する眼差しで、月島さんは緑ヶ丘先生をフルパワーの憎悪で睨みつけていた。
これは本当にあかんやつや、と思った刹那、突風が吹いた。
指を人の命を刈り取る形にした月島さんの手刀が、緑ヶ丘先生の喉元に迫っていた。
しかし、当たればさぞやエグいことになっていたであろうその一撃を、緑ヶ丘先生はやすやすと受け止めていた。
「あれ? どうしたんスか、お嬢? 技のキレが悪いっスよ? あと、お顔がお猿さんのケツみたいに真っ赤っ赤っスけど、何かあったんスか?」
「てめぇ、この野郎・・マジでこの野郎にょにょん!! お前にだけは絶対バレないように徹底的に注意してやってたのに、何でバレたにょにょん・・!!」
涙目で震える月島さんを見て、緑ヶ丘先生はデスゲームを見ながらディナーを楽しむ暗黒金持ちのような顔をしてニタニタと笑っている。
「んなもん、バレるに決まってんでしょうが。月島の家のネットなんて、スタンドアローンになってるやつ以外は全部『冥道』のパソコンの大先生どもに監視されてるんスよ? ちなみに、ごへいもちんのことだけじゃなくて、お嬢が隠してる『愛媛県』と『3×6』ってフォルダに『何』が入ってるのかも全部バレちゃってるっスからね?」
「ん嗚呼ああああああああああああああああっっ!!! ・・・にょにょん」
発狂した月島さんは土下座のような格好でその場にへたり込むと、頭を床へ激しく叩きつけ始めた。土木の基礎工事のような音と共に、床のタイルがゴリゴリに粉砕されていく。これ陥没するんじゃないのと僕が心配し始めた頃、月島さんはキッと顔を上げ、チョーカーに指をかけた。
「何だこのクソチョーカー、全然千切れねぇにょにょん!!」
月島さんは両手でチョーカーを引っ張って取ろうとしているが、びくともしない。
「そのチョーカーはお嬢の馬鹿力でも千切れないように設計されてるっスからね。ちなみに『裏』で流通してる最新の小型バッテリーを組み込んでるっスから、一年は充電なしで稼働するっスよ」
「このクソカスマジでくたばれにょにょん!! あと、この語尾何にょにょん!! 何を言ってもにょにょんにょにょんってなるにょにょん!!!」
「そりゃ、ベースになってる音声はお嬢じゃなくて、あくまでも上豊田ごへいもちんっスからね。自動で語尾が追加されるようになってるんスよ。語尾に『にょにょん』がつかないと、ごへいもちんって言えないっしょ? ・・・つーか」
緑ヶ丘先生はくつくつと笑い、
「にょにょんって何だよ、にょにょんって。しかも設定が『自分のことを五平餅の妖精と思い込んでいる万物の超越者』って・・。アタシ、お前が隠れてシャブでも食ってじゃねぇのかって割と本気で心配したんだぞ? まあ、すぐにお嬢のIQが一桁しかねぇこと思い出して、『ああ、そうだった。コイツはただのバカだったな』って安心したっスけど」
と、煽った。
「クソババアてめぇ好き放題言いやがってにょにょん!! てめぇは九九もまともに出来ねぇくせに人のIQどうたら抜かしてんじゃねぇにょにょん!!」
「アタシはお嬢と違って育ちが悪ぃだけで地頭はいいんだよ。つーか、砂利ガキの頃からどんなバカでも有名私立に受からせる一流の家庭教師を何人もつけてもらってるくせに、私立に合格するどころか万年赤点のスーパーバカがイキってんじゃねぇぞ? お前はもうちょっとこう、『バカですいません』って感じで謙虚に生きろや? 進級は毎度毎度教師のお情けと神社仏閣頼みのクソバカがよぉ!!!」
「てめぇこの野郎にょにょん・・この野郎にょにょん!! ババア!! てめぇ今日という今日はガチのマジで息の根止めてやるにょにょん!!」
再び怪獣大戦争が始まろうとしていたその時、『ポーン』と、時報みたいな音がした。
月島さんが「あ゛?」っという表情で音源のチョーカーに目を向けた瞬間、
『ごへいもちんは、キミのことが大好きだにょにょん〜』
謎のボイスが流れてきた。
「ん嗚呼ああああああああああああああああっっ!!! ・・・にょにょん」
月島さんは全身をスズメバチに刺された人みたいに、その場でゴロゴロと転げ回り始めた。
緑ヶ丘先生はそんな月島さんを指差しながら顎が外れんばかりに大爆笑している。
「そのチョーカーには隠し機能があってっスね、一日に何回か『ごへいもちんのガチ恋ボイス』が流れるようになってるんスよ。アヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!!」
「ん嗚呼ああああああああああああああああっっ!!! ・・・にょにょん」
「お嬢、お前これ販売サイトで三十万で売ってたんだってな? 三十万って何だよ、三十万って。こんな三秒そこらのボイスを登録者数六人の雑魚が三十万で捌けるわけがねぇだろうがよ? 知能低いのも大概にしろよこのメスガキが。仮にてめぇの登録者数が一億人でも三十万は無理だよ、バーーーーーカ!!!」
「ん嗚呼ああああああああああああああああっっ!!! ・・・にょにょん」
壊れかけのドリルのように悶絶大回転する月島さんと、それを見ながらゲスの極みのゲラ笑いをする半グレ保険医という地獄みたいな状況の中、僕はダラダラと汗をかきながらどうしたものかと迷っていた。
きっと、何も見なかったことにして、このままそっと保健室から出ていくのが正解なのだろう。
けれど、それを許してはくれないものが僕の手の中にある。
「あの・・あのっ!! すいませんっ!! お取り込み中のところ大変失礼致しますが、ちょっとだけ僕の話を聞いていただいてもよろしいでしょうか!!」
僕は決死の覚悟で二人の間に割り込んだ。何だよ今いいところなのに、という非難がましい緑ヶ丘先生の視線を無視し、僕は月島さんの側にしゃがみ込んだ。
「あの、月島さん・・まず最初に土下座させていただきます」
僕はゆっくり深々と、これぞ日本人の魂と呼ぶべき見事な土下座を披露する。
顔を上げると、何だコイツくそ気持ち悪いなという嫌悪を隠しもしない月島さんの顔があったが、僕はそれを無視して、彼女の前にくしゃくしゃになった『布切れのように見えるモノ』を差し出した。
月島さんは眉根を寄せる。が、すぐにそれが何かを察したらしく、かぁと頬を赤くする。
僕はその場にばっと平伏した。
「・・・さっき、月島さんが緑ヶ丘先生にハイキックを決めようとした時ですね。恐らくその時、破けてしまったものと思われます」
それは、月島さんのお下着であった。
「・・・誓って故意ではありません。破れた下着が、勝手に僕の顔面に飛んできたんです。何だか、ちょっと臭う・・あ、いや、くさいとかでは決してなくてですね・・何というか、その、濃厚でフルーティーといいますか、不思議な匂いがしたものですから・・おや、これは何だろうと思い広げてみたところ、女性の下着らしいということに気付きましてですね・・それで、その、月島さんの方を見ると、その、大変申し上げにくいのですが、あの、その、スカートの下が、どえらいことになっていましてですね、どうやらこれは大変なことになっているぞ、疾くお止めせねばと思いまして、こうして大慌てで、お二人をお止めした次第でございます・・はい」
一息にそう告げて、僕はごりごりと床に頭を擦りつける。
先程よりも深い、しんとした静寂が保健室を支配していた。
僕は滝のような汗を流しつつ、こわごわと顔を上げた。
月島さんは床に手をつき、がっくりと項垂れていた。長い髪に隠れていて、彼女が今、どんな表情をしているのかは分からない。
それが、たまらなく恐ろしかった。
「アヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!!」
しかし、この無敵の反社会性人格障害はラインを超えてしまったことが分かっていないらしく、この後に及んで腹を抱えて爆笑していた。
緑ヶ丘先生は、項垂れる月島さんの肩に手を置くと、
「マジえげつねー、サブちゃん。ホント、アンタ最高っスね!! ・・・の、濃厚で、ふ、フルーティーとか・・アヒャヒャヒャヒャ!! よかったっスね、お嬢!! こんなやべぇ男、なかなかお目にかかれないっスよ? マジでお嬢にお似合い━━」
その先を、緑ヶ丘先生は続けることが出来なかった。
月島さんは緑ヶ丘先生の手を無造作に掴む。僕が見えたのはそこまでだった。
次の瞬間、緑ヶ丘先生は床に顔面を埋められた格好で、右腕を垂直にねじ上げられていた。
一瞬遅れて、轟音と砂埃が巻き上がる。
何が起こったのかまるで見えなかったが、状態から察するに、月島さんは飛びつき腕ひしぎ逆十字の要領で緑ヶ丘先生の右腕を垂直に極めつつ、そのまま全体重をかけて顔面から床に叩きつけたようである。まるで漫画のような古流の技だ。
床に埋まった緑ヶ丘先生は、ピクピクと痙攣していた。
月島さんはゆっくりと立ち上がると、それをゴミのように横へ蹴飛ばし、僕の前に立つ。
こころなし、月島さんの周囲に陽炎のようなものが見えた。表情は、依然として髪に隠れて見えていない。
僕は、ガタガタと震えながら、もはやこれまでかと観念する。
月島さんが、ゆっくりと顔を上げた。
その下にあった表情は、生涯忘れ得ぬものだった。
「・・・え」
僕は、とてもとても、間抜けな声を出す。
「・・・う・・ひっく、ひっく・・」
月島さんは、顔をぐちゃぐちゃにして、涙を流していたのだ。
月島さんは乱暴に両手で涙を拭うと、次の瞬間、
「うぇぇぇぇえええええんんん!!!!」
と、まるで子どものように大声で泣きじゃくり始めた。
僕は、先程とは違う意味で、全身から血の気が引いていくのを感じた。
━━━これは、本当の本当の本当に、アカンやつや・・。
半壊した保健室に、女の子の本気の泣き声が響き渡る。
僕はどうしたらいいのかまるで分からず、ただただ、オロオロすることしか出来なかった。




