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第二話 『チェスボクシング部の風間さん』


 生徒会の用事を終え部室に顔を出すと、柳田が長机に座ってうんうん唸っていた。

 「・・・なにやってんの、アンタ」

 私が呆れた声を出すと、柳田は片手を上げて「おー、ななち」と言った。

 柳田おれんじ。出生届を出した際、両親が親戚数名から絶縁されたキラキラネーム。私の家の隣に住む幼馴染で、幼稚園の頃から知っている腐れ縁である。

 ななち、というのは、コイツしか使っていない私のあだ名だ。由来は、私の名前が風間菜々子で、幼い頃の「菜々子ちゃん」呼びが、年月を経て短縮された結果である。

 ちなみに、私は昔コイツのことを「みかんちゃん」と呼んでいた。しかし、小学校中学年の頃になると、自然と「柳田」と呼ぶようになった。コイツは「みかんちゃん」なんて可愛らしい呼ばれ方をしていい生き物ではないことに気が付いたからだ。

 「ななち、丁度いいところにきた。コレ見て、コレ。どう思う?」

 「は?」

 私は、何のことか分からず眉根を寄せる。柳田はしきりに自分の顔を指さして、何かをねだるような仕草をした。どうやら自分のツラを見て欲しいようだが━━

 「私の顔面、どう? いつもよりすごくない?」

 言われて見れば確かに、柳田の顔面はえらく気合いが入っていた。ちらりと長机に目をやると、化粧道具の数々が無惨な姿を晒してそこら中に散らばっている。どうやら、かなりの激戦を経たらしい。

 「気合いが入ってんな、とは思うけど・・」

 「おっ、ななちから見てもそう思う? 点数にしたらどんくらい?」

 「点数って・・何が悲しくてアンタの顔面なんかに点数付けにゃいかんのよ?」

 「そこはほら、長年私を見てきた幼馴染のフラットな意見が聞いたいわけよ」

 たぶん公平な意見という意味で聞いているのだろうが、フラットにそんな意味はないし、そもそも長年一緒にいる幼馴染の意見が公平なものと言えるのだろうか? 頭に疑問符が付いたが、説明したところで右から左に抜けるのは分かっているので黙っておいた。

 シカトしてもよかったが、餌をくれるまで一歩も引かない野良猫みたいな柳田の目を見て、私は仕方なしに答えてやった。

 「うーん・・・七、かな?」

 「七点満点中?」

 「そんなわけあるか。十点満点中の七点に決まってんでしょ。何よ七点満点って。気持ち悪い」

 「うわ、出たよA型の悪いとこ」

 「血液型は関係ないでしょ」

 私は、はああと重いため息を吐いた。

 「アンタ病み上がりなんだからさっさと家に帰りなさいよ。っていうか、もう下校時刻だってのに、こんなところでなにしてんの?」

 「ちゃらららっちゃら〜、がーんめーんこーじーいー」

 「なんだその雑なモノマネは。んなことは見りゃ分かるわよ。私が聞きたいのは、何でこんな時間に部室で気合の入った顔面工事やってんのかってこと。何のつもりか知んないけど、アンタおととい退院したばかりなんだから、せめて家に帰ってやんなさいよ」

 柳田はつい先日まで病院に入院していた。事故━━バナナの皮で滑って転んだことを事故と言っていいのか非常に迷う所だが━━に遭い、しばらく意識不明の重体だったのだ。それがつい先日回復し、今日になってようやく登校してきた。数日昏睡していたとは思えない程に健康体で、後遺症もないらしいが、大事を取るという言葉がある。私は授業の終わり際、柳田に寄り道せずにさっさと帰れと言ったはずなのだが━━

 「うーん、そうしたいのは山々なんだけど、そういうわけにはいかない理由があるといいますか・・ぱくん」

 柳田はそう言って、手元のチョコレート菓子を口に放った。ぱくんとかバカみたいだからやめろと注意しようか迷っていると、柳田はふいにお菓子の箱を私の方へやり、

 「ななちも食べる?」

 と、言った。

 「・・・」

 私はそれに答えず、黙って柳田の前に座った。柳田はお菓子を頬張りながら、上機嫌にふらふらと身体を揺らしている。

 少し、声に真剣味を持たせた。

 「・・・ねえ、アンタさ、本当に大丈夫なの?」

 「? 何が?」

 「何がって、アンタ・・」



 「私がお菓子ダメなの、知ってるでしょ?」



 私がそう言うと、柳田はお菓子を頬張ろうとした格好のまま固まり、「あっ」と言った。

 「ごめん、ななち! ホント、ごめん! わー、何でだろ? ガチで忘れてたぁ・・」

 柳田は大慌てで菓子の箱を引っ込めた。それを見て、私は益々不安を募らせる。

 「・・・アンタさぁ、病院の検査の結果大丈夫だって言ってたけど、本当に大丈夫なの? いくら何でも私がお菓子ダメなこと忘れてるなんておかしくない?」

 私のお菓子嫌いは昔からで、『ある事件』をきっかけにしている。

 それは柳田も重々承知で、『あの時』から今に至るまで、コイツが私にお菓子を勧めてくることなど無かったのだ。

 柳田は大慌てで手を振っている。

 「いや、大丈夫! ホントに大丈夫だから! コレはただのド忘れだから! ・・・私ね、昏睡してる時にちょっと『へんなこと』があってさ、それ以来、記憶が曖昧というか、へんになってるところがあって━━」

 「それを、『大丈夫』とは言わないんじゃないの?」

 自分の表情がどんどん険しくなってるのを感じる。

 柳田は困った風に頬をかき、「ホントに大丈夫なんだって・・」と言った。

 首に有刺鉄線を巻いてでも病院に引っ張っていってやろうかと考えていると、ふいに柳田が「そうだ!」と言って両手を叩いた。柳田の両目は泳いでいて、誤魔化そうとしているのは明白だった。

 「チェスボクシング部に()()()()()()()()()()を見つけたんだよ!」

 それを聞いて、私は片眉を上げた。

 私と私の上の代が無茶苦茶やり過ぎたせいで『土井山高校の帰らずの森』の悪名を持つ我がチェスボクシング部に、まさか入部希望者が現れるとは。

 「あ、違う違う。入部希望者じゃなくて、あくまでも()()()()()()()()()()だから」

 私は小首を傾げた。柳田は突然「くひひ」と奇妙な思い出し笑いをすると、

 「ちょっと前にね、『何でも言うことを聞かせられる』二年の奴を見つけたんだ。そいつなら、きっと大喜びでチェスボクシング部に入ってくれるよ?」

 と、言った。目に邪悪な光が宿っていた。

 「・・・アンタ、そいつのどんな弱味を握ってんのよ」

 「それは秘密。でもソイツは、私が『お願い』すれば、ベーリング海峡の蟹工船にだって乗るような奴だから」

 誰のことを言ってるのか知らないが、どうやらよほどの弱味を握っているらしい。本来、そんな風に人の弱味につけ込んで無理矢理言うことを聞かせるのは、私のポリシーに反するのだが━━

 現在、チェスボクシング部は部員不足で絶賛廃部の危機の真っ只中なのである。

 ちなみに柳田は部員ではない。コイツは放課後の暇つぶしに喫茶店に寄る感覚で部室を勝手に利用しているだけの帰宅部である。

 「私の代で伝統あるチェスボクシング部が潰れるのは忍びないから、正直二年の入部希望者はありがたいんだけど・・その、大丈夫なの? 『命いりません』とか、『重度の後遺症を負っても訴えません』とか、『逮捕されても部員は売らない』とか、書いてもらわないといけない契約書が色々あるけど・・」

 「大丈夫大丈夫。何かゴネたら私の名前出せばいいから。そうすれば、仮に契約書に『金一千万、借りてないけど返済します』って書いてあっても秒でサインすると思うから」

 そう言って、柳田はケタケタと悪魔みたいな声で笑った。妙に上機嫌だ。さっきから誰のことを言っているのかまるで分からないが、どうやらソイツのことをえらく気に入ってるらしい。

 ふと、私の脳内で勘のようなものが働いた。

 「ちょっと気になったんだけどさ、アンタがさっきから言ってる奴隷って、もしかして男子なの?」

 柳田は少し意外そうに目をパチクリさせ、

 「そだよ。ななち、よく分かったね」

 と、言った。

 それを聞いて、私の胸内に不思議な感情がじわりと広がった。

 「・・・ほー」

 夕飯の席で娘がやたら同じ男の子の名前を出すのに気付いた父親の気持ちというのは、こんな感じなのだろうか? 

 ほぼ毎日のように男女問わず告白され、雨後の筍のようにストーカーやそれに類するカスを生み出し続けている柳田だが、不思議と今まで誰かと交際するということがなかった。小学生の授業参観の時に「夢はGDP世界一の男の子のお嫁さんになることです!」と言って親を泣かせたこのバカが、ごく普通の女子高生のようにもどかしい恋愛に手を出す日がやってくるとは・・。私は、目頭が少しだけ熱くなるのを感じた。

 「どしたん、ななち。急に目頭なんか押さえて」

 「いや、ちょっとね・・。物凄く出来の悪い娘を送り出す親の気持ちになってた」

 柳田は眉を八の字にして「はあ?」と言ったが、何かに思い至ったのか、急に顔を真っ赤にして立ち上がった。

 「ち、違う! 違うから!! そういうんじゃないからね!! へんな勘違いしないで!!」

 「はいはい、分かってるって。ところでその男子、GDPランキング何位なの?」

 「GDPの話はやめろ!! それ私の特級黒歴史!! 誰かに話たら、例えななちでも許さんからね!!」

 「土井山どころか町内の九割が知ってるエピソードなのに何を今更・・あっ、そうそう。アンタに彼氏が出来たら、ストーカーやそれに類するカスが活発化すると思うから、今度チェスボクシング部のOBと一緒にアンタのボディガードを兼ねた『第三回 生サンドバッグ大収穫祭』やるからよろしくね」

 「だから、へんなイベントに私を巻き込むのをやめろ!! 私関係ないのに、前の時は警察の事情聴取で半日詰められたんだからね!!」

 「アレはごめんて。OBの中に血の見過ぎでテンション上がり過ぎちゃった人がいて、うっかり証拠残しちゃったのよね。今度は証拠残さないよう、うまく殺るから大丈夫」

 「何一つ大丈夫じゃない!! やるの字面が物騒!! そもそもの話、そんなイベントやるな!! OBとも縁を切れ!!」

 「それはそうと、もうヤッたの?」

 ヤッてねぇよころすぞと言ったところで、柳田が過呼吸を起こした。

 カァカァというカラスの鳴き声と柳田の悶絶する声をBGMに、私は『第三回 生サンドバッグ大収穫祭』の案内文をどうしようか考えていた。



 「・・・あー、くそっ、もう・・何で私の周りって、こんなに頭がおかしい奴が多いんだろ・・」

 呼吸を取り戻した柳田が、心底うんざりした表情で呟いた。

 私はOBからの「えっ、人を●してもいいんですか?」というメールに「好きなだけいいですよ」と返しつつ、柳田に声をかけた。

 「どうでもいいけど、アンタ化粧崩れてるわよ?」

 「うぇっ!?」

 柳田は手鏡を見ると、「マジじゃん!!」と叫び、大慌てで顔面の再構築を始めた。

 「さっきから言ってっけど、化粧なんか家でやんなさいよ。何をそんなに焦ってんの?」

 「焦らないといけない理由があんの、こっちには!!」

 「男か?」

 「・・っ、違う!!」

 答えるまでに一瞬、間があった。柳田は私から目を逸らし、白々しく鏡を見始めた。確定である。どうやら件の二年と待ち合わせをしているらしい。

 むむむ、と唸りながら真剣な表情で顔面をいじっている柳田を見て、コイツ結構本気なんだな、と改めて思った。

 「・・・ねぇ、ななち。さっきから私の方見て腕組んでうんうん頷いてるの不愉快だからやめてくんない? 何度だって言うけど、そういうのじゃないんだからね?」

 「そういうんじゃないんなら、何なの?」

 「・・・何というか、その・・あの時、八十点だったのが悔しいというか、何というか・・」

 「はあ?」

 柳田は訳の分からないことをぶつぶつ呟いていたが、やがて説明するのがめんどくさくなったのか、髪をガシガシとかきむしり始めた。

 「とにかく!! これは、その・・SNS!! SNSに自撮り上げるためにやってるの!!」

 柳田はこの後に及んで強引に誤魔化してきた。SNSは能面の上に豆腐を置いた写真を毎日送りつけてくるガチめのヤバい奴に粘着されて怖いからやめたと言っていたのに。

 「ほらっ、ななち! 撮って撮って!! 柳田ちゃんのいい感じに盛れた顔面百二十点だよ!! こんな神々しいものをタダで撮っていいなんて、私の幼馴染でよかったな!! 感謝しなさいよ!!」

 柳田は私にスマホを押し付け、クソ苛つくことを言ってきた。スマホの画面をバキバキにしてやろうと思ったが、今日は病み上がりなので勘弁してやる。

 私が仕方なしにカメラを向けると、柳田は新種の動物拳法みたいなポーズをキメ始めた。私は心を無にしてシャッターを押した。この写真に『こういうクソ女には注意しろ』と注意書きを書いてポスターにすれば、多少は頂き女子とかの被害者も減るだろうかと考えていると、ふいに柳田が動きを止めた。

 「・・・」

 柳田は、何故か自分の左下辺りを凝視していた。目線を追うが、そこには目立ったものは何もない。

 「どしたの、アンタ?」

 「ん? あー、ちょっとね・・」

 柳田の声はぼんやりしていて、どこか心ここに在らずだった。その様子を見て、先ほどの不安が再び頭をもたげる。真面目に病院に連れて行った方がいいのだろうかと考えていると、柳田は私の方を見て、

 「ねぇ、ななち。ちょっと写真見てくれない? 今撮ったやつ」

 と、言った。

 私は意図が分からず眉根を寄せる。何でよ、と聞く前に、柳田はいいからいいからとせかしてきた。

 仕方なく、私はフォルダを開いた。

 頭の悪そうな女が、頭の悪いポーズを決めている写真が何枚も続く。軽い拷問を受けている気分でカメラロールをスクロールしていると━━



 その中の一枚を見て、私の指が止まった。



 「・・・」

 固まる私の後ろに、いつのまにか柳田がやってきていた。柳田は私の背後からスマホを覗き込み、

 「・・・やっぱ写ってたか」

 と、言った。

 私はひどくぎこちない動きで柳田の方を見やった。聞きたいことは山ほどあった。でも、そのすべてが言葉になってはくれなかった。困惑する私に、柳田は優しい笑みを浮かべて肩を掴んだ。その写真には、カメラに向かってピースする柳田と、もう一人━━



 「なんで、たかしが写ってるの?」



 私は、ようやくそれだけを聞くことが出来た。



           ※


 

 私には三つ歳の離れた弟がいた。名前をたかしという。

 たかしは、私が小学校二年生の時に事件に巻き込まれて亡くなった。当時、まだ幼稚園だった。

 あの日、私はいつものようにたかしを連れて運動公園で遊んでいた。ボール遊びだったかおままごとだったか、何の遊びだったかは忘れた。その日、私たちは二人きりだった。いつもは柳田も一緒にいるのだけど、あの日の柳田は何故かずっともじもじしていて、私たちと遊びに行くのを嫌がったのだ。あとから聞いた話だが、柳田はその前日、たかしに告白されていたらしい。柳田は幼稚園の頃からしょっちゅう誰かに告白されては袖にするようなマセた子どもだったが、流石に姉弟のように育った幼馴染からの告白はキャパを超えたらしい。どう返事していいか分からず、たかしを避けていたのだ。

 今にして思えば、たかしは柳田以上にマセた子どもだった。

 幼稚園児にも関わらず女の子とばかり遊ぼうとするし、美人の幼稚園の先生を口説いたりもしていた。有名な某アニメの影響だろうと両親や周囲の大人は楽観していたが、アレは割とガチめに人格矯正が必要なガキだったのかもしれない。あの日も、たかしは私がちょっと目を離した隙に、通りすがりの女子高生のスカートを引っ張りながら「お姉さーん、ぼくと一緒に新しい扉を開かない?」と言って、口説いていたのだ。あの頃はアニメかなんかの真似をしているのだろうと思っていたが、あのガキはいったいどこでそんな言葉を憶えてきたのだろうか? 私はたかしの耳を掴んで引き剥がし、女子高生に平謝りした。

 「いい加減にしなさいよっ、アンタ!」

 たかしがナンパの真似事をする度に、私はいつも説教をした。その日も結構長い時間くどくどと説教をしたが、たかしはまるで聞いていない様子だった。今なら文字通りの意味で身体に言葉を刻み込んでやることが出来るのだが、当時の私は今とは真逆で手よりも先に口が出るタイプだった。だから、舐めた態度のたかしを見ても、頬を膨らませることしか出来なかった。

 「・・・あれ?」

 たかしの説教を諦めた私は、ふと自分のバッグが置かれているベンチを見やった。ピンクの小さな手提げカバン。そのバッグにあるはずの膨らみが見えなかった。私はバッグに駆け寄って中を見る。入っていたはずのお菓子が見当たらない。私たち姉弟は三時のおやつを外で食べるのがルーティンだった。今日のおやつは楽しみにしていた大きなチョコパイ。バッグに入ってたお菓子がない、と私が言いかけた時、

 「あっ、それさっきのお姉ちゃんたちに上げちゃった」

 と、たかしが言った。

 その表情には、悪びれるという様子がまるで無かった。



 その後、私が何を言ったのかは憶えていない。ただ、凄く怒って、凄く怒鳴ったのは憶えている。大半は意味の分からない言葉で、言っていることは似たようなことの繰り返しだった。たかだか百円かそこらのお菓子のことに、私はいったい何をそんなにムキになっていたのか分からない。・・・いや、当時の私ですら、本当はチョコパイのことなんてどうでもよかったのだろう。今まで積もりに積もった弟への不満の臨界値が、あの瞬間決壊した。ただ、それだけの話。普通の姉弟だったら、その後数日ギクシャクして、気付いたら元通りになっている。そんなありふれた喧嘩で終わるはずだった。



 でも、私たちはそうはならなかった。



 たかしは私が怒鳴っている時、一言も口を開かなかった。ただ黙って、じっと俯いていた。いつもニコニコとしている弟が、あの時だけはずっと口を引き結んでいた。

 私はたかしを散々罵った後、置き去りにして一人で帰った。あの時は、一分一秒たりとも一緒にいたくなかったのだ。後をついてくるかなと思い後ろを振り返ったが、たかしはその場に立ちすくんだままだった。勝手にしろ、と私は気にも止めずに家に帰った。



 そして、たかしは夕食の時間になっても家に帰って来なかった。



 夜になって、パトカーが私の家にやって来た。

 両親が泣き崩れる声がした。



           ※


 

 私がたかしを置き去りにした後、あの女子高生は戻って来たのだそうだ。その人の手には、お菓子がいっぱい入った袋が握られていた。

 かなり後になってから聞いた話である。

 その日、女子高生はお弁当を忘れてしまったせいで空腹が限界値に達していた。運動公園でテニス部の特訓をしている最中、我慢できなくなってしまったその人は、一人だけ部活を抜け出して何かお腹に入れるものを買いに出かける途中だったらしい。その途中、つい「お腹空いて死にそう」と呟いたところ、それを偶然耳にした弟から、「これ、食べていいよ」と、チョコパイを渡されたのだそうだ。女子高生は、流石に幼稚園児からおやつを受け取ることは出来ないので、最初は断るつもりでいたらしいのだが、ふと妙案が浮かんだ。

 「じゃあ、チョコパイのお礼に、お姉ちゃんが他のお菓子をたくさん買ってきてあげるから、一緒に食べよ?」

 その人は、子どもが大好きな優しい人だったのだろう。たかしから形だけチョコパイを受け取った後、近くのコンビニでお菓子を買い込み、再びたかしの元へ戻って来たのだ。



 事件はその時に起こった。



 折悪く、女子高生は悪質なナンパに捕まってしまったのだ。

 ナンパしてきたのは極めてタチの悪い地元の暴走族のチンピラで、そのクズは嫌がる女子高生の腕を掴み、無理やりどこかへ連れ去ろうとした。

 たかしはそれを止めようとしたらしい。

 けれど、当然敵うわけがなく、たかしは殴られ、蹴られ、そして動かなくなった。

 たかしが動かなくなるのを見てチンピラは逃げ出したが、翌日には逮捕された。弁護士のクソ野郎はこれを事故として主張し、どうしようもない間抜けの裁判長はこれを「一理ある」とした。裁判に影響するからという理由で、チンピラからの謝罪もなかった。

 女子高生はたかしの葬式の最中、ずっと泣いて土下座していた。あの人は何一つ悪くないのに、ずっと謝り続けていた。その後、その人はまともな生活が送れなくなり、高校も辞め、今はどこでどうしているのかも分からない。毎年たかしの命日には手紙が送られてくるので存命なのは確かだが、あの人のことを考える度、私の胸には締め付けられるような痛みが走る。



 世の中は狂っていて、何もかもが間違っているように思えた。



 なら、私も狂ってしまえばいい。そうすれば、私の望む『正常』に、少しは近づけるような気がした。

 いつかどうしようもないのに当たる時まで、私は一人でも多く、たかしを殺した不良のようなろくでなしを道連れにしてやろうと心に決めた。

 古い武術を教える道場に通って人を壊す方法を学び、『正当防衛』が成立する喧嘩の売り方を教えてもらった。師匠は私を理解し、その生き方には先がないと分かっていても、私に技術を教えてくれた。常識的な大人のように、師匠は私に暴力を禁じるということをしない大人だったが、ただ一つだけ、これだけは守れと強く教えられたことがある。



 ━━━『冥道』を名乗る人間にだけは関わるな。



 何のことかは分からなかったが、その時の師匠の表情には怯えが混じっていた。

 私は古井戸の底を覗き込んでいるような気分になり、分かりましたと頷いた。『冥道』の話はそれきり出ることはなかった。

 そうして私は歪んだ技術と知識を吸収し続け、中学に上がる頃には、夜の街を徘徊して不良とチンピラを狩るような生活を送るようになった。家族とは大喧嘩し、家を出た。生活費と寝所は、私に言い寄ってくる適当なゴミを痛めつけて奪った。学校にも行かず、名前すら知らない変態野郎の部屋で日中を寝て過ごし、夜になると獲物を求めて街を徘徊した。顎と手足の関節を外して部屋の隅に転がした変態野郎が餓死しそうになると、私は適当に通報してその家を出た。そういう生活を、私は半年繰り返した。


 そして、その半年目に、私はどうしようもないのと出会った。

 


           ※


 

 私が痛めつけた奴の中に、ヤクザだか政治家だかの、とにかく金と権力を持っている奴の息子がいて、ソイツが復讐のために『本職』を雇ってきたのである。

 その『本職』は植物のように感情が乱れるといことがなく、淡々と私を『処理』してきた。技術も精神も遠く及ばす、私はまるで勝てる気がしなかった。恐怖はなかった。ああやっとか、と私は血反吐を吐きながら笑っていたのだ。私が動けなくなったところで『本職』は動きを止め、代わりにわらわらとろくでなしの仲間どもが群がって来た。まあ、楽に殺すわけがないか、と他人事のように下卑た笑みを浮かべるそいつらをぼうっと眺めていたら━━



 「ななちっ!!」



 路地裏の入り口に、柳田が立っていた。

 全身が総毛立つという感覚を、この時私は生まれて初めて味わった。

 柳田がずっと私のことを気にかけてくれていたのは知っていた。たかしが亡くなってから、何かと理由をつけてはずっと私の側に寄り添ってくれた。両親との関係がギクシャクし、私が家を出てからもずっと私を探していたのも知っていた。夜の街で、私の写真を片手に私を探し回っているのを何度も見た。私は柳田に見つからないよう注意深く隠れつつ、アイツが家に無事に帰り着くまでこっそり見守っていた。それがまさか、こんな最悪なタイミングで見つかってしまうなんて。

 来るなバカ、と言う暇すら無かった。柳田は周囲のろくでなしなどまるで目に入っていない様子で私に駆け寄ると、思い切り抱き締めてきた。私は何も言うことが出来なくなったしまった。柳田は顔を上げて周囲のろくでなしどもを睨みつけると、毅然とした声で「ななちに何すんのよっ!!」と、大声を出した。その声で、突然のことにポカンとしていたろくでなしどもは気を取り直したらしく、さっきよりも数段厭な笑みを浮かべ、よく見たらコイツ可愛いな、と言い始めた。私はとっさに動こうとしたが、どうしても身体が言うことを聞いてくれない。柳田が立ち上がってろくでなしの一人の頬を張った。それで逆上したろくでなしに髪を掴まれた柳田は、路地裏の壁に思い切り叩きつけられた。自分の喉から発せられたとは思えないほど情けない悲鳴が漏れた。私は狂ったように柳田の名前を呼び続けた。

 こんなはずじゃなかった。

 誰かを、大切な人を巻き込むことになるなんて考えもしなかった。すべて私の責任で、私の命と人生ですべてを賄えると思っていた。それで許して貰えると思っていた。でも、現実はこの様で、私は柳田を失ってしまうという恐怖に泣き叫ぶことしかできなかった。

 「私を好きにしなさいよ!! 私を好きにしていいから、その子には手を出さないで!!」

 無駄だと分かっていても、そう叫ばずにはいられなかった。泣き喚く私を、ろくでなしどもが腹を抱えて笑って見ている。


 その声量が、急にストンと落ちた。


 まるでスピーカーの片方が急に壊れたかのような、不自然な下がり方だった。異変に気付いたろくでなしが笑い声を引っ込めて周囲を見回す。人数は減っていない。倒れている奴もいない。


 ただ、十人以上のろくでなしが、立ったままの姿勢で泡を吹いていた。


 それまで興味ないと言わんばかりに壁にもたれかかってタバコを吸っていた『本職』が、急に警戒するようにタバコを投げ捨てて身構えた。目に、私の時には終ぞ浮かばなかった焦りが見えた。世話しなく動くその目が、ある一点をとらえる。


 視線を追うと、そこに柳田が立っていた。


 柳田は俯いていて、顔は髪で隠れていて見えない。陳腐な表現だが、その場の全員が本能で理解していた。



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 柳田の背後から蛇のように滑り込む影があった。手には光るものがあった。柳田は一切振り向くことなく半身を動かしただけでそれを交わし、急襲した『本職』はそのまま地面に倒れ込んだ。何をしたのかまるで見えなかったが、すれ違いざまに何かを入れたのだろう。『本職』は動かなくなった。地面にカランっという音を響かせてナイフが落ちる。その音に気を取られ地面を見て、次に顔を上げた瞬間にはすべてが終わっていた。ろくでなしどものほぼ全員が泡を吹いた状態で立ち尽くしており、一拍の後、全員が糸が切れた人形のように倒れ込んだ。

 「・・・」

 柳田は、白目を剥いている『本職』の頭を掴んで引き起こしていた。

 「・・・」

 柳田はじっと『本職』を見ている。その目は幼馴染の私ですら見たことがないほど冷たいものだった。

 それは、殺す殺さないなんて常識的な迷いではなく、どうやって殺すのがコイツにとって一番の苦痛になるのか、それを考えているように思えた。



 「・・・みかんちゃん」



 もう何年もその呼び方をしていないのに、私の口から自然とその名前がついて出た。

 その瞬間、柳田はハッとして私の顔を見やった。そして、気まずそうな表情で片目を瞑ると、ベロを出し、


 「いっけね、やりすぎちった。てへぺろ」


 と、言って笑った。



            ※


 

 本人すら何なのかよく分からないらしいのだが、柳田には『武』の才があるらしい。

 体育で1か2しか取ったことがないくせに、『人間を壊す』時だけは妙な『スイッチ』が入るのだという。

 「たお? だかなんだかの循環と解放が完璧に出来ているとかで、私は人間の究極点に達しているんだってさ」

 それを教えてくれたのは奇妙な老人だったそうだ。

 柳田が小学生の頃、おつかいの帰り道に、お駄賃で買った森●のビスケットサンドアイスクリーム(柳田の大好物。これを与えておけば大抵の機嫌は直る)をもちゃもちゃ食いながら歩いていると、前方から走ってきた羊羹みたいな形のミニバンがすれ違い様に急ブレーキをかけてきた。中からぞろぞろと黒服の男女が降りてくるのを見て、柳田は防犯ベルの紐に手をかけながら、「おとなのひとをよびますよ!」と言ったら、その中の一人の苦労人っぽいお姉さんがスライディング土下座して「大人の人は勘弁してください! ものすごく面倒なことになるんで、大人の人を呼ぶのは勘弁してください!!」と言ってアスファルトに額を擦り付けてきた。とりあえず悪い人ではなさそうだったので柳田は防犯ベルの紐から手を離し、何の用ですか?と聞いた。お姉さんは汗をダラダラかきながら、「いや、その、あの・・」と繰り返している。どうやらお姉さんにも、車が止まった理由が分からないらしい。柳田がアイスをもちゃもちゃ食べながらもう一個欲しいなーと考えていると、ミニバンの後方からドバイでしか見たことがないようなキンキンのリムジンがぬるりとやって来た。リムジンが停車すると、中から高級そうな和服に身を包んだ仙人みたいな老人が降りてきた。お姉さんは電流をくらったネズミみたいにガタガタ震えていた。他の黒服は90°の姿勢で首を垂れている。柳田はビスケットサンド超うめぇと思っていた。

 「・・・」

 老人は柳田の前に立つと、しばらくその顔をじっと眺めていた。柳田の手が再び防犯ベルの紐を握ろうとした時、唐突に老人は膝から崩れ落ちた。そして、滝のような涙を流しながら、

 「・・・観音様が」

 と、訳の分からんことを言った。柳田は小首を傾げたが、早く帰らないとお母さんに怒られるなぁと思って無視して通り過ぎた。後ろでお姉さんが今にも死にそうな顔で謎のアイコンタクトしていたので、防犯ベルの紐は引かなかった。翌日、地域の不審者情報に複数の黒服の男女と70代男性が女児に頭を下げていたという訳の分からん事案が載った。軽いネットニュースになった。

 後日、老人とお姉さんがやたら高そうな菓子折りを持って柳田の家に謝罪に訪れた。老人の周りだけ何故か蜃気楼のように空間がぐにゃりと歪んでいて、お姉さんは10秒に1回の感覚でアマゾンの鳥みたいな声でえづいていた。柳田と柳田のお母さんは麦茶とお歳暮でもらったどこのメーカーが作ってるのかも分からん微妙な味のゼリーを二人に出した。

 「お宅のお嬢さんは、『道』が完成されておりまする」

 柳田のお母さんは、「はぁ、そうなんですか」と言って、菓子折りをこっそり開けようとしている柳田の手を引っ叩いた。その後、老人は結構長い時間『タオ』がどうだの『天』がどうだの話していたが、柳田は菓子折りの中身が気になりすぎて話をほとんど聞いていなかった。後に柳田はお母さんに「あの時あのおじいちゃん何の話をしていたの?」と聞いてみたが、実はお母さんも菓子折りの中身がすごく気になっていて、老人の話をほとんど聞いていなかったことが分かった。ただ━━


 「要するに、おれんじはケンカがめちゃんこ強いってことを言いたかったみたいよ、あのおじいちゃん」


 帰り際、老人は柳田の目をじっと見つめて、

 「もし、アナタが『天』を掴みたいと思ったら、その時はこの私を━━『冥道』の元を訪れなさい」

 と言って、一枚の名刺を渡した。柳田と柳田のお母さんは「はぁ」と答えた。老人は深々と一礼して帰って行った。お姉さんは終始メタンフェタミン中毒者みたいな動きをしていた。柳田と柳田のお母さんはとても心配になったが、菓子折りの中身が気になるので家に戻った。

 菓子折りの中には『月島ぽてち』という聞いたこともないポテチが何袋か入っていて、何故か表面には先程の老人と、老人に抱っこされている柳田と同い年くらいの女の子の写真がプリントされていた。女の子はフリフリの服を着ていて、読モのように慣れた態度で媚びたポーズを決めていた。柳田はポテチをもちゃもちゃ食いながら写真の女の子を指差し、「コイツぜったいロクな女じゃないよね」と言って唾を吐いた。柳田のお母さんは娘の頭を拳骨の角でぶん殴りつつ、複雑な表情をして「この子、おれんじに似てるわね・・」と言ってため息を吐いた。ポテチはまあまあ美味しかったが、何故か全部コンソメ味だった。



 後年、柳田は写真の女の子━━月島のの子と、文化祭のミスコンで熾烈かつ下等な争いを繰り広げた結果、審査員から「女性の名誉と尊厳を著しく傷つける品性下劣な女生徒」という残当な評価を得た上に両者失格かつ停学という恥を晒すことになるのだが、それはまた別の話である。



         ※



 老人の言っていた「お前はめちゃんこ強い」という言葉は、その後すぐに事実であることが判明する。

 柳田は二足歩行が可能になった頃から『可愛らしい女の子』と周囲から言われ続けているだけあって、へんな男に付き纏われることも多い。ある日、一線を超えたゴミが柳田を攫おうとしたことがあったのだが、5Lのシャツを着たソイツを、柳田はいとも簡単に全身複雑骨折にした。その後も様々な種類のゴミに襲われたが、一度として危険な展開になることはなく、全員を流動食生活送りにしてきたのだという。その数が両手の指で収まりきらなくなった頃、柳田は自分の強さが普通ではないことを理解した。

 「私はね、自分がケンカが超強いことを、ななちにずっと言えなかったの」

 ろくでなしどもが転がる路地裏で、柳田は私の顔をハンカチで拭いながら言った。

 目を開けると、何故か柳田は涙を流していた。

 その目に悲しみと後悔と、そして何故か怯えが混じっている気がして、私は狼狽してしまう。柳田は涙を拭うと、俯いたままこう言った。

 「ごめんね、ななち。私ね、ずっとずっと後悔してたの。あの時・・私がへんに気まずくなっちゃって、ななちとたかしくんと一緒に遊びについて行かなかったから・・私があの時、二人についていっていれば・・あんなゴミクズ、私が世界一汚い生ゴミにしてやれたのに・・本当にごめん、ごめんなさい、ななち。私がいれば・・私がいれば、あんなことにはならなかったのに・・。本当にごめんなさい、私が、私がいれば・・」

 柳田は涙を流しながら、「私がいれば」と繰り返し続けた。

 その姿が、あの時の女子高生のお姉さんと重なった。

 「・・・何でアンタが謝るのよ。アンタ、何も悪くないじゃない・・」

 私は柳田を抱きしめた。

 私たちは抱き合ったまま、長い時間涙を流し続けた。



           ※



 その後。私は少年院行きくらいは覚悟していたが、何故か一切のお咎めなしで無罪放免になった。柳田が何かをした気がするのだが、いくら問い詰めてもアイツは何も吐かなかった。

 両親には泣きながら引っ叩かれた。それからとても長い時間じっくりと話し合い、私たちは再び元の家族に戻った。・・・戻ることが出来た。

 たかしが亡くなってしまったことを、しっかりと受け止めた形で。

 「・・・」

 バカまるだしのあざといポーズでキメ顔を晒す柳田の横に、両手でピースしている笑顔のたかしがいた。たかし本人に間違いなかった。間違えるはずがない。亡くなった日から、私の夢の中には必ずたかしが出てきた。たかしはあの頃と何も変わらない姿で、笑顔でこちらを見ている。

 「・・・私ね、意識不明になっている時に、ちょっとだけ幽霊になったの」

 私の横でスマホを覗き込んでいる柳田が、ポツリと呟いた。

 「その時にね、なんでか分かんないんだけど、たかし君が亡くなってからもう十年くらい経ってるのに、私、あの子にあの時の告白の返事しなきゃって、そればかり考えてたの。でも私幽霊で、みんなに私の姿も声も届かなくて、なんかもう成仏しそうな気がするー、はよせなヤバイーってテンパってたら、物凄く頭の悪い間抜けの童貞に会っちゃってね・・。ソイツのおかげ、とは言いたくないし、実際全然違うんだけど、私、あの運動公園でたかし君に会うことが出来たの」

 「・・・」

 「たかし君はあの頃の姿のままだったよ。私、もう高校生になってるのに、それを少しも疑問に思わなくてさ・・。告白の返事で『ごめんなさい』って言ったら、『へんなま姉ちゃんはキープだから別にいいよ』って言われてキレて、テメェこのクソガキって言ったら、たかし君笑ってどこかへ走って逃げて行っちゃった。戻って来いクソガキ刺身にしてやるって地団駄踏みながら喚いていたら、たかし君クルって振り向いて、手を振りながらこう言ったの」


 ━━━ボクは元気でやってるから、お父さんとお母さん、それに菜々子姉ちゃんに『もういいからね』って伝えておいてね!!


 私は堪えきれなくなって嗚咽を漏らした。何がもういいだ、クソガキ。何もよくない。もういいなんてこと、何一つあるもんか。

 柳田がそっと私の頭を撫でた。

 「私、この話をどうやってななちに伝えようかずっと悩んでいたの。ななち超リアリストだから、たかし君に会ったって言っても絶対信じないだろうし、そんなこと言ったらななちのことをとても傷つけることになるかもしれないと思って。だから、そんな私の様子を見て、たかし君が手を貸してくれたんだろうね。私、軽く幽霊になってから、ぼんやりだけど『そういう』のが分かるようになったの。・・・たかし君、今ななちの側にいるよ」

 私は顔を上げた。涙でボロボロになってよく見えない。そのボヤけた視界の片隅に、見知った小さな影を見た気がして、私は再び嗚咽を上げた。

 カシャリ、という音がした。

 柳田が勝手に私のスマホのロックを解除して、写真を撮っていた。柳田は画面を見ながら、満足そうに頷いている。

 「ななち、たかし君とゆっくり話なよ。私は、退散するからさ」

 柳田は私にスマホを手渡し、手をひらひらさせて部室から出て行く。スマホの画面を見た。涙でこれ以上ないくらい不細工な私の横で、たかしが私を指差して腹を抱えて笑っていた。このやろう、と思ったが、たかしの目にも涙が光っているのを見て、私は弟を許してやることにした。下校時刻を告げる校内放送が流れる。風紀委員として失格だけど、私はそれを無視する。


 

 そして、長い長い時間、私は弟と話をした。

 


                   <了>




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