第十話 『月島さんとごへいもちん⑧』
「にょにょん〜、にょにょん〜」
「・・・」
僕は先程から、緑ヶ丘先生に連絡を入れようか否か迷っている。柳田親子と別れて以来、月島さんの様子がちょっとおかしいのだ。
何だか浮かれているというか、ひどく上機嫌なのである。
殺気をギンギンに放ちながら鼻息荒くフーッフーッ言われてもそれはそれで困るのだが、特にこれといった理由もなく急に上機嫌になられるのもそれはそれで恐ろしい。しかし、それにしても━━
(月島さんが上機嫌になるようなことなんて、何かあったっけ・・?)
僕は内心で首を捻りつつ、月島さんの背を眺めた。
月島さんは上半身をふらふらと揺らしながら、鼻歌混じりに僕の前を歩いている。そして前を向いたまま、先ほど自分のお小遣いで買い足したポテチを「食べろ」と言わんばかりに僕へ差し出してきた。
━━━あの月島さんが、僕にポテチをくれるだなんて。
驚天動地の事態である。
どれくらいあり得ないことかというと、土居山ナンバーの奴らが丸一日無事故無違反を達成するくらいあり得ない。
心底幸せそうにポテチとコーラを飲み食いする月島さんを眺めながら、これは割と本気で緑ヶ丘先生に連絡するべきだろうかと考えていると、ふと、今の月島さんの状態に既視感があることに気がついた。
(あれ? これってもしかして、月島さん『森の畜生モード』に入ってる?)
『森の畜生モード』とは何なのか? その話をするためには、中3の頃にまで遡らなくてはならない。
あの頃、月島さんの様子があからさまにおかしかった。
心配した僕が緑ヶ丘先生に、
「最近月島さんが有馬に全財産突っ込んだクソバカみたいな顔してずっと無言で座ってるんですけど、何かあったんですか?」
と訊ねると、緑ヶ丘先生は「ああ・・」と、アンニュイを煮詰めたような表情をして紫煙を吐き、
「お嬢、この前担任に呼び出されたんっスよ。んでその時に、ガチめのトーンで『学力的な理由で卒業が厳しい』って言われたんっスよね・・」
と、言った。
「・・・」
僕は何も言えず、ただ押し黙ることしか出来なかった。
緑ヶ丘先生は再度深々とタバコの煙を吐き出すと、遠い目をして、
「小学生からやり直させっかなぁ・・」
と、静かな声で呟いた。
その後。
月島さんの卒業がガチのマジの本気で危ないことを知った僕と安西は、二人がかりで嫌がる月島さんを無理やり椅子に縛りつけ、『ここだけ抑えればなんとかなる』という所だけを徹底的に教え込んだ。
しかし、出来ない。憶えない。理解しない。
世の中にこんなに勉強が出来ない人間がいるのかと、僕は恐怖すら覚えた。
僕と安西は必敗の戦で最前線に立たされる歩兵が「こんなもん撃っても意味ねーよ!!」と叫びながら距離的に絶対に当たらない銃弾を敵陣に向けて撃っているような気分で、日々歯を食いしばって月島さんに勉強を教え続けた。この時の苦行に比べれば、底の抜けた柄杓でタンカー船を沈没させる方が遥かに楽である。
更にこの頃のストレスで、僕は入学以来守ってきた全国模試一位の座から陥落し、三つ編み眼鏡の絵に描いたような優等生女子だった安西は髪を七色に染めてギャルになった。お互い、失ったものは色々と大きい。
だが、我々は多大なる労力と大いなる犠牲を払い、何とか━━本当に何とか、ギリギリのギリで、月島さんの成績を卒業ラインにまで漕ぎ着けることに成功したのである。
ちなみに、土井山高校は『ひらがなで自分の名前を書ければ受かる』タイプの高校なので、高校受験に関しては何の苦労も要らなかった。
僕と安西は抱き合ってこの偉大なる奇跡を喜び合い、お互い涙を流した。この時の光景を写真に撮っていたならば、たぶんピューリッツィア賞を狙えたと思う。タイトルは『神よ』だ。
一方の月島さんは『31点』とか『33点』と書かれた期末の答案用紙を手に大はしゃぎし、はしゃぎすぎて三階の窓から転落した。全くの無傷だった。月島さんはそのまま校庭のグラウンドの真ん中に躍り出ると、いけない薬が蔓延しているクラブの連中みたいな動きでその場でピョンコピョンコし始めた。これワンチャン通報からの卒業取り消しあるなと僕がその光景を眺めながら思っていると、横合いから結構なスピードの軽トラが突っ込んできて月島さんを跳ね飛ばした。運転席から降りてきたのは緑ヶ丘先生だった。緑ヶ丘先生は散らばった答案をめんどくさそうに回収し、ぴくりとも動かなくなった月島さんを冷凍マグロのように乱暴に荷台に放り投げると、そのまま何事もなかったかのように軽トラに乗って学校を出て行った。僕と安西は顔を見合わせ、アメリカのホームコメディのように肩をすくめた。何もかもがやってられなかった。
月島さんが『森の畜生モード』に入ったのは、それからすぐ後のことである。
※
月島さんのあの状態を、『森の畜生モード』と命名したのは緑ヶ丘先生だ。
「タイトル忘れたけど、子ども向けのアニメにあるじゃないっスか? 森に住んでる畜生どもが二足歩行で馴れ馴れしく人間の子どもに絡んでくるやつ」
「言い方もうちょっと何とかなりませんか? 怒られますよ?」
緑ヶ丘先生は僕の諫言を無視し、続けた。
「今のお嬢は、あの畜生どもと同じなんっスよ。何も面白えことなんてねぇのにいっつも卑しい笑みを浮かべて、クッソくだらねえことで『わー、すごい』とか言って大はしゃぎするやべー奴ら。そんでもって、てめぇら視力とIQいくつだよって言いたくなるくらい、くっだらねぇ罠とか詐欺にいっつも引っかかるし・・。マジでぶち殺してやりたくなるくらいトロくさいっスよね、あの畜生ども」
「ガチで怒られますよ? 僕知りませんからね? 本当に知りませんからね?」
僕が割と本気のレフェリーストップをかけると、緑ヶ丘先生はしぶしぶ矛を収めた。
「まあとにかく、お嬢って昔っから長期間ストレスを受けると、解放された時に反動でこんな風になっちゃうんスよね。今回のは、中学を卒業出来ないかもしれないっていうプレッシャーと、大嫌いな勉強を無理やりやらされたストレスで、いつもより五割り増しで畜生化してるみたいっスけど」
僕らは同時に月島さんへ目を向けた。
月島さんは「にへらっ」と緩んだ笑みを浮かべ、身体を左右に揺らしながら聞き分けの良い幼児のように座っている。周囲に、お花畑がスクリーンセーバーのように浮かんでいる幻影が見えた気がした。安西はそんな月島さんの頬をぷにぷにと突っつき、「すごーい! マイナスイオンの感触がする!!」と訳の分からんことを言った。
緑ヶ丘先生はニタニタと厭な笑みを浮かべて僕の肩に手を置くと、モザイクがかかるタイプの卑猥なハンドサインをして、
「今なら食べ放題だぜ、サブちゃん」
と、クソみたいなことをほざいた。僕が緑ヶ丘先生の手を乱暴に払い除けて無視していると、安西が「ののちゃん、ぱんつ見せてよ」と悪ノリし始めた。月島さんはポワポワした笑みを浮かべたまま「しょうがないにゃあ〜」と言い、何の躊躇もなくペロリとスカートを捲り上げた。次の瞬間、僕は何故か安西に平手打ちをくらい、「みかん君サイテー!」と罪をなすりつけられた。緑ヶ丘先生が不快な声で大爆笑した。意味が分からねぇにも程があった。あの時のことは、正直今でも根に持っている。
・・・まあそれは置いといて、とかくそんな風な感じで、『森の畜生モード』の月島さんは、普段とは違い、純粋で優しくて、それでいて人を疑うことを知らない、フワフワした人になってしまうのである。
これで月島さんの容姿が人並みだったら、「あの子ちょっと痛々しいよね」と、陰口を叩かれるだけで済むのだが、残念なことに月島さんの容姿は人並みならぬ『神並み』であった。
「この状態のお嬢は、一秒も目が離せないんっスよ。離したら、どっかからゴキブリのように湧いて出た、色黒マッチョで身体にひじきみてぇなタトゥー入れてるヤリチン野郎に手籠めにされて『オッペケペーッ!!』って叫びながら白目でダブルピースする新種の猿に改造されそうな気がして怖いんっスよね・・」
緑ヶ丘先生は、そう言ってハァとため息を吐いた。僕は、このオバサン普段どんなエロ漫画見てんだと思いながら、「それは流石に考えすぎだと思いますよ?」と、無難な回答を返しておいた。
しかし、緑ヶ丘先生の懸念はあながち間違いではなかったということが、その後すぐに判明する。
いくら下半身に脳を支配されている馬鹿者どもとはいえ、流石に手を出したら一発実刑確定の中学生女子に迫ったりはしないだろうと思っていたのだが、連中の知能の低さは僕の想像を遥かに超えていた。
来るわ来るわ、その手の奴らがうじゃうじゃと、まるで餌に群がる鯉のように、月島さんに続々と言い寄ってきたのである。
何か、あの連中特有の薄気味の悪い固有能力があるとしか思えなかった。奴らはアイドル並みの美人でスタイルが良くて頭が残念なことになってる月島さんの存在を軍事レーダーのように正確に察知し、彼女をモノにするべく大群でアプローチしてきたのだ。僕と安西は月島さんの防波堤となり、あの手この手でどうにかこうにか連中を追い返していたのだが、次第に限界が見えてきた。
「私は通信教育でクラヴマガと詠春拳を習ってるから、いざって時は任せてよ!!」
安西はそう言って「アチョー!!」と変なポーズを決めていたが、吹かしているのは明白だった。こういう時、一目見ただけで「あ、無敵の人だ」と分かる緑ヶ丘先生が側についていてくれればありがたいのだが、この時、月島さんの実家の方で何かがあったらしく、緑ヶ丘先生は不在の時が多かった。なので、月島さんの『森の畜生モード』が回復するまでは、僕と安西の二人だけでどうにするしかなかった。月島さんが元のコキュートス系女子に戻りさえすれば、後は自動で迎撃してくれる。それまでの辛抱だ。僕らはそう言ってお互いを励ましあっていたのだが━━
ある時、物凄くタチの悪い輩に月島さんが狙われてしまった。
その連中は体育館裏でヤニを吹かしてるだけでヤンキーになったつもりでいる中高生とは全く別物の正真正銘の半グレで、法律も社会も人の命も何とも思っていないような文字通りの狂犬だった。そいつらに囲まれ、僕は何とか月島さんと安西を逃がそうとしたのだが、多勢に無勢な上、喧嘩もまともにしたことのない僕が本物の半グレ相手に勝てるはずも無かった。僕は囲まれてタコ殴りにされ、暴れる安西は羽交締めにされ口を塞がれた。月島さんは幼稚園児のような表情をして涙目でオロオロとしていた。下卑た笑みを浮かべる輩の手が、月島さんの身体に触れようとした、その時、
ポンっ、と、輩の肩を叩く手があった。
「・・・」
その瞬間、全員が固まっていた。あの時の空気感をどう表現すれば良いのだろうか? ただ一つ言えることは、その場にいる全員がこう思っていたことだろう。
━━━何だコイツ?
輩の肩を叩いた人物━━それは、目の部分がぽっかり開いた茶色いずた袋を被っている、明らかにヤバイ感じのする人だった。
そのヤバい人は緑色のジャージを着ていた。月島さんとはタイプの違うスタイルの良さから、その人が女性なのだと分かる。着ているジャージに見憶えがあった。隣町の中学が指定しているジャージだった。
何だろう?厨二病の人なのかな?と思っていると、ずた袋の人はおもむろに拳を振り上げ━━
輩の顔面に、一切の躊躇いがない正拳突きを叩き込んだ。
物凄い音がした。と、同時に、輩の身体が頭部を中心に三回転半する。地面に落下した輩は白目を剥いており、鼻から下はモザイク処理が必要なレベルでぐちゃぐちゃになっていた。
先程とは種類の違う沈黙が降りる。
「このや・・」
輩の誰かが「この野郎」と言い切る前に、ずた袋の人は高速でバッタバッタと輩共を薙ぎ倒してしまった。そして気づいたら、全員がモザイク処理が必要な感じになって地面に倒れていた。
僕は切れた口内に溜まった血を唾と一緒に飲み込み、よろよろと立ち上がる。
「・・・」
輩を全員倒すと、ずた袋の人は何故か僕の前へゆっくりと歩いてきた。正直ちょっとどころではなく怖かったが、助けてもらった相手にお礼も言わないのはあまりに失礼なので、僕はぺこりと頭を下げた。
「あの・・どなたかは存じませんが、助けてくれてありがとうございます」
僕がそう言うと、ずた袋の人は短く、
「・・・ん」
と言って、軽く頷いた。
一瞬、記憶の端で何かが引っかかった気がした。
しかし、それを捕らえる前に、僕のポケットに入ったスマホがブルブルと振動する。緑ヶ丘先生からの着信だった。
「もしもし、緑ヶ丘先生ですか! ちょっと今、大変なことになってて・・」
僕が大慌てで電話に出ると、向こう側から緑ヶ丘先生の呑気な声が聞こえてきた。
「あー、オッケーオッケー。大丈夫っスよ、サブちゃん。こっちは全部把握してるんで」
把握している? どういうことかと訊ねる前に、緑ヶ丘先生が続けた。
「危ない所だったけど、ずた袋を被った変な女が助けに来たっしょ? そいつ、最近取ったアタシの弟子なんっスよ」
「弟子? 緑ヶ丘先生のですか?」
僕はずた袋さんへ目を向ける。袋の奥で、一瞬彼女と目が合った気がした。
「・・・」
目が合うと、ずた袋さんはスッと顔を逸らし、何故か居心地が悪そうにそわそわし始めた。こう見えてシャイな人なのかなと思っていると、再び電話口の向こうで緑ヶ丘先生が喋り始めた。
「その子の名前は『ずた袋ちゃん』っス。本人の強い希望で顔と本名はNG。好きな食べ物はニンニクチャーハンで、嫌いな食べ物はお菓子全般。最近のマイブームは、メンヘラが作詞したクソみたいなラブソングを半笑いで歌い切ることらしいっス。これから仲良くしてやってくださいね」
だいぶいらない情報混じってるなと思いつつ、僕は「はぁ」と答えた。そして、ある一点に強い引っかかりを覚えた。
「え、あの、緑ヶ丘先生? これから仲良くしてくださいって、それはどういう・・」
「その子が、当面のお嬢のボディーガードなるんで」
僕は「はいぃ?」と引き攣った声を上げ、周囲に散らばる半グレの残骸を見やった。
「いや、あの、緑ヶ丘先生・・。それはちょっと、過剰防衛ならぬ過剰戦力になるのではないでしょうか? 今日はたまたま危なかったら良かったですけど・・」
僕はずた袋さんの耳に入らないよう、小声で電話口に話しかけた。月島さんのお守りだけでも精一杯だというのに、この上ピットブルみたいな女子の面倒まで見るだなんて、そんなの身体が保たないに決まっている。
「いやー、アタシもそう思ってたんっスけどね。・・・面倒くせえ話なんっスけど、ウチに恨みもってる奴らが、ろくでなし共の界隈に、お嬢のことを『簡単にヤレる女』だって写真付きで偽情報を流しやがったんっスよ・・。今日襲ってきた奴らも、たぶんその偽情報を見て群がってきた奴らっスね」
緑ヶ丘先生の話を聞いて、僕は心が急速に冷えていくのを感じた。
「・・・それ、誰が流してるんですか?」
「おーい、キレんなキレんな。お前がキレたらクッッッソめんどくさいことになるからやめろって沙月に釘刺されたのを忘れんなよ? こういうのはな、アタシらプロに任せりゃいいんだよ」
電話口の向こう側で、何かが牙を剥いた気配がした。
「心配しなくても、タダで済ませてやるつもりは毛頭ねぇからよ」
背筋に、ぞくりと粟立つものを感じた。電話口の向こうにいるのは、本当に緑ヶ丘先生なのだろうかと疑ってしまう。
僕が怯えた気配を察知したのか、緑ヶ丘先生は一転、おどけた口調で、
「まあそんな訳で、こりゃあ荒事専用の奴をつけにゃならんぞってことで、ずた袋ちゃんを派遣したんス。ずた袋ちゃんはアタシの弟子で、扱いとしてはウチのアルバイトみたいなもんなんっスけど、それでも輩の三、四十人は余裕で返り討ちに出来る腕はあるんで、安心してもらっていいっスよ」
と、続けた。
僕が「はぁ」と頷くと、緑ヶ丘先生は急に何かを思い出したように、「あ」と呟き、
「そうそう。大事なこと忘れてたっス」
と、言った。僕が、何ですか、と訊き返すと、
「ずた袋ちゃんは定期的に『餌やり』が必要な子なんで、サブちゃんに餌やり係お願いしてもいいっスか?」
と、言われた。
「・・・は?」
話が、おかしな方向へ進もうとしている。
「あの、すいません・・。すごく不穏な匂いがするんですけど、『餌やり』って何なんですか? 生きたヒヨコとか無理ですよ、僕」
「あー、大丈夫大丈夫。そういうんじゃなくて、ちょっとしたご褒美をあげればいいってだけの話っスから」
「ご褒美、ですか?」
僕が眉根を寄せると、緑ヶ丘先生は『ご褒美』の説明をし始める。その内容はひどく「?」なものだった。
「・・・いや、僕は全然構いませんけど、本当にそんなのがご褒美でいいんですか?」
僕がそう言うと、緑ヶ丘先生は電話口の向こうでくつくつと笑い、
「ずた袋ちゃんは変わった子なんっスよ」
と、言った。でしょうね、としか言えなかった。
「じゃあ、よろしく頼むっスよ」
「・・はい」
僕は後頭部をかきながら、ずた袋さんの前に立った。
ずた袋さんは少しだけ首を傾げて僕を見た。
「・・・えーっと、その、緑ヶ丘先生から、ずた袋さんに餌やりというかご褒美をあげろと言われたので・・すいません、失礼します」
一応断りを入れてから、僕はずた袋さんにスッと近づくと、
その身体を、そっと抱きしめた。
「・・・!!」
ずた袋さんの身体が、一瞬大きく跳ね上がった。しかし、ずた袋さんは暴れて振り解くようなことはせず、僕の腕の中でゆっくりと力を解いていった。
一方、僕はというと、想像とは全く違うずた袋さんの感触に戸惑っていた。
てっきり冷凍された肉みたいな感触で、身体からは血と脳漿の匂いがするのだろうなと思っていたのだが、そんなことは一切なく、ずた袋さんの身体は信じられないほど柔らかくて、それでいて微かに甘い匂いがした。
緑ヶ丘先生に言われるがまま野生動物にハグする感覚でずた袋さんを抱きしめてしまったが、これはもしや、僕はとんでもないセクハラをしているのではあるまいか? 違う意味で怖くなった僕は、そっとずた袋さんから身体を離した。
「・・・」
ずた袋さんは直立不動のまま俯いている。気のせいだろうか? 頭から、湯気が立ち上っている気がしあ。
一応謝った方がいいのだろうかと悩んでいると、ふと、視線を感じた。目を向けると、安西が月島さんを両手で目隠しし、僕のことを睨みつけていた。
「すけこまし!!」
そして、シンプルな悪口を言われた。
「ののちゃんは見ちゃダメだからね!! 妖怪すけこましがいるよ!! 見たら妊娠するよ!!」
その理論ならお前もう妊娠してるぞというツッコミが頭に浮かんだが、酷いセクハラになるので僕は黙ってため息を吐いた。
「・・・」
ずた袋さんは直立不動のまま動かない。電話口から緑ヶ丘先生の不快なゲラ笑いが聞こえる。月島さんが森の畜生みたいな声で、「はわわ・・」と、言った。
それからおよそ二週間後。月島さんが『森の畜生モード』から復帰した。
その間は、デッドが迫った週刊連載漫画家のように激動に次ぐ激動の日々だったが、安西とずた袋さんの助けもあり、僕は何とか生き延びることに成功した。
元のコキュートス系女子に戻った月島さんは、復帰するや否や「舐めた真似をしてくれた連中に南米の麻薬カルテル式のお礼参りをしてくる」と宣言し、安西とずた袋さんに世話になった礼を述べた。あれ?一人忘れてないですか?という顔をする僕に、月島さんは不穏な笑みを浮かべて肩を掴むと、
「みかん畑。お前にも随分世話になったわね。・・・だから、殺すのは一番最後にあげる」
と、言った。
何もかもがやってられなかった。
※
(そうだ、ずた袋さんがいるじゃないか・・)
よりにもよって満月の日に月島さんが『森の畜生モード』になってしまったとあっては、最早僕一人の手には負えない。なので、応援を頼むべく、僕は先程から何度も緑ヶ丘先生に電話をかけているのだが、何故か一向に繋がらない。こういう時に頼りになるのは安西なのだが、アイツは月島さんの『秘密』を知らないので、今日に限っては頼ることが出来ない。ならどうする━━と考えた所で、ずた袋さんの顔(?)が頭に浮かんだ。緑ヶ丘先生の弟子であるずた袋さんなら、月島さんの『秘密』を知っているので大丈夫。僕はさっそく彼女に助けを求めるべく、電話をかけたのだが━━
「もしもし、ずた袋さん?」
電話は3コールくらいで繋がった。しかし、ずた袋さんからの返事はない。「?」と思い耳をすませてみると、電話口の向こうから、大勢の怒声が聞こえてきた。
「どうだ?見つかったか?」「ダメだ。あのクソガキどこにもいやしねぇ」「仏門を舐めやがって。見つけたらただじゃおかねぇ」「おいっ、近所の檀家さんに危険な野生動物が逃げ出したって連絡回しとけよ!」「出て来いクソガキ!! 坊主舐めんな!!」
電話はここで途切れた。
しばらくして、一通のリャインが届いた。
『いまちょっと忙しい』
僕は『でしょうね』と返信し、それきりずた袋さんのことを頭から追い出した。
「にょにょん〜、にょにょん〜」
憂鬱の極みの僕とは対照的に、月島さんはひどく上機嫌である。
━━━僕一人で、何とかこの難局を乗り切るしかない。
僕は頭を抱えて、はぁぁぁとため息を吐いた。




