第3話
スカートの裾を軽く払って立ち上がり、自分を起こしてくれた人物に話しかける。
どういうわけか外見は人間の少女の姿になっているようだ。
「ああ、悪かったね。ちょっと眩暈がしただけだ」
「ここに来る途中、偶然勇者サマに会ってね。ボクに手伝ってほしいことがあるそうなんだ。無断で欠勤というわけにもいかないと思って急ぎ伝えに来たというわけさ。しばらく、もしかしたら数日以上かかるかもしれないってさ。モルタさん? いやマルタさんかな? 彼にとりあえず今日は休むと伝えておいてほしいんだよね。それじゃあ急ぐから」
「あ、ちょっと待ちなさいよ! どういうこと!?」
引き留めようとする彼女に捕まるまいと、狭い路地をぎこちない速足で移動する。身長がずいぶんと低くなってしまったので、歩くのにも一苦労だ。
「勇者。勇者ね......。気に入らないな、なんだよそれ。英雄はボク1人でいいのに」
元いた場所から十分に遠ざかったのを確認して独り言ちてみる。
喧騒を頼りにしばらく歩くと、それなりの大通りが現れる。並ぶ露店、客を引く声。やたら鋭い目つきをした果物屋の前を通り過ぎた。広場では男の子たちが言い争いをしている。誰が勇者役をやるかで揉めているようだ。「幼い頃」が懐かしく思い出される。
日の位置からして今は朝だろうが、そう早い時間ではないはずだ。適当な位置で壺を売っている老人に声をかける。
「もしもし、今は何時かな?」
「うん? ああ、五の鐘がなってちょっとしたとこじゃね」
「そうかい、ありがとう」
(洗脳剣)
老人の様子をしばらく観察し、ゆっくりとその場を離れる。効果はなかった、というよりも発動しなかったという方が正しそうだ。そもそも今、「強欲」の力そのものが使えるかも怪しい。まあ、剣を出す必要があるので朝の大通りでおおっぴらに使うことなどできないのだが。
魔族の中でもことさら高位の種族・妖精種たるパスカルの得たその力は、敵の魔法や能力のことごとくを奪って我が物とするもの。いずれ、自分以外の誰もが力なき者となった大地に、ただ1人立つための力だ。
「いつかは魔王の力を奪おうと思って目覚めを待っていたけど、先にボクの方が別の奴に命を奪われるなんてね」
どこか懐かしいとすら感じる「声」。数人で話しているようだ。否、人数については確信がある。ふと顔を上げれば、ずいぶん前に見たことがある景色。1個、2個とかわいげのある白雲の浮かんだ朝の青空に、赤い頭を突き刺した3本の塔。記憶が正しければここに来るのはこれで2回目のはずだ。
「王都かな......? パメリア王国の」
人間種が主に住んでいる大陸の東側、そこにある6つの大国家の内の1つ、パメリア王国。確か資源に富むわけではなく、農業・工業ともに他国にやや見劣りするが、魔法の研究が盛んな国だったはずだ。優秀な人材の育成に力を入れており、魔法学院なる教育機関も設置されていると聞く。
ここがパメリア王国だったのなら、先程うまく異能を引き出せなかったのは逆に幸運かもしれない。力の行使失敗に対し、それ以上何もせずにその場を離れたのも正解だった。なにしろここは王都、厄介なあの男――王宮魔術師のお膝元だ。奴はうちのゲル―ツクとはやや方向性が違った面倒くささを持つ魔法を使う。
さらに、先程の少女が口にした「勇者」の二文字。勇者がこの辺を拠点にしていることもあり得る。自分が魔王軍四天王となり魔王の守護に縛られてから、忌々しくもその英雄の中の英雄を名乗る者が2人ほど現れたと聞く。今の状態で彼らと争うのは避けたい。思えばさっきの薄っぺらい噓は不味かったが、咄嗟にあの場を切り抜けられたので気にしないでおこう。
思考がやや逸れかけるも、相変わらず耳では「話し声」を追っている。耳で、という表現はおそらく正しくないのだろうが、他にいい表現が思い浮かばない。
(成程。興味深いことですが、何故集まった一箇所というのがこの少女なのです? 集まることの利点も分かりませんよ。)
わずかに焦りの感じられる声。いつも落ち着き払っている彼からすれば珍しいことだが、その出自を考えれば無理もないことだろう。
現在置かれている状況について、自力で答えにたどり着くことなどとうに諦めている。ゲル―ツクが外側で目覚めかけ、他の2人がまだ眠っていたときから「内側」で起きていたパスカルには、考える時間がより長くあった。しかし、分からないものは分からない。自分に聞いて分からないなら、外に求めるほかないのだ。幸い、多少のアテはある。
(まあ良い。兎に角、この状況を正しく把握して出来るだけ早く脱さねばな)
問題は、自分の内側にいる者達にどうやってこちらの言葉を伝えるかだ。向こうの会話と同様に届くといいのだが。明確に意識を内に向け、心の中に呟いてみる。
(ボクに考えがある)
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「うぉ!? お前パスカルかよ。どこにいんだ!」
「なに、今この身体の主導権を握っているのがボクなのさ。ボクからしたらキミ達は内なる声、脳内のお友達ってところだね」
白い天井から声のみが降る。此方から聞けば、差しづめ天の声といったところだ。
成程、俺から強欲へと肉体の支配権が移ったということか。交替が起こる条件に関して非常に気になるが、今は他に把握すべきことがある。
「強欲よ、外の状況を話せ」
「おゥ待てや。てめェいっつも思ってたけどなぁ、人のこと憤怒だの強欲だの、なんつーんだ、二つ名的なもンで呼んでくれやがってよ。あたしらには名前があんだ。もう百年近い付き合いだろが。名前で呼べや」
「固有の名前で呼ぶことに何の意味があるというのだ。 名前など個々を識別するための記号にすぎぬ。こと我々の会話において、名を用いる必要などないと思うがな?」
「あ゛?」
「ネア、許してあげてくれ。彼は恥ずかくてたまらないんだ。臆病者なんだよ」
「戯言を! そんなことはどうでも良い。早く教えろッ!」
「はいはい。ここはパメリア王国。今いるのが王都のどこかは分からない――」
その様な会話を続ける間に、周囲の白壁にぼんやりとした映像が投影され、次第に鮮明さを増してゆく。青い空、赤い屋根を持つ3本の塔の先端、すぐ横の地面を駆けて行くのは小鳥。これは強欲がその目で実際に見ている光景だろうか。興味深いことだ。
「周りの様子はなんとなく分かりました。ただ、今は魔王の身が心配です。こんな所で長々と無駄な話をするよりも城への帰還を急ぐべきでは?」
耐え兼ねたように暴食のゼルセロが切り出した。
「まさにそのことなんだけどね、ボクはまず自分たちの身に何が起きてるか詳しく知ることが必要だと思ってる。そこで、さっき言ったボクの考えなんだが、かの賢者に知恵を求めるというのはどうだろう?」
「賢者? 何者だ」
「何者って、賢者は賢者だよ。知らないかい? 賢者フュルシルケー。妖精の棲む秘境、ボクの母親の実家だね、その最奥部に住んでいて、魂の構造と再現の術に造詣が深いのだそうだ。ただ、実際に見た人は長らくいないんだけどね。なにせ奥地は禁域だから」
「待ってくださいよ。王国は大陸の東側、妖精の秘境があるのは北西の果てではないですか。それに、我々は腐っても魔王軍四天王ですよ。いずれはそこへ行くにしても、とにかく魔王を優先すべきです!」
「腐った覚えはないが……魔王城に向かい、その後賢者とやらに会えばよかろう。俺としても、魔王の身に何かあっては困るのでな。これが余裕というものだ」
「なんでてめぇが仕切り出してんだよ」
決まりだ。早速、強欲と交替すべく意識を向ける。馬車の内部から構造は無視して御者台へ。なかなか難しいものだ。俺に憑依魔法が使えたならば、また感覚が異なるのかもしれないが。
「うん? ちょっと待ちたまえよ」
肉の体が戻って来る。内側の白い壁面に映っていたものと同様の風景を、今度は本物の眼球が光で捉える。
突然やって来た外界の景色に眩しさを感じるが、精神的なものだろう。そもそも物の理なき「内側」で自分が持っていた身体の感覚は一体何処から来るものか。
(やや嫌な予感がするけど、一応聞くよ。何をする気だい?)
「決まっているだろう。〈隠匿〉〈転移〉」
絡み合う術式と魔力が質量の全てを瞬時に彼方へと撃ち出す。
そこに少女の姿があったことを知るのは、道行く灰色の小鳥のみである。