第21話
野球の秋
(それで? 何か対策は有るってことでいいのかな?)
視界の右端から叩きつけられる蜘蛛の前脚。円盾状に展開した金属を動きに合わせて弾いた所で、駆動する自らの思考の脇から新たな思念が差し込まれる。
敵戦力の内、不明確な要素は2つ。ゴブリンの戦士長とやらが攻防に用いる正体不明の揺らぎ、そして大蜘蛛を操る何らかの術だ。後者は蜘蛛を全て潰してしまえば機能を失おうが、前者に関しては情報が致命的に不足しており対策の講じようがない。百年近い年月を魔法の研鑽に費やしてきたこの俺さえ見知らぬ術法。強欲の剣の力が働かなかったことから魔法や異能の類ではないことは確か。此方の肉体を破壊、さらに投射した魔法をも粉砕した様から物理的破壊と魔法的破壊に跨って作用するものと考ることもできるが――
(幸い手脚に纏わせる以外の活用は見せていない。奴の格闘から十分に距離を取り、魔法を雨霰と投下して熱量で磨り潰してやるのが最善策ではあるだろう……。)
(しかし、しかしだ! 虫ケラと変わらぬ下等な悪に、亜人如きに、この俺がそれだけの戦法を取る必要があるか? 価値があるか? 断じて否ッ!)
俺の目的は1つ。この世の理、全ての悪を定義し殺す絶対の正義であること。その手段として欲したのが圧倒的な力。利用しようとした魔王が跡形も無くなっていたのは想定外だったが、所詮彼女もそこまでで終わる存在だったということ。復活と共に忌々しい小娘の身体に括りつけられたのも、四天王全ての力、技量、知識を1つの肉体で行使できる様になったと考えれば逆にチャンスでもある。他の3人をこの掌の上で躍らせ存分に利用してやれば、無限に進化するこの肉体を使い魔王に匹敵する、或いは超越する力をもって正義を執行できるやも知れないわけだ。今この世界、この宇宙の中で力の頂点は間違いなくこの俺。無限の可能性を内包する正義の極みが爆誕したのだ、いま此処に。
手始めに此処に居る滑稽な悪を始末してやらねば。手品のタネが割れぬなら舞台そのものを叩き割って終幕を与えるまで。
(も、もちろん完璧に決まっている。この俺が少々本気で遊んでやるのだからな)
一瞬の後に思考が紅色に占領される。跳躍ののち力任せに振り下ろした踵が硬い外骨格を打ち砕き、蜘蛛の臓物がぶちまけられた。暴食が何を思ったのか、顔に付着した青い体液を味見とばかりに舐め取る。不味い。やはり下等な生物には薄汚い血が流れ、下等な味がするものだ。顔を顰めるその間を隙と見たか、横合いから躍りかかる新手の虫ケラには身に纏う白銀の流体を瞬時に硬化、螺旋状に撃ち出して対応する。穿たれた頭部から汚らしい体液を噴き上げる屍を盾にゴブリンの拳士へと接近、しかし上段の回し蹴りはあっさりとあしらわれた。相も変らぬ腹立たしいほど整った戦闘動作である。
(さてしかし、その余裕がいつまで続くかな?)
「待ってましたよ。 〈新星〉!!」
反撃とばかりに繰り出される側蹴を喰らう寸前、詠唱された星霊魔法はその効果を発揮する前に使用者の肉体に絶大な負荷を与え塵へ帰す。突き刺さるべき目標を急に失った脚が空を切り、ここまで常に流れるような動きを見せてきたゴブリンが勢い余る形で僅かに体勢を崩した。
その刹那を見逃さず濃煙とともに敵の背後にて肉体を再構築。不死身の証左たる紫の噴水を目眩ましに、右手に実体化した妖剣から渾身の刺突を放つ。自己消滅による急回避、相手の体勢を乱し、復活と同時に死角からの一突き。拳士は異次元の速度をもって身を捻ることに成功したものの、揺らぎを纏い切らぬ右の肩口にて浅くない一撃を浴びることとなった。
「おらッ底が見えてきたじゃねーか! あ゛? っぱあたしが最強だろがァ」
「ぬゥん!」
右から、左から。調子に乗って放たれる紅い拳の連撃は、淡々と攻撃を捌いてきた達人がついに発した低い唸り声と共に弾き払われる。衝撃を殺すべく後方へと跳ぶ、と見せかけて身に纏う鋼塊を一部分離、板状に変形させ背後に壁面を展開。これを蹴ることで再び敵の懐へと飛び込む。繰り出した貫手が躱されんとする瞬間、腕部に纏った魔金属を指先に一点集中し、棘状に伸長させて彼我の間に横たわる紙一重を潰す。思わぬ射程を得た一撃には流石の拳士も対応しかねたか、今度は左の肩をしかと貫かれ僅かに顔を歪めたのが確認できた。
「下手に玄人ぶって最低限の動きでかわしたのが仇になりましたねェ。ふふ。嬲る、甚振る。そう面白くもないですが、"弱者"に対するこれもまた美味な感情なんですよぉッ。」
自然と口の端が吊り上がる。硬化と流体化の切り替えによる瞬時の造形、圧倒的な応用力を秘めたこの〈変幻鋼塊〉こそ元素魔術における1つの到達点といえる。武器に、障壁に、鎧に、或いは今の様に肉体の延長として。正しく無限の可能性を持つ攻防一体の至高の術式。今の身体では魔力の最大量の制限を受け、攻に割けば防を削らねばならないのが難点か。とはいえ我ながら余りに美しすぎる。
兎に角、桁外れの手数でもって常に予想外の一手を打ち続ける。全てを初見に留めて完殺する。いかな達人といえど亜人の域を出ない以上、絶対者たる魔王軍四天王には些かの勝ち目も無いことを教えてやるのだ。
(そう、敵の防御手段の絡繰を暴くまでもない。まともに防御させなければいいんですよ。)
(そしてボク達には切れる手札なんてまだ幾らもある。一方あのゴブリンの攻撃手段は滑稽な徒手空拳だけさ。流石に見切ったろう?)
(たりめーだァこの程度の雑魚の動きなんざなぁッ)
正拳を放つと同時に手中に火焔剣が顕現、打撃の点から斬り払いの線へと攻撃の軌道を変える。敵の周囲に魔金属の柱を複数構築し回避を制限する。或いは流動する鋼の触手を無数に形成、拳打に合わせた全方向からの連撃で防御の隙間を縫うように削り続ける。ある時は再び星霊魔法による肉体の自滅にて攻撃回避し、復活の紫煙の中で金属塊を分離し複数の人型に再造形、これらを囮に死角から強撃を加える。1つ、また1つと傷の増えゆく緑の体躯を弄ぶように、深紅の拳が燃え盛る。突きが、蹴りが、斬撃が彼の想定外の軌道を描くたびに亜人の血が噴出し簡素な衣服を緋に染める。傷口から命が流れ出し、疲労の蓄積は加速する。それはゆっくりと、しかし着実に達人の技を重く、鈍く蝕んでいく。再生力も、規格外の体力も有さない小物に相応しい無様な――大層無様な姿だ。
魔石の床面を殴り砕く。飛散した無数の破片を回転蹴りの風圧で飛散させ、距離をとらせた相手に対して自滅の疑似転移を用いて、空を舞う瓦礫を透過し肉薄。避けようのない一撃は強かに緑色の脇腹を抉った。
「弱ぇ弱ぇ弱ぇゴミ弱ぇ! ンだよもうついて来れねーのか? つッまんねーなクソ雑魚がァ」
「ああ、あハぁ! 死んでしまう。殺されてしまうぞぉ! おお、恐ろしい。だ、だが死んでみたらなんということもないのかもなぁ~ッ」
真横から飛来した糸は腕部の銀装甲を鋸状に変形することで斬り捨てた。徐々に追い詰められるゴブリンの戦士を前に髪を振り乱し、満面の笑みでオーガ王が叫ぶ。何故この様な下賤な知性がこの世に存在するのか。命の価値を理解できない者には生まれてきたことそのものへの懺悔が必要だろう。
不意に視界に影が落ちる。眼球の動きのみで確認すれば、八本脚の巨体が折り重なって頭上より降ってくる。大方ゴブリンの形勢を不利と見て、残りの虫ケラをつぎ込んでの援護をしたつもりであろう。しかし如何なる事態も、魔法の使い手として最高位にあるこの俺を動じさせるには至らない。全身の装甲量を大きく削って半球状の金属膜を展開、球面に着地した蜘蛛の脚は、膜表面を棘状に変形することで縫い留める。
「かかったね。 雷光剣」
出現した黄金の剣はその輝きを獰猛な雷の束に変え、白銀の球の内側から下等な虫どもの一切を焼き尽くす。屍が炭と崩れる音を置き去りに暴食が星霊魔法を詠唱、王族を守るように立つゴブリンの背後、ふんぞり返るオーガとの間に割って入るように崩壊した身体を再構築し、妖剣を大きく振りかぶる。
亜人の拳士は全身に傷を負いながらも咄嗟に流石の反応を見せ、振り返るが早いか交差した両腕に揺らめきを集中。自らを狙うかに見えた斬撃を受け流すべく後方、即ち護るべき主とは逆の方へと跳び退り――
「ははッ逃げたね? この時を待っていたァ 氷鋭剣ッ」
「守る、守る? そういったね!? ほらキミ、有言実行したまえよ! ほらほらほらほらァ」
脳内が悪趣味な黄金に染め上がる様を幻視して、手の中でくるりと持ち変えられた少女の強欲の剣は確かに持ち主の腹部を貫いた。
===========
黄金色の光を放つ鋼が自らの肉を穿ち背中へと通り抜ける。突き出た切っ先から迸る氷柱は無数に枝分かれしながら空を駆け、呆然と佇む亜人の王族全員の心臓部を過たず貫通した。
(貴様ぁ何をしている!? 今から奴らの手足を捥いで懺悔の時間だったものを! すぐに殺しては意味がないではないか)
脳内にやかましく響く声を華麗に聞き流しつつパスカルはほくそ笑む。残念ながら自分には気狂いの亜人をことさらに甚振る趣味はない。用があるのは彼らの内の誰か――恐らくはオーガ王が持つ蜘蛛を操る能力、それだけだ。卑小な亜人如きが特別性を持つなどあってはならない。他の3人がゴブリンとの格闘ごっこ遊びに夢中になっている間も、常に隙を伺っていたのだ。常に王達を背中に庇うように立ち回る彼の、その守りが綻ぶ瞬間、自らと守るべきものの"順番"を天秤にかけるその時を。
ゆっくりと得物を引き抜く。自らの腸を裂いて噴き出した鮮血は魔王城の床を濡らし、5つ数える間にその勢いを完全に失った。評価すべき再生速度だ。高速再生と魔法による痛覚遮断を前提に、"自らの身体を剣で貫いての"背後への攻撃。下等生物の意表を突くには十分だ。後は亜人の死体に剣を突き立て力を奪うだけ。
(奪う......いや、取り戻すと表現した方がいいのかな。そうだよ全ての輝きの頂点、未来のボクから過去へ向かって、こいつらが盗んでいったんだ。まったく許しがたいね。なということだッ! ゆ、許せない! 全部全部、特別は特別な英雄ただ1人のものなのさ)
「お、王よ! ギアバ様ッ」
傷だらけの武人が悲痛な声を上げゴブリンの王と思しき男へと駆け寄る。その姿にどこか――脳細胞の片隅が違和感を訴えるが気のせいだと流すことにした。倒れ伏す緑の矮躯から命が失われていく様子に、彼が漏らす短い嗚咽も真の英雄にとっては全くもって下らない雑音だ。それにしてもゴブリンという生物は名前までも洒落に欠けるのだろうか。なんともしっくりこない響きをしている。
「アハハ! 無様、無様。本当に救いようがない愚かさだね。力は他人を守るためにある? 噓つけ、キミは自分への攻撃を避けようとして真に大切な命を取りこぼしてるじゃないか。1番を見誤ったね。生まれ落ちてからこのかたソレを定めてなど来なかったろう。守るなんて考えを抱いた時点で守れるものなんか何もなくなる。失うことしか能がなくなるんだよ。」
「殺しにいくことと、殺しに来たやつを殺すこと。どちらも振るった力のもたらすところは同じなのに、護るためなんて言い訳して、血染めの両手を誤魔化してる……その程度のキミが真の英雄にどうして勝てるのさ?」
「ま、英雄譚には教訓ってのが付き物。キミもボクという輝かしい存在を語る伝説の1文字くらいにはなれて本当にうれしいだろう。光栄だろうそうだろう! 心の底から感謝してくれていいからね」
「……ぃ」
「ン。何だい? 負け惜しみかな? 言いたいことがあるならばハッキリ言いなよ、え?」
「"天宿り" "仮日依り" 星降る夜を帳れ――【憑】」
(辞世の句とかいうものか? 魔力の動きは見られない。呪文の類ではないな)
(フ。戯れ言ですね。捨て置けばいいでしょう。)
戦意喪失とばかりに背を丸めて跪くゴブリンの戦士からは、以降何ら反応はなかった。意識の後ろの方で竜が不満げに鼻を鳴らす。リザードマン、オーク、ラットマン。一様にどこかぼんやりとした表情の死体を踏み越え、ひきつった笑いを凍らせるオーガ王へとたどり着く。結局この男は何がしたかったのだろうか。死にたいのか死にたくないのかどうにもはっきりしない。他の亜人の首領格ともども、どうして逃げるわけでもなく地蔵になっていたのか。今更暴く手立てもないし、彼らの薄っぺらい物語に耳を傾ける気も全くもってないのだが。平凡が特別に楯突いて当然の死を迎えただけなのだ。
「ふむ、程よく半凍りだね。彼の言を参考にするなら、せめて死にたくないと面白可笑しく命乞いでもさせてあげるべきだったか。でもいいや、いただくよ吸奪――もげらぁッ!?」
肌を突き抜ける痛みに思わず悲鳴を上げ剣を取り落とす。黄金の切っ先を目前にオーガの死体が突如として発火したのだ。他の亜人どもの屍も一様に白い炎を噴き上げている。王を抱えたゴブリンの拳士が音もなく崩れ落ちる様が目に入る。仄白い光は瞬く間に辺り一面に燃え広がり、そこにある全てを隈なく舐め回した。この場の生命と、生命だったものの上を灼けつく舌が容赦なく舐め回していく。
「〈波壁〉 〈霧の帳〉! くそう消えんなんだこの炎は? このっゴミ共の切り札か? こんなもの......見たことがないッ」
「許さない最後にこんなっ許せるか誰だこのボクにッなぜこうも都合よく唐突に邪魔が入るんだよぉぉぉぉ」
「待って熱い熱い熱い痛い痛い! ゲゲゲ、ゲル―ツク貴方魔法を切りましたね? 面白くないんですよそういうのは!!」
「馬鹿な、そんな筈はない。ぬわぁ多重の〈元素結界〉すら貫通するだと......なんだこれは炎ではないのかッ一体何なのだぁぁぁ」
「クソぁこの役立たずが! ゴミカス! 消えろ消えろぉ」
あらゆる元素魔法を弾くのであろう虹色の障壁が展開されるも一瞬で消滅した。腕に、脚に、真っ白な炎が燃え移る。ゲル―ツクが手を変え品を変え消火を試みるが正に焼け石に水。未だかつて経験のない感覚が脳の中枢を灼く。痛みとも熱ともつかぬものが精神を焼き切っていく。罠があったのか。揺らめくゴブリンの技といい、この場の亜人は不可解な要素が多すぎる。いや、もう考えられない、何も考えられない。何も考えられないと考えられているのかすら考えられない。
「ぁぎいいいいいいいい熱い! く、来るなぁ痛い痛い痛ぁ熱いへえへ許せッ死にたくない嫌だしにたくないよっぉ」
口をついたのは一体誰の言葉だったろうか。絶対に自分であるはずはない、英雄がこんなにも情けない声を上げるものか。ふざけるな。パスカルは白く眩んだ闇の中へと意識を手放した。
===========
ほどなくして空気に溶けるように火が跡形もなく消え去ると魔王城最上階には外傷の一切ない、焼けずの焼死体が出来上がる。
じきに少女は紫の霧を吐くとゆっくりと起き上り、悪態の1つ2つでもつくだろう。
遠くの空に微かに陽の光が顔を出す。今はまだ床に横たわる彼女を、朝焼けを待つ空気が真っ赤に嘲笑っていた。




