四話
出産騒ぎの次の日、ほぼ一日中付き添っていたらしいルーティエはその翌朝、ローリーの様態も安定したことと。天候がいい事もあり「ちょっと行ってきますね」と言ってそのまま山に入っていった。実に軽装でいつもの採集かと思ったが、そのまま一週間ほど戻って来なかったために、村では一時捜索隊まで組まれそうなほどに騒然となった。
リックなど嫁と子供の恩人だからと無理やり山に登って行きそうなほどだったのを何人かで取り押さえたとか。
さすがに狩人が森に入る際にそれとなく見て回るほか、夜間は櫓の上で篝火をたくなどして目印になればと、皆で無事を祈ったものだった。
しかし、そんな心配などまるで知らないとばかりに、8日目の昼前にひょっこり戻ってきた彼女は、あれよあれよと集まって結果、数十人となった出迎えにギョッとした顔で答えた。
曰く、つい夢中になってしまって日数超過してしまった、物資は事前に分散して設置していたので特にこまらなかった、岩肌にうっすら生えているせいで一度に取れる量が少なく十分に集めるのに時間がかかった、と言うことらしい。
さらには帰りの道すがら見かけた熊をしとめたらしく、村の入り口においてあるとまで言ってのけたのだ。この時期に見られる熊は食に貪欲で普段は近寄らない人間にさえ積極的に襲い掛かって危険なのだが、回収を請け負った大柄の狩人の小父さん曰く、丁寧に腑分けされてなお、「わしでも担ぐのはしんどいのにどうやってもって帰ってきたのやら」と言わせるほどの大物だったらしく。肝やその他の薬の素材は回収したが、肉をそんなには食べられないと言う彼女の希望で切り分けた部位が各家庭に配られて侘しい冬の食卓が珍しく華やいだものになった。
その後は何事もなく日々は過ぎ去り、俺は自分の家と婆さんの家、そして彼女の小屋とを行ったり来たりしつつ、調合や錬金術について学び始めていた。なぜか婆さんの孫のミーヤも一緒について回っていたが、二人であれやこれやと相談しつつ適度に刺激しあったものだった。
また、ミーヤはルーティエの出立のときに学術院の推薦状を頂き、数年ほど就学した後に街で薬屋を営む父母の店を継ぐことになる。その後、引退する母親は入れ替わるように夫婦で村へ戻り村の薬士として周囲の村を回りつつ余生を過ごすことになる。
就学中に婿も見つけたと聞いたときは、ちゃっかりしたものだと思ったものだったが、その候補に俺自身が入っていたと聞いたときは少々衝撃を受けたものだが。とうの本人はケラケラと笑いながら「ぜんぜん脈がなくて早々に諦めたわ」とこぼしていた。
とはいえ、この時はまだ男女の機微など気にも留めていなかったので、卒業時に帰郷した際であればちょうど年頃で、また違ったのかもしれないなぁと思ったものだ。もっともその時ではすでに遅かったわけだが。
冬の間に決まったミーヤの学術院行きは村の中でなかなかホットなニュースとなり、ずいぶんと羨んだ者たちも出たのだが、ルーティエの推薦を受けられるほどの者はそうそう居らず、俺もねだって見たものの「エンロヤ殿に印可がもらえたら出してあげよう」と朗らかな笑顔で断られた。じゃあ弟子入りをと言えば、そばで聞いていた婆さんと視線を合わせてニンマリと笑って「きびしくしちゃるぞ?」と、擂り粉木を撫で回していたのが記憶に鮮烈に残っている。
実際に何度あれでぶん殴られたことか、数えるのも億劫になる。
そして、雪解けが始まり街道の土が見えるころになると、ルーティエとミーヤは連れ立って村を去り、俺は叱り先のなくなった婆さんの弟子見習いとして調合や採集をすることになった。これまでと違うのは、仕事として勘定されるため給金の変わりに食料などの割り当てとして数えられるようになったこと。未成年は基本的に明確に割り当てられているのではなく、子を持つ親に扶養手当として増やされた割り当てで食べていると言うことになっている。そのため、よく同世代からはやっかみを受けたり、たかられたりしたものだった。
そうした食料などをコツコツ貯めて、猟師の小父さんたちから毛皮などと交換したものやルーティエに教わった植物の素材や加工品を、行商や護衛の冒険たちに売って小銭として蓄えられたものが出立資金となった。
そしてついに、17歳の春。ミーヤの両親が帰郷し、薬屋に人手が不用になったことを機に説得できない両親に書置きを残して、それまでに仲良くなっていた隊商の一行にまぎれて村を出た。
7年遅れの、夜逃げのような出立となった。
荷物は背嚢一つに木製棍棒、ポーチ付きベルトと、その中に入ったいくつかの薬。
後半のほとんどは婆さんが用立ててくれたもので、出立の朝、最後の挨拶に訪れた小屋で「どれほどの価値があるかは知らんが」と言いつつ、そこそこ上等な羊皮紙に書かれた薬士としての免状と一緒に渡されたものだ。そんな準備のよさに驚く俺に、婆さんはカッカと笑いをこぼして「バレバレじゃ阿呆め、落ち着いたら手紙でも出してやれい」と腰を叩いて小屋を追い出された。
「あー、これ、まちなさい」
戸口の婆さんに何度も礼を言いながら小屋を離れようとした俺をもう一度だけ呼び止めて追いかけて来た婆さんは、手招きをして俺を屈ませると、両の手で挟みこんだ頬をぐにぐにと揉みながら「悪がきめ」と小さくこぼした。
その指先には力はなく、細く節くれだち、かさついていた。目じりには深い深い皺が寄り、その隙間から光るものが浮き出ていた。
そこでようやく、このまま村を出ればこれが今生の別れになる可能性がある。そのことに気が付いた。高齢の婆さんは言うに及ばず、父にも母にも碌な挨拶もせぬままに、
「悪たれめ、よう見せい。親不孝もんの顔が、どんなもんか覚えといちゃるわ」
そんな婆さんの言葉に対して、俺の震える口から発しようとした言葉は、胸に詰まって嗚咽のような音となって零れただけで、意味のある声にはならなかったが、婆さんは泣き笑いの顔でなんどもなんども頷いて、しばらくそうして俺の顔を揉み続けたあとで、最後にぱちんと、挟むように頬を打ち「達者での」とだけ言って小屋に入っていった。その背中に向かって深く頭を下げて、出立準備に動く隊商の元へと向かって歩き出した。
通常、日の出に出れば昼過ぎには到着する麓の村も、材木と言う大荷物を抱えていては進みも遅くなる。到着したのは日差しも柔らかくなり、夕方までもう少しといった頃合だった。隊商護衛の隊長によれば、下りで出せなかった速度が出せるようになるので明日以降は速度も上がるらしい。明日も日の出に出発だとだけ聞いて、嫁いだ姉のいる家に顔だけ出しに行った。あわよくば土間でも借りて寝床にできればと思いつつ。
ちょうど夕餉の仕込み中だったのか、赤ん坊を背負った姉が軒先で芋を洗っているところだった。なんの連絡もなしに現れた俺をぽかんと見上げる姉に向けて「ひさしぶり」と手を上げて見せた。
「あんた、なにしとんの」
そんなセリフからあれやこれやと、矢継ぎ早に質問されているところに旦那の、旦那のぉ……旦那さんが家から出てきた。どうやら畑仕事も終えて着替えていたらしく小奇麗な格好だった。
誰何されるより早く、姉に紹介されて改めて名乗る。顔を合わせたのは確か二回だけで、姉の嫁入りの時と、初孫の顔を見せに来た時だけのはずだ。その子は今旦那さんの腕に抱かれている。
「おー、大きゅぅなったのぅ、今日はどうしたんね。嫁さんでも探しに着た、にしたら格好が物々しいが」
そんな問いに、ザックリと家を飛び出した事や長旅になるかもしれないために姉の顔でも見ていこうと思って寄ったことを話した。旦那さんは何度か頷いて、寝床の都合を付けてくれると言って家に引っ込んでいった。その目は何か言いたげではあったが、全て飲み込んでくれた様でありがたかった。
そのあとは赤子をあやす姉の傍らで、一人増えた食材を裏の畑から自分で採りに行ったり、洗ったり切ったり火にかけたりしつつゆっくりと姉と久しぶりの会話をした。どうしても一緒にいた期間が10歳ソコソコまでなので子供の頃の話題や、最近の両親の話などが多くなった。
明日以降の話は出なかった。
夕食は芋と根菜のスープとパン。大半を俺が仕上げたのだが、旦那さんが微妙な顔をしたのを見てなにか失敗したかと聞いてみた。
「いや、うまいよ。その、いつもより」
「……姉さん」
「ああ、いや、普段がまずいって言うんじゃない。たまに人参がゴリゴリしたりするくらいで」
あからさまに視線を逸らす姉に冷たい目を向けつつ。なぜか旦那さんに申し訳ない気分になった。明日の出発前に母宛の手紙を書いておこう。二人目も生まれたようだし顔を見るついでに料理指導でもしていってくれるように。
あとはもう、姉夫婦の普段の生活のことや、山とは違う麓の日常についてなどを日が沈むまで話し込んだ。
日が沈み、姉が子供二人を寝床に誘い、旦那さんと二人になった。旦那さんは土間の隅から、そう大きくはないドブロクを持ち出して、2つのぐい飲みに注いで一方を渡してきた。
「まぁ、お前さんもようよう考えた末なんじゃろうから、何も言わんがの。身体だけは大事にせぃよ。ほんで、一段落がすんだら、もっぺん顔を見せに来いやの」
肩にバシリと手を置き、立ったままゆっくりと自分の分を飲み干した。そして「もう寝るわ」と、そのまま奥の部屋に引っ込んでいった。
送り出されると言うのは、なんともいえない気分を胸にいだかされるものだと、しみじみ感じつつ、自分も手の中の酒を一気に呷って部屋の隅に用意された寝床に潜り込んだ。
翌朝、日が昇るより早く起き出した姉夫婦に見送られて家を出た。昨夜のお礼にと差し出したが突き返された銀貨が未だに俺の手の中にあった。旅の無事を祈られ、家出する親不孝をなじられる。そんな一通りの挨拶を済ませて荷物を背負う。
「カール」
名前を呼ばれて振り返れば、思いっきり左の頬を引っ叩かれた。
「ま、これでお母さんにはしっかり怒っといたっていっとくわ」
「さんざん怒られた気がするけど。まぁ、頼むよ」
ヒリヒリと痒みをもつ頬を指先で掻きつつ、苦笑いのままその場を離れる。
いくらか離れたところで振り返って姉を呼ぶ。手の中の銀貨を投げて、
「チビ達に!」
そう言って返事も待たず、硬貨が姉の下に届くよりも早く踵を返して走り去る。後ろから何か言っている気がするが無視して隊商に合流する。
こう言えば不義理だろうか、村を出て以来あった胸のつかえが、姉の一撃で軽くなったような気さえしていた。なんだろうか、今ならどこへでも行ける気がして足取りは軽かった。