04 己を鍛える
魔物として暮らし始めてから日課としている事がある。
それは鍛錬だ。
現在の訓練メニューとしては柔軟体操、走り込み、剣の素振り、といったところである。
万象を捉える五感、地形すら変えかねない暴威を宿した獅子鬼の身体に鍛えるところがあるのか、というのは当然の疑問である。
実際、鍛えなくても十分な力を秘めている。
では、なぜこんなことをしているのか?
それは人間だった頃の名残、というのがまず一つ目の理由である。
戦士だった私にとって修行は日常に組み込まれていた。
朝目覚めてから一連の流れをこなすのが冒険者ジェラルドが10年以上続けてきた習慣であり、サボるとどうにも落ち着かない。
そして、もう一つの理由……こちらの方が切実なのだが、今の身体に慣れるためだ。
なにしろ私は元人間である、その為身体を動かす際にどうしてもそちらのイメージに引き摺られてしまう。
獅子鬼は人型の魔物なので、人間に出来る動きは大抵こなせる。
しかし結果には大きな齟齬が生じた。
イメージのずれは獅子鬼になった直後が特に酷かった。
木の実を食おうと手を伸ばし掴んだ瞬間握り潰してしまうとか、跳躍しようと軽く踏み込んだつもりで地面を踏み割って崩したとか、色々な失敗をした。
この様に慣れ親しんだ自身の体以外を完全に扱うのは意外と難しい。
変化した先が四肢を備えた魔物だったのは不幸中の幸いだった。
これが四足の獣だった日にはまともに歩く事すら困難だったかもしれない。
さて日常生活を過ごす程度なら笑い話で済む失敗だが、戦闘まで考えるとこれが少し深刻になってくる。
今のところ食事の為に鳥獣を狩る程度で、戦闘らしい戦闘の経験はない。
それでも精神と肉体の齟齬が生む悪影響は幾らでも思いつく。
腕の長さが違えば攻撃の間合が違うだろう。
脚の長さと脚力が一歩の移動距離を変える。
身体の柔軟性や関節の稼動域で動きの限界が違ってくる。
鋭すぎる五感が仇になる場合だってあるかもしれない。
そもそも今の身体の能力限界が分からない事が恐ろしいのである。
かくして今日も鍛錬に精を出す。
鍛錬の場は寝床と定めた洞窟付近の広場である。
茂る森の中にぽつんとあるだだっ広い空間、この場は最初からこうだったわけではなく自作の鍛錬場だったりする。
樹木を引っこ抜いて自由に動き回れる空間を作り、地面を均して踏み固めただけの簡素なものだ。
目に付くとしたら、広場の端に付き立ててある素振り用の木剣と筋力トレーニング用に集めてある大岩くらいか。
そのうち投擲訓練用の的なども準備したいと思っている。
前置きが長くなってしまったが、そろそろ始めるとしよう。
まずは準備運動としての柔軟体操である。
関節の可動域を確認しつつ、全身の筋を時間を掛けて伸ばしていく。
弛緩と緊張を繰り返し体を解すのだ。
それが終われば、その場で飛んで跳ねてと体を暖める動きに移行する。
十分に暖まったら突きや蹴りなど格闘の基本動作だ。
元々この運動は素手での格闘を得意とする冒険者仲間から教えて貰ったものなのだ。
組手の相手を務める事もあった。
あいつは今どうしているだろう?
いつか師匠を殴り倒すのだと息巻いていたが、念願は叶ったのだろうか。
獅子鬼の肉体は格闘戦に向いているのだろうと思う。
力任せに殴る、蹴る、掴み、投げるだけで相当なものだろう。
けれど鋭い爪や牙、強靭な尻尾という人にない武器も備わっているのだから、この使い方を研究したいところだ。
ただ爪を振るうのではなく、弛緩と緊張の瞬間的な切り替えを意識し角度を選んで切り裂くように放つ。
牙を有効活用するならば組み付き方も考えねばなるまい。
突き立てる場所が急所かどうかでその威力は全く別物となるだろう。
尻尾の使い方はまだよく分からない。
いつか手足と変わらぬくらい動くようになれば良いのだが。
きっと人間時代より幅のある戦い方ができるはずだ……使うような相手がいるかどうかは別として。
さあ、準備運動はもう良いだろう。
十分に体を温めたところで縄張りの確認も兼ねたランニングである。
現在、己の縄張りと定めているのはレグナム王国北西部の森林地域の一部だ。
人であった頃住んでいた港湾都市から見て北に位置する場所で、通称魔獣の森。
その呼び名通り普通の鳥獣だけではなく魔獣の類も生息する危険な森である、その深部域が我が住処。
危険な森と言ってもそれは人間にとっての話、獅子鬼たる我が身から見れば人の立ち入らぬ安全で平穏な庭場なのだ。
魔獣はどうしたのか?
もちろん割と頻繁に見かける。
強めの奴らだと樹齢100年越えの大木に巻き付き圧し折る多頭大蛇だとか、巨大な鷲獅子、幻術を操る白い九尾狐などがいる。
弱いところで小妖鬼の集落や犬鬼の群れなど……探せばもっと色々な種類がいるだろう。
なお戦闘になった事は一度もない。
どいつもこいつも私を見ると即座に逃げ出すからな。
まあ、この森で最強クラスの多頭大蛇でさえ簡単に狩れる餌の範囲だから、関わりたくないという気持ちはわかる。
こちらが逃す気無しで襲い掛かれば別なのだろうが、今のところあえて魔獣を狙う気はない。
魔力を持たぬ普通の猪や鹿、鳥や魚の方が簡単に獲れる上に美味しいからだ。
魔力を帯びた生き物は何故か苦くて不味いのである。
で、噂をすれば何とやら。
途中休憩しようと泉に向かったところ魔獣の気配を感じた。
私はその場で足を止めて気配を殺し、相手の正体を見定めるべく五感を研ぎ澄ませる。
どうやら森の中でも強者と言える九尾白狐のようだ。
白い毛皮は相変わらず美しく、尻尾は柔らかく触り心地が良さそうだなと思う。
ゆっくりと泉に口を付けるその姿はどこか優雅で気品すら感じさせる。
あちらも水を飲みに来たところか……おや?
白狐はびくりと身体を震わせ、顔を上げると何度か鼻をひくつかせる。
そして私がいる方へと視線を向けた。
どうやらこちらに気が付いたようである。
気配は完全に殺していたはずなのに、流石の探知能力だ。
私も水を飲みに来ただけだからな……な?
私は姿を曝し、相手を刺激しないようにゆっくりと泉に近付いていく。
白狐は私の姿を確認して硬直、おろおろと視線を彷徨わせる。
争うつもりは無いから安心してくれ。
私は敵意がない事を示すべく笑顔を見せ、やあ、と手を振った。
白狐は尾を丸めてぶるぶると震え、終いにはひっくり返って腹を見せた。
……どうしてそうなる。
まあ、今日の休憩は別の場所でするか。
罪悪感を覚えた私は水を諦めてこの場を立ち去ることにした。
出発してから二時間ほど経過、縄張りを一回りして鍛錬場まで帰ってきた。
最後のメニューは剣を握って素振りである。
鍛錬場まで戻ってきた私は自分の身長よりも長い巨大木剣を手に取る。
この木剣は広場を作った時に引っこ抜いた大木を爪で削って作ったものだ。
もちろん冒険者時代の魔剣もあるのだが、今の体には合わないのである。
魔剣は両手用の大剣として作られているのだが、如何せん人間用。
獅子鬼の体で振り回すと、片手剣として扱うにはやや短く短剣としては長すぎるという微妙な大きさになるし、重量も軽すぎて物足りない。
そもそも私が習得している剣術の型は大半が両手剣使用を前提としたものなのだ。
木剣を大上段に構え、全力で振り下ろす。
地面に接するぎりぎりで止め、そのまま跳ね上げ下段からの切り上げに変じる。
……うむ、やはり両手剣が一番馴染む。
自分と同じサイズの人間が前に立っていることを想定して木剣を振るう。
まずは個々の技を確認し、次いで技を繋げた型を練習する。
相手の反撃も考え、受けや体捌きによる回避なども意識していく……のだが、中々イメージどおりの動きにはならない。
訓練相手さえ居ればもっと捗るのだろうがなあ。
冒険者だった頃は組合の修練場に顔を出せば誰かしら顔馴染みが居たので、練習相手に困ることは無かった。
今から思えばとても贅沢な環境だったと言えよう。
若い者にはまだまだ負けぬ、が口癖のベテラン槍使いは間合の取り方が絶妙だった。
片手剣と盾を巧みに操る騎士志望の青年はフェイントを駆使して対戦者の動きを誘導する事に長けていた。
女だてらに大斧を振り回す彼女はスタミナの配分が完璧で疲れを見せることがなかった。
爪と牙を巧みに操る獣人格闘家の技は今こそ教えて欲しい。
組合長に頼まれて若手冒険者に指導する事もあったが、あれだって自分の技を見直す良い機会になっていたと思う。
ちょっと指導しただけなのに妙に懐かれ、師匠師匠と後を追い回されたのには少し参ったが……。
私は自分で思っているよりも精神的に脆く、寂しがり屋なのかもしれない。
頭を振って雑念を払い、鍛錬を再開した。
一心不乱に木剣を振るい続ける。
※※※
更に半年が過ぎた。
最近は魔物としての生活に慣れ、精神と肉体の齟齬もほぼ完璧になくなった。
余裕が生まれたせいか、時折将来の事を思う。
外敵と成り得るものが少なく狩猟が得意な私だから、生存と言う点では全く問題ない。
けれど漠然とした不安が消えないのだ。
私はこれから先いつまで今の生活を続けるのだろうか。
獅子鬼の寿命がどの程度なのかは不明だが、かなり長いと予想できる。
根拠は身に宿した魔力の強さである。
一般的に宿した魔力が多いほど生物は長生きだとされている。
魔力が乏しいヒューマン種は平均して50年、最長でも100年程度。
妖精種は種族によって差が激しいが魔力低めのドワーフでも300年、高魔力が自慢のエルフに至っては1000年は生きるという。
人外になるともっと極端で、特に無尽蔵な魔力を誇る竜種などは寿命自体存在しないのだとか。
我が身に宿る魔力を計測する方法は無いが、竜に匹敵する化物扱いだ。
少なく見積もってもエルフ程度は上回るだろう。
これから先数百年、下手をすれば千年単位でこの生活を続けるとして私はいつまで耐えられる?
やるべき事もなく、楽しみといえる物もなく、ただ一人森で過ごすのか?
生来の魔物ならそれで何の問題もないのだろう。
しかし私は人間の生活を、街での営みを知っている。
だからこそ今の生活に耐えがたい。
他人と最後に会話をしてから早一年、まだ一年。
このままではいつか孤独と退屈に押し潰されて発狂してしまうのではないだろうか。
主人公は身体感覚の調整に成功した。
新たな必殺技、魔力ぶっぱ剣を覚えた。