第118話 過去編7 〜悲劇
外にはたくさんの景色がある。綺麗な緑色の光を降り注がせている木々や、暖かな日差しの下を歩いている人々。公園で遊んでいる子供たちや、餌を一生懸命つついている鳩の群れなど、一見どうでもよさそうに見える景色は、初めて外を世界を見る刹那にとってはどれも新鮮で面白いものだった。
特にどこへ行く、というわけでもない。金があったら、デパートか何かに行って色々買うのだが、生憎そんなことはできない。金はもう底を尽きかけている。この1週間、ただ食べていく分の余裕しかない。
だから、こうやって何でもない道をただ歩く。全てを知っている明と早苗は、様々なものを指差しては刹那の興味を引いていた。それが、今刹那に与えることができる勉学だった。本もおもちゃも何も買ってやれない2人の、精一杯の教えだった。
街中にある何でもないものを見るたびに、刹那は不思議な顔をし、笑い、声を上げる。こうやって、少しでも知識を得てくれたらいいと明は思っていた。
そうしながら3人並んで歩き、公園に差し掛かった時だった。
「あ! あの子ったら、危ない」
「お、おい早苗!」
「明君、お願い!」
早苗は刹那を明に預け、車道に転がったボールを拾おうとしている子供のほうに駆けていった。
まぁ、早苗の性格からして、困っている子供を見捨てるなどできるわけがない。だから、明は仕方ないなぁ、と軽く早苗の行為を受け止めていた。
だが、悲劇は起きた。起きてしまった。
「・・・・え?」
車道から重なったクラクションと、耳を劈くようなブレーキ音が響き渡った。原因は・・・・・あれだ、あの大型のトラックだ。
そのトラックは、周りの軽自動車を吹っ飛ばし、突っ込んできたワゴン車にもお構いなしに、ボールを拾おうとしている子供の方向へ猛スピードで突っ込んでいった。
かなりの重量があるトラックが、100キロを超えるスピードで小さな子供に突っ込んだらどうなるか? 結末は火を見るより明らかだ。死ぬのは確実、良くて病院に運ばれてからの死、悪くて即死。幼いあの子供がトラックによって宙を舞う姿が容易に想像できた。
その子供はきょとんとしていて、目の前のトラックが自分に向かってきていることに気付いていないようだった。そのトラックが、あと数秒後には自分を撥ね飛ばすことを理解できていなかった。
明はその光景を頭で理解しながら、動けなかった。頭の中で助けなければならないとわかっているのに、どうしてか体が凍りついたように動かない。それは周りにいる人達も同じようだった。子供が轢かれるとわかっているのに、誰1人動けないのだ。
そんな中、たった1人だけその子供に向かって走る女がいた。そう・・・、早苗だ。他には目もくれず、視線の先には1人の子供。早苗は必死に走っていた。追いつけ、追いつけ、と。
トラックはもう子供に衝突する手前だった。このままでは間に合わない。早苗は体勢を低くしてそのまま跳び、やっと今自分が置かれている状況を理解した子供を突き飛ばした。・・・子供はトラックの軌道から逸れた。
だが、子供を助けるために費やした時間はトラックが移動する時間になってしまい、うなるようなエンジン音を上げて突っ込んできたトラックは、
早苗の細くて、
華奢な体を、
容赦なく、
撥ねた。
その瞬間の音は何ともいえない。ただ、背筋に冷たいものがこみ上げてきて、寒くもないのに唇の震えが止まらないおぞましい感覚としか言えない。
明は、空中に舞った早苗の体がガードレールに直撃し、そのまま地面に叩きつけられ、血を吐いたその瞬間、大声を張り上げていた。
「ぁ、ぁ、ぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」
ちょっとでも力を入れてしまえばすぐに壊れてしまうほど柔らかな刹那を抱きしめる力が強くならないように、明は大声を上げて自分の奥底から沸いてくる感情を必死に押さえ込んだ。
早苗、早苗・・・・・早苗早苗!!!
明はぐったりと地面に倒れている早苗の近くまで寄った。・・・口からは大量の血を流していた。内臓が破裂したのだろうか? このままでは、早苗が危険だ!!
「だ、誰か救急車呼べ!!」
その場にいた1人の男が叫んだ。それと同時に辺りは騒がしくなり、トラックの暴走した事件として物珍しそうにのぞきに来る野次馬が次々にやってきた。
それと同時に、キキィー!!というタイヤの音がした。音の原因は、早苗を容赦なく撥ね飛ばしたトラックだった。人が集まり始めて事態が悪くなったと思ったのだろう、その場からすぐさま逃げ去っていった。
だが、明の目には逃げていくトラックなど入らなかった。目に入っているのは、全身の力が抜け、ぐったりしていて、口から血を流している早苗だけだった。
早苗にゆっくりと近づく。足が震える。唇も震える。なんだ・・・? 視界が、黒ずんでくる。
早苗は、明と、明の腕で眠っている刹那を見て、重傷であるというのに、あのあどけない表情で、にっこり、と笑った。
「ごめん、ね。・・・えへへ、間に合わな・・かった・・・」
早苗の笑顔を最後に、明は意識を失った。
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意識が戻ったときは、いつの間にか手術室の前に座っていた。・・・・・無意識のうちにここまで来ていたらしかった。だから、いつ早苗の手術が始まったのか、始まってから何分経ったのか、さっぱりわからなかった。
もしかしたら始まったばかりかもしれないし、もう手術も終盤に近いのかもしれない。・・・・・いつ終わるのかわからない大切な人の手術が、これほど恐ろしいものだとは思わなかった。いつ終わるのか、無事なのか、それとも・・・・・。
そう思った矢先だった。手術中のランプが消え、中から1人の医師が出てきた。・・・手術が終わったのか?! 早苗は?!
明はそれを聞こうと医師の近くに寄った。だが、明は医師の白衣に違和感を感じた。手術をしたというのに・・・・・返り血1つ浴びていないのだ。早苗はトラックに跳ね飛ばされていたから大分重傷のはず。内臓にもダメージがいっていることは確実だから、切開しているはずだ。それなのに・・・・・なぜ返り血がないのだ?
医師はゆっくりとマスクを取ると、ひどく冷静な声で明に言った。
「・・・・・ご家族の方、ですか?」
「はい。それで、早苗は・・・・・?」
「いいですか、落ち着いてよく聞いてください。患者さんは―――」