第111話 番外編 卒業の日に
今日3月3日、私たち3年生はこの学校を卒業します。
3年間、仲間と共に生活してきたこの校舎から巣立ち、これから始まるまた新しい世界へと旅立ってゆきます。この学校で過ごしたたくさんの思い出を胸に抱きながら・・・。
学校での思い出は、みんながみんな楽しいことばかりではありません。友達と喧嘩したときもありました。先生と揉めたこともありました。部活動で死ぬかと思うくらい走らされたこともありました。・・・・・初恋が、実らなかったこともありました。
そんなつらい思い出でも、私の大切な思い出です。どんなにつらかった過去でも、みんなと一緒に過ごしてきたという大切な時間です。これから始まるつらい社会人生活に必要不可欠な、大切な大切なものです。
私は、頑張れます。この思い出があるから、みんなと一緒に過ごした時間があるから、どんなに苦しいことでも頑張れます。どんなに高い壁だろうとも、乗り越えていけます。
卒業式は意外とあっけなく終わりました。卒業証書を受け取り、何回と歌ってきた校歌を歌い・・・そして退場して各自のクラスへと戻っていきました。今まで過ごして学校生活とは違い、本当に短く、あっさりしたものでした。
教室では、最後のHRがあります。そこでみんなと、本当にさようならをしなければなりません。今までありがとう、と、言わなければなりません。またいつか会おうね、とも。
先生が教卓に立ち、この3年間のことを話し始めました。3年間一貫して担任することができてよかったということ、正直、出来の悪いクラスだったのだということ、何回も進路指導室にお世話になった人がたくさんいたのだということ、みんなと一緒に過ごせてよかったということ。
そこまで話して・・・・・・先生は手で顔を覆いました。目を覆っている部分から、ポタ、ポタ、と、教卓の上に雫が落ちました。しゃっくりをあげながら、先生が手の中からこぼす雫の量はどんどん増えていきました。・・・いつも笑顔で、それでも厳しかった先生が涙するのえお見るのは、この3年間で初めてのことでした。
先生の涙につられ、クラスの全員が泣き始めました。ある人は、先生と同じように手で顔を覆いながら。ある人は、隠さず大声で。ある人は、声を殺して静かに。泣き方は違ったかもしれませんが、どの人も抱いている気持ちは同じでした。心の中は、みんな一緒でした。
泣き声があふれかえる中、先生は一言だけ、すまん、と謝り、再び話に戻りました。先生の目からは、まだ涙が流れてしました。後からどんどんあふれてきて、一向に止まる気配を見せませんでした。
先生の話は、何度も何度も中断されました。先生が耐えられず、泣き出してしまうからです。先生が何を思って泣いているのか、どうしてそこまで泣くのか・・・・・私たちにはわかりませんでした。今は・・・まだ。
長いようで短かった話も終わり、私たちは玄関へと向かいました。いよいよ、この学校から出るときがやってきたのです。・・・ここから出たらおそらく、この学校にはもう2度と来ることができないでしょう。時間や、仕事の疲れやら、それらが積み重なり、私たちは来ることができなくなるのです。
たとえ来ることが可能となったとしても、来る人はほとんどいないでしょう。来たところで、輝かしかった高校生活へは帰れないのですから。みんなと過ごしてきた教室は1つ下の学年へと譲り渡され、私たち卒業生など、まるで初めからいなかったかのように学校の時間は進んでいくのですから。
出たくない人だっているでしょう。いつまでもこの学校で過ごしていたい人だっているでしょう。馬鹿やって、楽しくやって、みんなと明るく過ごすことのできたこの場から、離れることを拒む人だっているでしょう。
それでも、私たちはここから出なければなりません。私たちは進まなくてはならないのですから。いえ、進まなくてはならないのは私たちだけではありません。先生たちも、在校生も、みんなが進んでいかなければならないのです。川の水が常に流れてゆくのと同じように、私たちも歩みを止めてはならないのです。
友に別れを告げ、私は玄関を出ました。何回、何十回とくぐった玄関も、もうくぐることはありません。学校から出るのは、これが最後となってしまいました。
玄関の先には、たくさんの在校生がいました。どうやら、私たちを見送ってくれるようです。その中に、ソフトボール部の後輩たちもいました。みんな目を赤くして、それでも笑って、私に寄ってきました。握手を求めてくる人もいました。ブレザーのボタンを求めてくる人もいました。抱きついて、私の胸の中で泣く人もいました。・・・みんな、大切な後輩です。この子たちには、もっと頑張ってもらわなければ。そう思いました。
後輩1人1人の思いを受け取り、私は校門へと歩き出しました。友達とはここで別れました。家族にも先に帰ってもらいました。帰り道は、1人で帰りたかったからです。理由はありません。強いて言うとすれば、なんとなくです。
校門へと至るこの道の景色が、こんなに綺麗だなって思ったことはありませんでした。いつもは当然のように存在していた木々、草花、街灯。今はみんな雪をかぶっていてちゃんと見ることができませんでしたが、それでも綺麗だなって思えました。むしろ、太陽の光が雪に反射してますます綺麗になったみたいでした。・・・・・何気ないこの風景を、私は一生忘れることはないでしょう。
校門が見えてきました。いよいよ、この学校と別れるときがやってきたと実感しました。私たちを毎日毎日受け入れてくれた門。これからも、毎日何百人という数の生徒を受け入れるてくれることでしょう。
・・・・・その校門の影に、あの人はいました。
大好きで、大好きで・・・・・
それでも振られてしまったあの人が、そこに立っていました。
「あ、理恵さん。卒業、おめでとうございます」
あの人は、笑顔でそう言ってくれました。まるで、私を期待させるかのような優しい声で。
でも、その期待が外れていることは十分わかっています。振られてしまったのだから、それがよくわかります。
でも、やっぱりまだ好きです。振られても、やっぱり好きでした。―――好きな人には笑顔を見せたい。だから、私も負けないくらいの飛び切りの笑顔で言ってやりました。
「うん、ありがとう」
そう言って、私は辺りを見渡しました。いつもならいるはずの妹と、その彼氏が見当たらなかったからです。
どうせすぐそこら辺にいるのだろうと思って探す私に、あの人は申し訳なさそうに言いました。
「あの理恵さん。博人と恵理、先に帰っちゃったんですよ」
「え? 何で?」
「俺もわからないんです。何でだって聞いたら、2人きりで帰ってやれって・・・・・」
気を配ったつもりだったのでしょうか? だとしたら逆効果です。私はこの人に振られた身です。振った本人であるこの人が、私と一緒に帰り道を歩くことを望んでいないということはわかりきったことです。
―――それでも、やっぱり一緒に帰りたかったです。最後くらい、好きな人と一緒に帰りたかったです。色々なことを話して、色々な話をしてもらって、笑って、そして家路に着きたかったです。
だけど・・・・・
「アタシ、1人で帰るね」
「え・・・?」
「・・・ごめんね、嫌でしょ? やっぱり、気まずいもんね」
「・・・・・」
「アタシもゆっくり帰りたかったし、ちょうどよかった。刹那は先に帰ってもいいよ。待ってくれてる人・・・・・いるでしょ?」
自分で言ったくせに、心が痛みました。どうしようもない痛みでした。自分が決めたことなのに・・・・・馬鹿みたいでした。
あの人は、いつまでたってもその場を動こうとしませんでした。悲しそうな表情をして、じっと私を見つめてくるだけでした。どうしてそのときに帰らなかったのか、私にはよくわかりませんでした。私のことなんて、ほっといてくれればいいのに、その人はそうすることができなかったのです。
そのまま少しだけ時間が経ちました。いつまでもこうしているわけにはいきません。家で、家族が待っています。帰らなければなりません。
「・・・・・ごめん。アタシ、先に帰るね」
空気に耐え切れなくなって動き出したのは、私のほうでした。本当はもうちょっといたかったけど、そうするといつまでたっても動けないままのような気がしてなりませんでした。
後ろは振り向かないで行こう。そう思い、私はあの人を横切りました。振り向くと、立ち止まってしまうような気がしたからです。振り向かず、まっすぐ家に帰ろう。帰ったら・・・・・思いっきり泣こう。
そう思って、校門をくぐろうとしたときでした。あの人が、私の手を掴んで言いました。
「・・・・・理恵さん、一緒に帰りましょう」
私は驚いてあの人の顔を見ました。・・・あの人は、笑顔でした。屈託のない笑顔で、私にそう言ってきました。
・・・・・居たい。
もう少しだけ、一緒に居たい。
ずっとじゃなくてもいい。
今だけでいい。
居たい。
一緒に・・・・・居たい。
でも、やっぱり迷惑がかかってしまう。一緒に居て勝手に喜ぶのは私だけなのです。あの人は喜べません。そんなのは嫌です。そんなの・・・・・自己満足だからです。
「・・・いいよ、無理しなくても。アタシなら1人でも―――」
「一緒に帰りましょう、理恵さん」
「でも、やっぱり迷惑が―――」
「理恵さんは迷惑かもしれないけど、俺は理恵さんと一緒に帰りたいんです」
「・・・・・え」
「お願いします。俺と一緒に帰ってくれませんか?」
言葉を遮って、あの人は言いました。笑顔を崩さず、まっすぐこちらを見つめて。・・・嬉しかったです。好きな人に引き止められて、そんなことまで言ってもらえるなんて。それが例え偽りの言葉だったとしても・・・・・それでも私は嬉しかったです。
でも・・・・・やっぱり・・・・・
「・・・・ごめん。やっぱり、今日は1人で帰りたいの。気遣ってくれて、ありがとう」
「・・・そう、ですか」
悲しそうに、その人は私の手を離しました。ゆっくり、名残惜しそうに・・・。あの人の優しくて温かいぬくもりが徐々に離れていき、私は手を引っ込めました。
あの人は申し訳なさそうに、ポツリと呟きました。
「すみません・・・。やっぱり迷惑、でしたか」
「そんなことない。でも、だめなの。一緒に帰っちゃ、だめな気がするの」
「はい・・・・・」
さっきと同じく、あの人は悲しそうな顔をしました。・・・たぶん、心の中で自分を責めているのでしょう。これくらいだったら私にもわかります。私が全部悪いのに、あの人は優しいからすべて自分の責任にしてしまいます。
一緒に帰りたいのに、帰れない。帰るわけにはいかない。自分のためだけに、あの人を困らせてはいけない。
・・・・・でも、最後に1つだけ・・・・。
「・・・・その代わり、ね」
1つだけ・・・・・。
「1つだけわがまま、聞いてもらってもいいかな?」
「わがまま、ですか?」
「そう、わがまま。3年間、ずっと迷惑かけっぱなしだったけど、それも今度が最後。アタシの最後のわがまま、聞いてくれる?」
「・・・・・」
「・・・だめ?」
あの人は悲しい顔を一転させ、笑顔で答えました。
「オッケーです。何でもいいですよ。俺にできることなら、ですけど」
「・・・・・本当に、いいの? 困らせちゃうかも、しれないよ?」
「最後のわがままですからね。全然構いませんよ」
「・・・うん。それじゃ、目を閉じてほしいの」
「目? そんなことでいいんですか?」
「うん。それだけでいいの。お願いできる?」
「言ったでしょう? 全然構いませんよ」
そう言ってあの人は目を閉じました。何をされるのか不安なのでしょうか、あの人はきゅっと強く目を瞑っていました。・・・・・それが、ちょっとだけ可愛くて、思わず笑ってしまいました。
最後のわがまま・・・。これで、本当に最後・・・。これを聞いてもらえれば、私は頑張れます。過去に見切りをつけて、未来へと歩いていけます。
そのためには、ちょっとだけあの人に迷惑をかけてしまうけれど、最後の最後くらいは、許してもらいたいです。この気持ちに・・・・・区切りをつけるため。
私は目を瞑っているあの人にそっと近寄りました。・・・こんなにも、あの人が近くにいる。呼吸を感じ取れるくらいまで、近寄ることができる。
それが嬉しくて、嬉しくて、涙が出そうになりました。絶対に感じ取れるはずのなかったこの温かさが、今目の前に存在している。・・・嬉しくないはずがありませんでした。
「・・・・・ごめんね」
私はそう呟き・・・・・・
あの人の唇に、自分の唇を静かに重ねました。
あの人は驚いたようでした。キスした瞬間体が強張ったからです。もともと硬くなっていた体がさらに硬くなり、まるで石像のようにぴくりとも動かなくなりました。
それでも、あの人は目を開けようとはしませんでした。こんなことをされているのに、あの人は目を開けて突き放したりしないのです。止めてくれ、とでも言えばすぐに離れるのに、すぐ止めて目の前から消え失せるのに、あの人はそうしないのです。
もういいかな、と思い、私はキスを止めようとしました。大好きなあの人の唇から、離れようとしました。最初からわかっていたことです。いつまでもこんなことをあの人にするわけにはいかない。短い時間だったけど、嬉しかった。・・・そう思って、離れようとしました。
でも・・・・・離れられませんでした。
離れたくありませんでした。
離さないといけないのに。頭の中ではわかっているのに、それでも私はこの人と離れたくありませんでした。
唇から伝わってくるあの人のぬくもり。優しさ。気持ち。・・・・・あの人の全てが、キスを通じて伝わってくるようでした。そんなことないのに、あるわけないのに、でもそう思わずにはいられないのです。ずっと、ずっと待ち焦がれていた瞬間でした。
・・・もう、何も望むことはありません。わがままだって聞いてもらいました。私は満足です。十分、満ち足りました。
そっと唇を離しました。唇が離れた瞬間、なんとも言えない喪失感が私を襲いましたが、心に満ちているこの温かい感情は、今も残り続けていました。
「ありがと。もう目、開けていいよ」
その人はゆっくりと目を開けました。表情は、暗いと言わざるをえません。不安そうで、何だか壊れてしまいそうな表情をしていました。
「理恵さん・・・・・俺は・・・・・」
「・・・・・ごめんなさい。嫌だったでしょ? でもアタシ・・・」
「違うんです。嫌だとか、そういうんじゃないんです」
その人は、必死そうな顔で、でも心配そうな顔で、私にこう訊きました。
「俺は、ちゃんと理恵さんのわがままを聞いてあげられましたか? 最後の最後で、理恵さんの役に立てないんじゃないかって・・・・・それだけが、心配で」
あぁ、やっぱり・・・・・
私はこの人が・・・・・
好きでした・・・・・
人のことになるといつも必死になって、そのくせ傷つきやすい。
今だって、こうやって私の心配をしてくれている。
心配する必要なんてこれっぽっちもない女なのに、それでも心配してくれている。
私は優しいこの人が・・・・・
大好きでした・・・・・
「もちろん・・・・だよ。十分すぎるくらい、役に立ってくれたよ・・・・・。こんな・・・アタシのために・・・」
涙を、こらえ切れませんでした。堰を切ったかのように涙が溢れてきて、止まりませんでした。
私は、今ほどこの人を好きになってよかったと思った日はありません。心の底から、本当に心の奥底から、この人を好きになってよかったと、そう思いました。
涙で顔が汚れてしまい、まともに声も出なかったけれど、私はどうしても伝えたいことがありました。他の言葉で飾ったりしない、簡素で単純な、たった一言だけです。
「ありがと・・・」
そして・・・・・
「・・・またね」
私は涙を隠しながら、この人に背を向けて走り出しました。・・・最後にしては上出来だったかな? と、心の中で妹に問いかけました。
私は、歩き出せます。やっと区切りがつけられたから。迷惑をかけてしまったけれど、でもちゃんと区切りをつけることができたから。だから・・・・・頑張っていこうと心の底から思いました。
「理恵さん!!」
呼びかけられて、足は止まってしまいました。振り向いてはいけないはずなのに、私の体はゆっくりと動いてしまい・・・・・振り返ってしまいました。
「また今度!!」
そう叫びながら、あの人は笑顔で手を振っていました。周りに誰もいないことをいいことに、ただひたすら元気よく。
それがおかしくて、私は涙を手で拭うとあの人に負けないくらい大きく手を振り返しました。・・・・精一杯、笑いながら。
・・・あなたの隣は居心地がよかったです
涙が出るくらい・・・・・心地がよかった
さようなら、初恋の人
いつか、笑って初恋のことを話せるようになるその日まで
また会いましょう、大切なお友達
いつの日か、必ず
ひとしきり手を振ったあと、再び背を向け、私は家路につきました。
まっすぐ、迷いなどない、堂々とした足取りで―――。
次回から・・・です。
あらかじめ何かを言っておくとするならば・・・
17、18話あたりを読み返しておくことをお勧めいたします。
・・・次の更新が一体どういうものなのか、わかってもシーッ! ですよ。
これからも「殺し屋」よろしくお願いします!




