4
微かに漂う、コーヒーの匂いが鼻をかすめた。
コーヒーは嫌いだ。けれど好きだ。
喫茶店の中の匂いは好きだ。けれどコーヒーは嫌いだ。
つまるところ、苦いコーヒーは嫌いだけど、良い匂いのするコーヒーは好きだ。
コーヒーなんて飲み物は飲み物として飲んだ事が無い。
コーヒーは香りを楽しめればそれでいい。
苦い物は嫌い。
甘い物は大好き。
温かい布団の中で、もぞもぞと身じろぐ。
頭のてっぺんから足の先まですっぽりと、丸くなって埋まっている。
ぷあっと、外気に顔を出せば、顔に触れる空気が布団の中よりひんやりとしていた。
すると、部屋のドアが開く音がし、人が入って来た。
「おはよ」
「久遠。起きてたか。朝食できてるぞ」
「うん」
「ああ、そうだ、おはよう」
「うん」
「早く着替えてこいよ」
「うん」
無精髭を生やした金髪の男。
男の名前は時司 十字。
久遠と呼ばれた少年の兄弟でもなければ、家族でも無い。
それでも多分、赤の他人ではない。
化学実験施設の元職員。と言えばなんとなく、エリートのような聞こえがするかもしれない。
実際、十字はそこの職員としては、あることを覗けば優秀だったそうだ。
あること。
それは”人道的感情”。
彼は、薬学研究をするとともに様々な治療法を生み出そうと研究に熱心だった。
医学を専門に、薬学にも手を広げ、様々なことに挑戦していた。
それは、人を救いたいという、正義感からだった。
しかし、十字が就職した会社、研究所、施設では非人道的なことが行われていた。
人身売買を行い、人体実験をしていた。
久遠は、その人体実験の被検体。唯一の生き残り。
彼は被検体だった久遠を連れ逃げたのだった。
”久遠”は十字に与えられた名。
実験者と被検体。
その関係は、逃亡生活から数年。とっくの昔に消えていた。
「まだ、組織が動いている」
「うん」
「遊びに行くのは良いが、気を付けろよ?」
「うん」
新聞を片手に、コーヒーを優雅に飲む十字。
「うん」としか返さない久遠。
こればっかりはどうしようもなかった。
久遠から話す事は無いのだ。
十字から何かを切り出さなければ、久遠はずっと黙ったままだ。
心の中では何かを考えているのだろう。
そう思ったのは、久遠がたまに、どこかを見つめ続けていることがあること。
唇が微かに動く事が有ること。
自分の意思でちゃんと行動ができること。
だから、特に問題も無く、平穏に暮らせていた。
巷の噂がこの耳に届いても、それは本人のことであって、口出しはしない。
さすがに、人を殺しかけそうになった時は素直に止めるが、な。