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艦魂・神龍編シリーズ

練習船『海王丸』 ~帆船の悲劇~

作者: 伊東椋

(注)この物語は、事実を元にしたフィクションです。

 冷たい海風が吹く10月の室蘭港から、一隻の大型帆船が出港しようとしていた。帆船の象徴とも言える高々と屹立したマストには、白い帆の代わりに実習生たちが登っていた。登しょう礼である。岸壁から出港を見送る人々に、一同は帽振れを以て応えた。岸壁にいる人々は各々の手で安航を意味する国際信号旗を振り、優美に出港していく彼らを暖かく見送っていた。

 

 実習生の御崎洋も航海科実習生として天高く聳えるマストに登り、岸壁に向かって掛け声に合わせて帽を振っていた。船楼甲板から43mも高いメインマストの頂上から見下ろした光景には、岸壁で手を振る大勢の人々の姿が見渡せた。

 『海王丸』は10月14日に室蘭港に入港、一般公開や総帆展帆訓練等を実施した後、次の寄港地である富山県の新湊港を目指して出港した。

 出港した『海王丸』には、実習生85名、一般募集から体験航海参加の研修生20名を新たに乗せ、津軽海峡を通過して日本海を経由する航路を進んだ。

 

 日本の代表する大型練習帆船『海王丸』は世界最大の練習帆船であり、その名を持つ練習帆船としては二代目に当たる。眩しい程に白い船体は女体の様を思わせる。更に帆を張れば白い洋装として映え、美しい貴婦人像を披露することだろう。

 そんな華奢な容姿に似合わず、ディーゼルエンジンを唸らせ、日本海の高い波に全く動じない様子で『海王丸』は機走していた。その姿は海に立ち向かうたくましさから、ただ美しいだけではない強い女としての風貌も垣間見せる。 

 「台風が近付いているらしいけど、この船は大丈夫なのかな?」

 居住区の下にある、誰もいない第二教室の一角に座った洋は、船体の動揺を感じながらぽつりと言った。

 彼の言葉に応えるように、どこからともなく一人の少女が現れる。決して実習生居住区に通じる階段からではなく、唐突に洋の隣にふっと現れた。

 「どうしたんだ、洋? 心配してくれているのか」

 「別にそういうわけじゃないよ。 ただ、この船って揺れやすいからさ」

 「……そこは嘘でも頷いてくれたら嬉しかったのだが」

 洋と同じく、訓練所指定の紺色の作業服を着た少女は無粋にそう言った。しかし洋は悪びれる様子もなく、ただ純粋な瞳を少女に向けた。

 「君が世界最大の帆船っていうのはとっくに知ってるから、心配する要素なんてどこにもないだろ? 気象を気にするのは航海士としては当然のことだよ」

 「まだまだヒヨッ子のくせに、言うものだな」

 少女の言葉に、洋は否定はしないと返して苦笑する。それにつられるように少女も微かに笑った。

 御崎洋はこの船に乗る航海科実習生なら誰もが目指している航海士を夢見て『海王丸』での実習に励む一人だった。

 洋の会話相手であるもう一人の少女は、不思議な現れ方といい実習生の女子というわけではなかった。科学が進んでいる現代には信じ難いことだが、彼女はこの船の魂である。帆船『海王丸』の船魂だった。艦船等場合によっては艦魂とも呼ばれる船魂だが、彼女を認識できる人間はほとんど限られている。

 船魂は誰しもが見られる存在ではない。その正体は未知数だが、強いて言えば幽霊や妖精といった類に近いかもしれない。それほど不可思議で神秘的な存在だった。

 不可思議ではあるが―――神秘、とは洋にとってあまり感じられなかった。確かに初めて出会った時は信じられなかったが、他の人間には見えていないこと等もあって、現実を受け止めざるを得なかった。こうして慣れた今となっては、普通に他の実習生と会話しているのと何ら変わりはなかった。

 ガタ、と階段から下りてきた足音を聞いて、洋はぎくりと振り返った。彼女の存在は普通の人間には見えない。つまり彼女が見えない人間からすれば、自分は単に独り言を呟いている変人にしか見えない。洋が振り返った先には、勉強道具を持った見知った女子がいて安堵した。

 「なんだ、浜邊か……」

 「なんだとはとんだご挨拶ね」

 無愛想な表情を浮かべた女子は、機関科の浜邊真帆だった。数少ない女子実習生の一人である真帆は、短く切り揃えた頭髪やそこらの男子実習生よりも凛々しい相貌から、男子実習生曰く一番女子らしくない実習生だった。しかし凛とした風貌を形成する端正な顔立ちやスタイルの良さから一部の男子実習生の人気もあった。実習においても勤勉で優秀、教官の士官たちからの評判も良かった。

 そんな真帆と洋は同じ練習船に乗り組む実習生同士ではあっても、学校は別だった。ただでさえ学校が別な上、航海科と機関科、更に性別が異なる二人が関わることは普通なら滅多にない。なのにそんな二人がこうして交えているのは、唯一二人を繋げる接点が存在したからだ。

 「おお、真帆ではないか」


 それが―――彼女、『海王丸』の船魂だった。


 真帆は細い目つきで二人を―――正確には洋を睨むように見詰めると、視線を外してさっさと離れた席についた。そして勉強道具を広げると、教科書を睨みながら黙々とペンを走らせ始めた。

 「何してるの? また自習?」 

 洋の質問に真帆は見向きすらしない。そんな相変わらずの真帆の態度に洋は肩をすくめた。 

 「真帆は相変わらず偉いな。 どこかの誰かにも見習ってほしいものだ」

 「うるせ、余計なお世話だ。 大体、航海中で揺れてる時に勉強する気なんて起きないね」

 「そこが洋と真帆の差だな、まったく……」

 真帆は実習生の間でも優等生であり、実技だけでなく定期試験の成績もいつも上位である。こんなに無愛想な性格なのに、優等生でしかも人気もあるのだから―――洋とは程遠い存在のはずだった。

 海王丸という船魂の存在。唯一彼女が見える二人だからこそ、こうして辛うじて繋がっている。 

 「自習……じゃなさそうだな」

 覗き込む洋を鬱陶しそうに表情を浮かべた真帆は、面倒臭そうに口を開いた。

 「……配管調査」

 「機関科も大変だねー。 これまた、すごく面倒くさそう」

 各機器を多くのラインが繋げた配管図。『海王丸』のディーゼルプラントは様々な配管系統から成り立っている。燃料油系統を始め、潤滑油、冷却海水、清水系統等々。配管図にて構造を頭の中で理解し、配管図を元に現場を確認することは、機関を賄うエンジニアリングの基本だ。

 「そろそろこれの締切が近いの。だからあまり邪魔しないで」

 「へいへい」

 さすが優等生、と口に出したら睨まれるだろう言葉を呑みこんで、洋は席を立った。教室の時計に視線を向ける。あと30分ほどで掃除だ。居室に戻ろうとした洋は、最後に二人の少女へ振り返った。 

 「勉強するのも良いけど、もう少し愛想良くした方が良いぜ。船にいるのは自分だけじゃないからな 

 これこそ真帆の鋭い睨みを貰うことになるだろう。しかし洋はそれだけを言い残すと、さっさと教室を後にした。背後には―――痛い程の視線は感じられなかった。



 御崎洋は浜邊真帆という人間を孤独な人間だと思っていた。優等生である一方で、他人を寄せ付けない雰囲気を纏っている。集団生活を強いられる船上の世界において人間関係は船乗りにとって決して軽視してはいけないものである。

 差別みたいに聞こえるかもしれないが、真帆はただでさえ女なのだ。他にも女子はいるとはいえ、船は男ばかりの世界なのは変わらない。性別の違いだけで気を遣うことばかりだと言うのに、ああも周囲を遠ざけるようでは船乗りの資質自体が疑われる。

 「他の奴らとも話せるようになれば……………きっとモテるぞ、あいつ」

 顔を見れば十分に美少女―――こっちの方向に持っていってしまうのはこの歳なら誰でも考えてしまう所だった。

 やがてボンクに寝転んでいた洋は、掃除開始の放送を聞いて、皺になったボンクのシーツを急いで整え始めた。




 『海王丸』が室蘭港を出港して翌日の10月19日。午後に入ると、『海王丸』船長は気象庁及び米海軍が提供する台風23号の進路予報から知り得た気象情報から、富山湾にて台風の圏内に入ることを予測し、富山湾に錨を降ろして台風を凌ぐことを決めた。

 10月21日の新湊入港に際して計画されていた入港歓迎式等については、台風の影響により入港日が遅れることも考慮し、現地側と調整の上、取り止めることとした。

 天候が怪しい中、『海王丸』は10月20日7時ごろに富山港沖に到着。午前7時15分ごろ、錨泊した。

 「うひー、天気わりー」

 「嫌になっちゃうな」

 「台風が来たら、相当揺れるだろうなぁ」

 投錨作業を終えて船内に戻った実習生たちは口々にそう言いながらヘルメットやカッパを片付ける。洋も濡れたカッパ等を干すと、さっさと居室に戻った。

 10時頃、七尾沖での台風避泊に係る水先人のアドバイスが代理店から『海王丸』に伝えられたが、船長は七尾湾内は可航水域が狭く、既に小型船が台風避泊のために錨を降ろしている可能性を考慮し、仮に先船がいた場合に反転する十分な水域が得られなくなること、七尾湾の外側水域は定置魚網があることも考え、富山港沖での避泊を続ける方針を取った。


 ―――台風は徐々に、そして確実に『海王丸』に近付く。


 14時半頃、北東の風が15m/sec以上に強まり、船体がより強くなった強風に煽られるようになった。

 それに対して錨を下ろした『海王丸』も海底に投じた右錨鎖を伸ばすと共に、左錨を投下して振れ止め錨にした。両方の錨が投下することで、『海王丸』は強風と荒波に耐え抜こうとした。正午からは船橋に守錨直が立った。


 ―――更に強さを増した風が、時に風を動力とする帆船のマストを叩く。海を翔ける帆のない『海王丸』のマストを、今回ばかりは強風が乱暴に叩き、その船体を激しく揺さぶっていた。


 19時頃、風速が30~35m/secに達する。船首の守錨直に一等航海士が立つと、『海王丸』は船首を風位に立つように両舷機関の使用を開始した。

 既に、船体が流される危険があった。

 対応に随時乗り出していくも、自然は容赦なく彼らを、彼女を襲う。

 19時半頃にはうねりが大きく発達。そのうねりにより船首が上下に大きく動揺するようになった。



 各々の過ごし方で自由時間にあった実習生たちもあまりの動揺に不安を抱える者も増えていった。激しく揺れる船体。しかしまだこの時誰も、冗談で座礁すると言って笑っても、本気で座礁すると思っている者はそんなに多くはいなかった。

 洋もその一人で、動揺に身を任せながらボンクに寝転んでいた。

 まさか、本当に事故が起こるはずがない。

 そんな危機意識の薄さがごく普通に滞在しているのは、まだ経験が浅い彼らには仕方のないことだった。

 しかしそれでも、ふと嫌な予感がして、洋はボンクから飛び出す。揺れる船体に身をよろけながらも、第二教室へと降りた。

 洋が教室に入ると、まるで待っていたかのように彼女が現れる。

 「どうした、洋。 揺れ過ぎて船酔いでもしたか?」

 「生憎、俺はあまり酔わない性質だよ」

 「それはとても良いことだな」

 「お前こそ、顔色が悪そうだぞ」

 洋はいつもと微妙に違う彼女の様子を察していた。困ったな、と言う風に海王丸は苦笑を浮かべる。

 「まさか洋に見破られるとは思わなかった。 よく見てくれているのだな」

 「小恥ずかしい台詞はよせよ。 お前のことは冗談抜きで他人事じゃないしな」

 彼女は船魂だ。そして彼女に乗り組んでいる自分たちの命は、彼女に預かっていると言っても良い。

 「……ちょっと、調子は悪い。 風は私にとって良い友人なのだが、友人はとても気まぐれでな。 いつもその気まぐれに困らされるのも私の常だ」

 汗をじとりと浮かべる海王丸の表情は、やがて明確な異変を表していく。

 「そしてお前も私の良い友人だ。 そういうことを言っても、洋が純粋に私を心配してくれていることもちゃんとわかっている」

 「………………」

 「実はな、洋。 お前が来る少し前に、真帆も私のもとに来たのだ」

 「浜邊が……」 

 無愛想な彼女の顔を思い浮かべる。

 海王丸は辛そうな表情の中でもふふ、と微笑を浮かべた。まるで可愛い子供を慈愛の瞳で見詰める母親のように。

 「私を本当の意味で心配してくれるのは、お前たちだけだよ。 私はそれだけで、本当の支えになる」

 海王丸は洋がどきりとする程の表情で、言葉を紡いだ。



 20時頃、船位が100m程風下に偏位していることが確認され、北東の風はさらに風速を強める傾向になった。

 通常、船の機関は2時間程度のアイドリング状態を必要とするが、『海王丸』は機関を直ちに始動、全開とした。

 錨を巻き上げ、航行に移ろうとした。



 ―――しかし、揚錨機が過負荷により機能しなくなった。



 この事態に対し、『海王丸』船長は両舷機関を半速前進又は全速前進とし、船首振れ回りの抑制に努めようとした。しかし、うねりにより船首が上下に大きく動揺し、更にそれによって錨が引ける現象が起きてしまった。


 ―――既に『海王丸』はこの時、その船体を振り回されるようになっていた。


 21時頃には北北東の風、風速45m/sec(瞬間60m/sec)となり、両舷機関を使用しても舵効が現れなくなっていた。

 21時半頃、波のうねりは6m程に達し、両舷機関を継続して全速前進にしても舵効は効かなくなっていた。うねりによるショックの度、『海王丸』の船体は風下に流された。


 そして22時30分ごろ―――


 強い風雨が吹き荒れる中、『海王丸』の船体にどん、という大きな衝撃が襲いかかった。触底、と勘付いた乗組員もいた。

 機関室内に大量の海水が流れ込んだ。隔壁の一部がまるで巨人の拳を浴びたかのようにぼっこりと膨らんでいた。

 大量に流入した海水が、主機や発電機などを襲った。

 間もなくして、両舷機関が停止。実習生を乗せた練習船『海王丸』が自力での行動が不可能になった瞬間だった。

 エンジンが停まった『海王丸』の目の前には―――


 防波堤が150m程まで迫っていた。


 「総員、救命胴衣を着用の上第一教室に集合! 総員、救命胴衣を着用の上……」


 船内放送によって船内全てに避難警報が発令された。訓練ではない、と言わんばかりの放送の声色、それより前に全乗組員が体感した衝撃が、彼らに現実を一際強く現していた。

 この時、各員が救命胴衣を着て教室に集合した時には、既に船体は浸水、航行不能に陥っていた。一挙に狭い第一教室には大勢の乗組員で溢れ、船体の激しい動揺は尚も続いていた。




 船内はパニック状態だった。100名を超える十代後半の実習生と研修生、乗組員は第一教室に集まり、乗船以来初めての大きな不安に駆られていた。

 それは士官や乗組員などの教官たちも同じだった。救命胴衣を装着した大勢の人間が狭い第一教室に押し寄せる光景は正に地獄だった。

 「痛……ッ!」

 また誰かに足を踏まれた。放送から、いや、船が動かなくなってどれくらい経っただろう。そんなに長くは経っていないはずだ。なのに、自分が今いる周りはまるで別世界のようだった。本当にここは同じ船なのかと言いたくなる程、船内は混乱に満ちていた。

 大勢の人間が避難場所に指定された第一教室に集合し、教室内は人で溢れんばかりの光景と化していた。救命胴衣が更に一人の面積を増やし、互いにぶつかり合う。分厚い救命胴衣が更に身体を圧迫し、体内温度が上昇して気分が悪くなる。

 救命胴衣を着用して集合と言われた時点では既に船体は航行不能。しかもかなり浸水した後と言う、遅いタイミングの上で行われていた。

 「いい加減にしてください! 大人がそんなんでどうするんですか! 僕たちだって我慢してるんです!!」

 洋は人波の果てから聞こえた怒鳴り声に耳を傾けた。実習生と、一般公募で乗船した研修生が口論しているようだった。この非常事態に狼狽する研修生に、実習生がたまらず叱責したそうだった。周囲にいた士官や乗組員が宥めている声も聞こえた。

 「(最悪だな……)」

 集合から数時間。教室内にぎゅうぎゅう詰めの状態で、彼らは数時間も立ちっぱなしだった。

 「おい、お前大丈夫か?」

 洋はそばにいた実習生の異変に気付き、声をかけた。別の学校であまり話したことはなかったが、当直交代などで顔は覚えていた。苦悶の色を徐々に濃くしていった実習生は、「ちょっと……」と口を苦ヶ苦がしげに開いた。

 「ここに避難する途中で、階段から落ちちゃって……」

 「え…ッ! ちょ、ちょっと見せてみて!」

 洋は慌てて実習生の左足の袖を捲った。紫色に酷く腫れているのが明確にわかった。

 「最初はそれ程でもなかったんだけど……時間が経つにつれて……」

 「ずっと立ちっぱなしだしな……打撲かな、これは……折れてはないのが幸いだと思う」

 「機関員の人も怪我してたぞ」

 洋たちの様子を見ていた別の実習生が言った。

 「やっぱり結構怪我人出てるのか……?」

 「だと思う。 冷静に考えてみれば、これ、結構やばい事故だぜ?」

 大型帆船が座礁。エンジンは停止し、外は強風と高波。そして船内の混乱ぶりを目の当たりにすれば、遂に命の危険を自覚していく。

 因みに彼が言った機関員の怪我は肋骨骨折という重傷だった。他人に押し倒されたことが原因だった。

 「(浜邊は無事だろうか……?)」

 この人ごみのどこかにいるであろう機関科の女子を思い浮かべる。そして、この事故で最も傷ついているだろう一人の少女―――

 「(海王丸……)」

 船が傷つけば、船魂の彼女はどうなるのだろう?

 船体の異常な動揺で苦悶の色を浮かべていた彼女を脳裏に浮かべる。

 そして洋は最終的な結果を、最悪の結末を浮かべた所で、振り払うように頭を振る。

 「(馬鹿……そんなことになるはずがない! この船が……)」

 乗り上げて動かなくなった船。海水が流入し、テトラポッドに船体を接触させた『海王丸』は無残な姿で、甲板を海水で洗われている状態だった。



 座礁後間もなくして、『海王丸』に大波が襲いかかった。

 その大波は船橋に喰いかかった。船橋を襲った大波は、船橋右舷側の扉及びガラス窓を破って流れ込み、各種航海計器や船内電話以外の通信機器の機能を破壊した。一方、暴露甲板上の後部に配置された無線室から双方向無線電話による外部との連絡を試みたが、荒天航海のために鋼製舷窓盲蓋をした状態であり、通じなかった。

 今度は国際VHFにより呼び出した時、付近の巡視艇から応答があったが、信号が弱いのか、通信は不可能だった。やがて感度がなくなり、救助を呼び掛ける手段が失われた。

 第一教室における人員点呼は、次のような状況で行われた。

 第一教室には大勢の実習生や研修生、乗組員がいたが、中には寝ぼけ眼で集合する者、また身支度が整っていない者もいた。

 動揺によって船酔いになった者は、教室の机にうつ伏せにさせられた。

 更に怪我人も確認され、船内は騒然となっていた。

 「落ち着け! これより点呼を取る!」

 第一教室に駆けこんだ二等航海士は、人員点呼の指揮を執った。騒然とする彼らに冷静になるよう呼びかけた。

 実習生については班編成顔写真を利用して一人ずつ氏名を読み上げて確認。研修生は指導員を含めて挙手により確認、部員は各部職長に報告を求め、職員は各部ごとに確認し、船内電話を用いて船橋に報告した。電話対応に一名の航海士が専属配置していた。

 二等航海士は船橋へ第一教室の人員確認結果を報告すると、そばにいた三等航海士に言った。

 「これから水密扉を船橋から閉鎖するそうだ」

 「浸水、やっぱりやばいですか……」

 船体の水密隔壁を構成する油圧式水密扉の閉鎖は、人員確認後に船橋からの一斉操作で行った。この頃、水密扉が設置されている第二甲板は水没状態となっていた。

 「しかし、大したもんだよな……」

 「二航士セコンドオフィサー?」

 「見ろよ、こいつら。 今のこの状況でも泣いている奴なんていない。 爺さんたちは騒いでるってのに」

 「……はい」

 この混乱の中、実習生は一人も取り乱すことなく、全員が落ち着いていた。

 この光景を見た職員の中には、自分たちが一層落ち着かなければとの気持ちを抱いた者もいた。

 「そうだ、俺たち大人がしっかりしていないでどうする。 頑張ろうぜ」

 「はい!」

 彼らは冷静な実習生たちを見て、その時ばかりは自分たちが教えられていた。この子たちを全員、親元にお返ししなければいけない。彼らは強い意志を宿し、事態の対処に精進した。

 

 


 それは突然だった。彼らの世界が暗闇に支配された。

 23時頃、海水の流入により停止した主発電機から自動的に切り替わって給電していた非常発電機が停止し、船内の照明は22V系の非常灯のみとなった。30分後、その照明も消えた。

 襲いかかった波の威力により、暴露甲板上の船尾フードや船楼が歪み、非常発電機室やバッテリー・ルームの扉の水密が耐えきれず、海水が浸入したためと考えられる。

 更に彼らを襲う悲劇は続く。

 閉鎖していた教室前部入口からの海水浸入は少なかったが、教室右舷後側の指導員室ステートルームの舷窓ガラスが遂に破れた。それにより、敗れた舷窓から入ってきた海水が第一教室を襲った。

 「み、水だぁッ!!」

 誰かが叫び、悲鳴が沸き起こった。教室に浸入した海水は、船体の動揺に伴って激しく動き、教室内を攪乱する状態となった。

 海水が右舷に流れ寄った時、窓際では、その海水の高さが集合している者の首の高さに達するようになった。

 「ぐあ……ッ!」

 海水の浸入。激しい動揺。教室内はまた騒然となった。

 身体をよろけた洋は、見知った顔を網膜に刻んだ。真帆だった。他の者と一緒に、そばにある机に身を預け必死に堪えている様子だった。

 しかし洋は嫌なものを見た。動揺対策のために教室の机や椅子は金物で固縛されていたが、その金物が引き千切れようとしていた。

 荷重と動揺による衝撃に耐え切れないのだ。

 洋は真帆を呼びかけようとするが、周囲の混乱に呑まれてどうしようもできなかった。必死に真帆のもとに向かおうとする洋。洋が大声で真帆を呼ぼうともがくと、真帆がやっと洋の存在に気付いた。

 「浜邊ぇッ!!」

 洋と真帆の視線が合った。その直後だった。

 机と椅子を固縛していた金物が破壊され、真帆の身体がどこかへ消えた。

 固縛が解かれた椅子や机が船体の動揺と、浸入した海水の攪乱により、教室にいる者たちへ凶器のように襲いかかる状況となった。

 「危ない!」

 誰かの声にハッと気付くと、洋のそばに海水と共に椅子が飛んできた。洋は濡れるだけで済んだが、海水で遠ざかっていく椅子を見てぞっとした。

 「教室から退避しろ!」

 二等航海士は教室からの避難を決め、大声で呼びかけた。

 最早危険区域と化している教室内の状況と教室前部の入口扉が浸入した海水の水圧で開かない状況から、二等航海士は後方区域への移動を決断した。

 教室右舷後部からの移動経路は、浸入した海水の高さが高く、かつ浮遊物が流れ動き回り危険な状態となっていることから、教室左舷後部に隣接するギャレーを通り抜ける方法を取った。

 照明が消えているため、彼らは暗闇の中で教室から逃げようとした。その中で、乗組員が携帯していた数少ないトーチランプを順番に点灯するよう、機関士が呼びかけた。これにより明かりが取り戻された。

 自分を襲った椅子が流れていく光景を呆然とみていた洋を、やって来た機関士が腕を引っ張った。

 「おい、大丈夫か! 早く行くぞ!」

 「は、はい……!」

 立ち上がった洋は、腕を引っ張られながら真帆の存在を捜した。

 この避難では職員、乗組員が研修生、実習生を優先、誘導。士官サロン、士官居住区左舷通路、士官居住区階段スペース、及び無線室へ避難した。


 


 船橋にいた船長以下6名のグループと、第一教室に集合したグループとの連絡手段は、船内電話であったが、23時半ごろの停電と同時に不通となって、完全に断たれていた。

 そのため、第一教室の状況確認のため何人もの人間が荒れ狂う外に送り出されたが、向かった操舵手、航海科専任教官、次席二等航海士が負傷する結果となった。

 船長を含む何人もの人々が負傷しながら手に入れた情報を元に、船長たちは遂に避難しているグループと合流することとなった。

 更に回復した無線室から周囲の巡視艇に信号を送り、それが途絶えると、今度は実習生たちの携帯電話を利用して一致団結の意志で連絡を取ろうとしたりし、その努力の末にようやく118番通報が叶った。

 『海王丸』一同は、嵐の中動揺する船内で救助を待った。




 座礁し、波浪により動揺を繰り返す内に、『海王丸』の船体はやや右舷側に傾き、船首側は海水に浸かり、若干沈んだ状態になっていた。周囲には様々な物品や備品等が流れ出て浮遊し、重油まで流出している有様だった。

 士官サロンに避難した洋は、あることで頭が一杯だった。その頭の内には二人の女の子がいた。

 「浜邊……海王丸……」

 洋はボソリと呟いた。その呟きは誰の耳にも届いていない。

 洋は机と椅子が海水に乗って乱立する第一教室で見て以来、真帆の存在を確認できていなかった。真帆は無事だろうか。胸が不安で引き千切れるようだった。

 「……二人の女子の名を呟くとは。 ふふ、隅に置けない男よ」

 「―――!」

 声のした方に視線を向けると、すぐ隣にほくそ笑んでいる海王丸を見つけ、洋は驚愕した。飛び上がらんばかりに驚いた洋の様子を訝しげに見詰める周囲の視線から隠すように、洋はひっそりと海王丸に声をかける。

 「海王丸、お前無事だったのか!」

 「当たり前よ。 この船が沈まん限り、私は死なん」

 思ったより平気そうな海王丸の様子を見て、洋はほっと胸を撫で下ろした。ほっと顎を引いた途端、海王丸の胸が目の前に飛び込んで、思わず顔を上げた。そしてすぐに海王丸の言葉の意味に気付き、ぎくりと震える。

 「……やっぱり、船がもし沈んだらお前も死ぬのか」

 「……船魂は文字通り、船の魂だからな。 この船が海の底に沈む時、それはすなわち死を意味する」

 はっきりと言った海王丸の言葉に、洋は愕然となる。恐れていた想像が肯定されたのだ。

 「だが、私は死なんよ」

 「な、なんでそう言い切れるんだよ……!」

 「何故って」

 海王丸がふっと微笑む。なんで笑っていられるのか、洋には理解できなかった。

 「今の私は乗り上がってしまっているからな。 沈む余地など殆ど無いさ」

 「あ……」

 そうだ、『海王丸』は“座礁”しているのだ。

 沈没しているわけではない。

 「だ、だけど波に攫われる可能性だってあるんだぞ! そんな気楽に―――」

 「沈まん」

 きっぱりと告げる海王丸。余りの自信に、言葉を失う。

 「安心しろ、洋。 既に我々は救助を要請している。 もうじき保安庁辺りが助けに来てくれるさ」

 海王丸が微笑みかける。それは母性に満ちていた。

 「だから私は、せめてお前たちが全員救助されるまでは沈むわけにはいかん。 波に攫われ、転覆する結末が待っていようが、お前たちだけは死なせない」

 なんでそんなに優しく笑っていられるのか。この状況で一番苦しんでいるのは彼女自身のはずなのに。

 しかし海王丸はやっぱり笑っていた。その笑顔が、海王丸の船首にある貴婦人像を連想させた。その瞳は我が子を見守るような慈愛に満ちている。

 「海王丸、お前……」

 「ふふ」

 「ッ!」

 洋の頭に海王丸の手が触れる。その手がゆっくりと移動し、洋の頬を優しく撫でた。洋の両頬がみるみるうちに真っ赤になっていくのがわかる。

 「私の使命はお前たちを一人前の船乗りになるよう育て、その船出を見送ることだ。 だから必ずお前たちを生きて帰す。 それが、練習船として生きる私の役目だ」

 海王丸は首を微かに傾げ、微笑みかけた。洋は瞼の奥から熱い何かがこみ上げてくるのを感じた。

 「……馬鹿、男が泣くな。 船乗りになる男が」

 「な、泣いてねえし!」

 洋はぐしぐしと腕で両目を擦った。そんな洋の姿を見て、海王丸はくすくすと笑っている。

 「それと一つ、真帆も無事だぞ。 さっき会いに行ったからな」

 「そうか……」

 やっぱり海王丸は既に同じように真帆に会ったのだ。真帆の無事を知り、洋は今度こそ安堵する。

 だが、完全に無事だとは洋も余り思っていなかった。あの時、金物から解き放たれた机によって吹き飛ばされた真帆の姿を見てしまっているからこそわかっていた。しかし海王丸はあえて詳細には言ってこなかったし、その言葉は嘘偽りないものだったので、洋も追及することは避けることにした。

 「さて、洋の無事も確認できたことだし、私は一度また真帆の所に行くぞ」

 海王丸曰く、真帆は無線室の方に避難したグループに居ると言う。海王丸は洋に向かって、先程の微笑みとは別の種類の笑みをニヤリと浮かべた。

 「真帆も随分と洋のことを心配していたからな。 早く報告してやらないといけん」

 「は、浜邊が……?」

 あの時、視線が合った真帆の顔を思い出す。そう言えば、真帆も何かを言いかけていた。

 「ふふ、また来るぞ。 その時は、洋の無事を知った真帆の反応を特別に密告してやろう」

 こいつは一体何なんだ、と呆れた表情を浮かべる洋に対し、くくくと喉を鳴らした海王丸は手を掲げて光に包まれる。

 「頑張ろうな、洋」

 そう言い残し、海王丸は洋の目の前から消えた。

 しばし沈黙していた洋は、強く拳を握り締めていた。

 「あの馬鹿……強がるんじゃねえよ、くそ……ッ」

 こっちはとっくに気付いてるんだよ、と呟く。洋は見てしまった。海王丸が隠していた両足に大きな傷が刻まれていた所を。

 彼女は膝を折って上半身を寄せ付け、洋に両足を見られまいとしていたようだったが、微かに見えた傷は隠し切れない程に大きなものだった。

 



 2004年10月20日22時47分―――練習船『海王丸』が、伏木富山港富山地区の防波堤に座礁した。

 この海難事故は、台風23号を避けようとした『海王丸』が伏木富山港沖で錨泊、暴風により走錨し、伏木富山港富山地区の防波堤に座礁したことで発生した。

 翌21日の午前8時45分に救助が開始。15時20分に乗員167名全員が救助された。内30名が負傷していた。

 事故を起こした『海王丸』は台風をやり過ごすために同地区に錨泊する方針を取ったが、地元の船はこのような避難行動を行っておらず、更に海上保安庁からも伏木地区は台風回避に適当ではないと勧告されていた。後日、事故当時の『海王丸』船長は判断ミスを認めた。

 11月24日、35日間座礁していた『海王丸』はクレーン船2隻で吊り上げられて離礁し、仮修理のため近くの新日本海工業造船所へ曳航された。船底だけで130箇所も損傷があった。

 余りの傷の多さのために仮修理は長引いたが、2005年4月5日に仮修理が完了。本格的修理のためIHI横浜工場へタグボートによって曳航された。左舷側を中心に約4割の鋼材が取り替えられるなどされ、2006年1月5日、修理が全面的に完了した。

 両地区の間にある新湊地区には、先代『海王丸』が繋留されており、事故を起こした『海王丸』II世の寄港によって両船が初めて揃う予定であった。そして、修理を終え復帰した『海王丸』がこれを実現したのは、座礁事故から約1年9ヶ月を経た2006年7月15日のことであった。



 練習帆船『海王丸』は今も多くの船乗りを育成して送り出し、海の貴婦人として親しまれている。



前書きにも記しました通り、この物語は事実を元にしたフィクションです。

元にした事実と言うのは、現在においても日本の航海練習船の一隻として活躍している『海王丸(Ⅱ世)』の海難事故を指しています。


私自身が練習船に乗り組んでいた際、当時の海難事故を体験された乗組員の方から聞いた話も一部参考として執筆いたしました。

この作品が『海王丸』の海難事故が多くの方に伝えられる機会になればと切に願います。


久しぶりの艦魂作品が練習船となってしまいましたが、ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。


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― 新着の感想 ―
[良い点]  練習船に乗っていたと言うこともあり、とてもリアルな作品で驚きました。  素晴らしい作品に出会えて大変嬉しいです! [一言]  以前から艦魂の物語を書かれている伊東先生の作品は読んだことが…
[良い点] 凄く詳しいですね。自分の会社にこれに乗ってた人が居ます。 士官と部員(両方とも甲板部)の情けなさも上手に表現されてて良かったです。 [気になる点] 二航士をセコンジャーと途中書いてましたが…
[良い点] 当時の方のお話を盛り込んでいるだけあって、船内での細かい描写がされていてよかったと思います。 [気になる点] 専門用語や乗員の階級などが細かいことが書かれているのがよかったのですが、逆に…
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