緑色のガラスの小瓶に入った、アーモンド油のお話
俺が市場で油を売っていると、前に立った奴隷の女が、目からぽろぽろ涙を流しながら俺を見てた。じゃなくて、俺がらくだの鞍にぶらさげていた、緑色のガラスの小瓶に入った高級アーモンド油を見て泣いていたのだった。油の行商人と、亡国のお姫様のお話。
『かまど係のお姫様と油売りの男の話』
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の男性サイドの話です。
☆ウバ クロネ様にいただいたイラストをラストに載せております。ぜひぜひ、ご覧くださいませ(お嫌いな方は画像非表示機能をご利用ください)
☆蛇足ですがウズベキスタンの地図も載せました。
1,そこに立たれると商売の邪魔なんですが
とても暑い日だった。俺は、ヒヴァの市場で、食用の油を売っていた。
天蓋はあるんだが、とにかく暑い。拭いても流れる汗に気を取られていると、いつのまにか若い女が、目の前に立っていた。
しかもその女は、黙ったまんま、大きな黒い眼から涙をぼろぼろと流していたのだった。
さすがの俺も少し驚いた。が、涙のわけはすぐにわかった。
女は、らくだの鞍にぶらさげてある、高級アーモンド油の瓶をじっと見つめて、泣いているのだった。
このアーモンド油が超高級品であることは、知っている人は知っている。これまでも、目を輝かせて値段を尋ねるお客はときどきいた。しかし、がっかりしたり、悔しがったり、腹を立てたりして帰っていく。確かに、お値段もものすごい高級品なのだ。
こちらも売りたい気持ちはあるが、商売人としては仕入れ値を割るわけにはいかない。涙をのんで一緒に旅をしてきた、いわくつきのお宝だ。
女は何も言わず、涙を流すばかりのようだ。俺は頃合いをみはからって、話しかけた。
「お嬢さん、このアーモンド油がほしいのかい?」
女はここで我にかえり、涙を手の甲でぬぐいながら言う。
「え? ええ、はい」
「でも、それはとてもお高価いんだよ」
念を押してみた。
「ええ、わかっています。いまの私では到底買うことができないことも。ただとても懐かしかったので、つい見てしまいました。ごめんなさい」
女は大人しやかに、そんなことを言う。
小脇にかかえた油壷、服や靴のくたびれ加減からみて、近くの商人の家のかまど係の女かなにかだろう。うちに油を買いにきたところ、と見うけられた。
確かに今のこの女が一生働いても、おそらく娼館に身を売っても、アーモンド油は買えない。そういうお値段だった。
しかし、何も言わずにただ緑色の小瓶を見つめて涙を流す、夢をみているような女の黒い瞳を見ているうちに、俺はいつのまにかこんなことを言っていた。
「俺は、街のはずれにある隊商宿に泊っている。今日の夜、来てくれたら、あの油をお嬢さんにあげてもいいよ」
言った俺も驚いたが、聞いた女も驚いたようだった。一瞬、日よけ用の布からのぞいている大きな目で俺をみた。ことばの意味がわかるまで、しばらくの時間ののち、持ってきた油壷を置いて、買いにきたのであろうひまわり油も買わず、逃げるように走り去ってしまった。
「あちゃ~」
そんなことを言うつもりはなかったし、見たところ十三、四くらいのその女に夜伽をしてもらわなきゃいけないほど飢えちゃいない。
でも、あれくらい言っておけば、もうここには来ないだろう。ちょっと残念な気もしたが、俺は気持ちを切り替え、商売にもどった。
☆☆☆
二、三時間ののち、恰幅のよい中年の女が、油壷を引き取りにやってきた。
その人は、城下の物持ちの家の料理長で、何度か直に油の質についてやりあったこともある。見知りの相手だった。
「ちょっと、お前さん。うちの若い子になんか変なこと言った?」
あら~。先ほどの女は、こちらさんとこの子だったのか。
「ああ。あの子はねえ、このアーモンド油をじーっと見てずうっと泣いてるんですよ。しょうがないから、ちょっときついこと言って追い払ってしまったんですが、まずかったですかね?」
「あら? それは申し訳なかったねえ。いや、頼んだ油は買ってこないし、持って行った油壷は忘れて帰ってるし。文句を言おうと思っても、部屋にひきこもってしまって呼んでもなにしても出てこないんでねえ。外でなにかあったのかと思って、様子を見に来たんだけれども」
おやおや。これはよろしくない。むしろヤバい。
「そうですか。きついことを言ってしまったのかもしれませんねえ。気にしなくてもいいって、言ってあげてください」
「ええ、こちらが迷惑かけたんなら仕方がない、あたしが謝るよ。お前さんも知ってる通り、あの子は少々訳ありでね。放っておくと一人で黙って泣いてたりするんだよ」
「訳アリって、どんなことですか」
「お前さんあの子の顔を見てないのかい?」
「ええ、頭巾で顔が隠れていたので」
「そうか。知らないんならそのほうがいい。今日は面倒をかけたね。許しておくれね」
料理長は、たっぷり油のはいった壷を軽々とかかえて、戻っていった。もちろんきっちり、値引きもさせられた。
2,鍋の底に残っていた、煮えすぎのショールヴァ
油の卸市場に行ったとき、食用の油とちがう区画に、この高級アーモンド油が、一本だけ売れ残っていたのだ。
多くの方向から刻まれ磨かれて、輝きを放つ緑色のガラスの小瓶にひかれて、お値段を聞いてみる。ものすごい値段だった。
そこの店主に「最後の一本でしょ? まけてくれませんか」と頼んでみたが、
「お兄さん、これはねえ、モンゴル軍が攻めてくるまえ、このへんの王侯貴族が使っていた超高級品だよ。もう産地にいっても生産されてない。極上品の、最後の一本だよ。びた一文、まけられないね」
妙に冷静に、鼻高だかで言う。
俺もなぜだか意地になっちゃって、押し問答のすえ、向こうの言い値で買ったのだった。しかし、お値段がお値段だけに、買い手があらわれない。しかたがないから、店の看板代わりにらくだのカーチャの鞍にむすびつけてある。
どうしても売れなかったら、ブハラかサマルカンドあたりまで行って、そこのお金持ちに売りつけるしかないかと思っていた。
☆☆☆
その日はヒヴァに入った初日で、帰りがちょっと遅くなってしまった。キャラバンサライの厩舎にらくだのカーチャをつなぎ、荷物の始末をして二階の自分の部屋に入ったときは、もう夜も更けていた。
すると、驚くべきことに、女が部屋のなかに入ってきている。顔にまいた日よけの布から目だけを出して、こっちを見ている。
ひえええーーーー。
「お前、何? なんでここにいんの?」
「え? だって、夜ここにくれば、アーモンド油を下さるとおっしゃったでしょう?」
そりゃあ、言ったけど。まさか本当に来るとは。背中に、昼間とは違う汗が流れる。
「そういえば部屋とかは教えてないはずだけど。なんでここが分かったよ?」
「宿の方に、油売りの方のお部屋を尋ねたら、教えてくださいました」
誰だよ教えた奴は。後でシメる。
「あのなあ、夜、男の部屋に来るってことは、何をされても文句は言えないってことだぞ? 分かってんのか?」
とすごんでみる。
「はい。分かっています」
と女はうつむく。
ひええ。それじゃあ、覚悟の上ってことか。
俺は、女に近寄り、目を見ながら念を押した。
「お前、そんなに、あのアーモンド油がほしいのか?」
「ごめんなさい、はしたない女とおもわれるでしょうけど、どうしても欲しいんです。お願いします」
女が俺の肩をつかむ。その拍子に、顔を包んでいた黒い布が落ちた。
昼間、料理長があの子は訳アリと言った理由がわかった。女の顔はがさがさに荒れ、肌がぼろぼろになって固くなり、ひび割れまでできていた。
「お前、どうしたよその顔は」
よく観察してみると、なにか、薬のようなもので無理やり荒らした感じがする。しかも、かなり長いことやらないと、ここまでは荒れないだろう。
しかも、ここまで痛めつけられても、本来この女はとてもきれいなのだ。顔の輪郭、筋のとおった鼻とか、小づくりな唇のかたちとか、生まれつきもあるが。大きい黒い瞳、そこに浮かぶ表情、一度見ると目が離せなくなる。肌が治って、二、三年して大人になったら、輝くばかりに美しくなるだろう。そのときのこの女の顔が、頭に浮かんだ。
「こりゃあ、痛いだろう」
黒い大きな目には、みるみるうちに涙が盛り上がる。泣くなよ。泣いたら涙がひび割れにしみるだろ。
俺は、手持ち荷物のなかに入れていた大事な緑色の小瓶を出し、封をあけた。周囲に香ばしい、アーモンドのおいしそうな匂いがただよう。油は茶色がかってとろりとしていて、女の痛々しくひび割れた肌に塗ると、すうっとすいこまれていった。
洗面台の水差しに入っていたお湯で布巾を濡らし、固く絞って、女の顔にふんわりとかぶせる。
「熱くないか?」
「はひ、だいじょうぶれす」
と女は答えた。
「そっか。しばらくそうしてな。俺、食堂に行って、なにか食べるものをもらってくるわ」
腹が減っては戦はできぬ。
三十六計逃げるに如かず。
ヒゲ長き 小学生に 勝る者なし。
自分で言っててわけわかんないけど。俺はとりあえず、一階の食堂に向かった。
☆☆☆
食堂に行ったら、もう時間が遅くて、ショールヴァ(羊肉と野菜のスープ)とナン(パン)しか残っていなかった。料理人を拝み倒して、残り少ないなかようやく二人分を勝ち取った。
部屋に戻って見ると、女は布巾を顔にかぶったまま、眠っているようだった。
そのまま朝まで寝かせておくという手もあったんだが。でもやっぱり、ショールヴァはあったかいうちに食べたほうがいいだろう。
「おい、起きろよ。せっかくのショールヴァが冷めちゃうぞ」
ぺしぺしと足のあたりをたたくと、
「ふわい。あっごめんなさい。寝ちゃっていました」
もぞもぞごそごそしながら起きてくる。
女を寝台に腰掛けさせ、部屋に備え付けの机をその前に動かして、即席の食卓をつくる。
「ショールヴァは、ここの名物なんだよ。まあどんなもんか、食べてみて」
と勧めると、
「まあ、こんな具の多いショールヴァは初めて! おいしそう!」
女は手を合わせて喜ぶ。
あの料理長、使用人に何を食わせてんだよ。
俺も腹が減っていたから、さっそくいただく。が、今日のは鍋の底に残っていたやつで、人参や玉ねぎが砕けて小さくなってたし、味も煮詰まり気味だった。
「今日のショールヴァはちょっと味が濃いなあ。いつもはもっと澄んだ色で、味もすっきりしてんだけど」
と言うと、
「ええ~? すごくおいしいと思うんですけど。それなら普段はどんなにおいしいんでしょう? これは香菜が入ってますね? あとクミンかなあ」
といいながらぱくぱく食べる。
「くわしいことは俺にもわからねえ。今度、料理人に聞いてみなよ。かわいい女の子には弱いから教えてくれるかもしれねえぞ」
と言ったら、
「私、かわいくないです。顔ぼろぼろですし」
うつむいて涙声になる。
「お前はさあ、肌さえ治ればすごい美人になるよ。それは俺にもわかる。何か理由があって肌を荒らしているんだろう? さっきはとっさに、アーモンド油を塗っちゃったけど。もし良かったら、話してみなよ」
女の話は、長くて残酷な、でもこの辺ではよくある話だった。
3,四十三人殺しのパフラヴァナ・シーリン
「今から何年か前、私が八歳のとき、モンゴル軍が私たちの国にも押し寄せてきました。私たちの国はとても小さい国だったので、あっという間に城を制圧されました。兵隊、将軍はおろか、普通の人たちも皆殺しにされ、水路も市場も建物も城も壊されました。
父と母はつかまってその場で首をはねられました。ただ、私の乳母だったシーリンという人が、となりのカラ(城塞)に通じる隠し通路を使って、私だけを逃がしてくれたのです」
ああ、本当によく聞く話だ。自分たちの通った後は、なにも残さない。モンゴル軍のやり方だ。我々行商人には手厚いのだけど。
「お前の乳母だったシーリンって人、もしかしたら『四十三人殺しのパフラヴァナ・シーリン』のことか?」
「『パフラヴァナ』(勇者)っていうあだ名はあったみたいですけど。武芸の達人でしたから。『四十三人殺し』ていうのは、知りません。そんなに有名ですか?」
「ああ。自分が仕えていた王女様を逃がして、自分は王女を守るために城にもどった。追っ手のモンゴル兵を四十三人殺して、息絶えたという、伝説の人だ」
「ええっ、そんな……」
また泣かしてしまった。しかし、これはしかたがない。自分を守るために城に戻って壮絶に亡くなったと分かったら、そりゃあ辛いよな。
「それで、城を抜け出すときに、シーリンが私に小さい透明のガラス瓶をくれたんです。
あなたのような美しい女の子は、お金持ちのお妾にされて、ひどいめにあわされます。
なるべく美しい顔を隠すようになさい、と。
これを毎日、顔におつけなさい。肌が荒れて、醜くなりますから。
だから、私は毎日、夜寝る前にはそれをつけて眠ってました」
俺は男だから、シーリンさんの言うことが正しいかどうか分からない。しかし、『四十三人殺し』とまでうたわれた女性のことだ。なにか考えがあってのことなのだろう。
「そうかあ。八年間よくがんばったなあ」
俺は、女を膝の上に抱き上げて、下まぶたにたまった涙を吸った。涙がひび割れにしみたら、すごく痛いだろうから。次に、唇と唇をあわせたら、もう二度と離れられなくなるだろうという予感がものすごくした。しかし、もう構っちゃいられなかった。
☆☆☆
☆☆☆
改めて布団にもぐりこみ、女のあったかい身体を抱きこむ。いいよね、こういうの。
「俺さあ、考えたんだけど」
「なに?」
「このあと、ブハラに行って、店を開こうと思うんだ。行商ではなく、ちゃんと店構えのある店をね。食用の油もいいんだけど、できればアーモンド油のような、値段の張る上等なものを扱いたいと思ってる。ブハラなら豊かだし、各地からいろんな商品が入ってくるから、値段が高くても買える客も多いしね」
女は、なぜか大きな目をさらに大きくして尋ねる。
「え? それじゃあ、油の行商はやめてしまうの?」
「ああ。この年になると砂漠の旅はこたえるんだ。油重いし」
「でも……。うちの料理長は、あなたの店の油をとても気に入ってるのよ。あなたが来なくなると、困ると思うわ」
「そう。でも、ほかにも油の行商人はいるから。頼めば同じものを持ってきてくれるよ」
「そうなの……」
女はなぜかしょんぼりして、寝台からはい出て、古ぼけた服を着はじめた。
「あれ、帰るの?」
泊っていくものと思っていた。
「ええ、帰ります。ありがとうございました」
いや、別に礼を言われるようなことはしてないが。
しかも遠目でよくわからないけど、泣いてるような気配もする。
俺も慌てて寝台からはい出た。
「なあ、腰が痛いんじゃないか? さしさわりがなかったら泊っていきなよ」
というと、俺の手を振り払って、
「いえ、結構です。優しくしないでください」
と言う。
せっかく仲良くなれたと思ったのに、急な変化。ほんとに女ってのはよくわからん。
「なあ、ブハラが嫌なの? いいところなんだけど」
と聞くと、
「いえ、どんなところかよくわからないので」
という返事。
「じゃあ、油のお店が嫌なの? なら商売替えしてもいいけど。俺としては、いまさらほかの物売るよりは油のほうがいいんだけど」
「油が嫌なわけではありません。大事なものだと思ってます。料理長もそう言っていました」
さすがあそこの料理長は話が分かる。だがそんなことを言ってる場合じゃないな。
「そうか。じゃあ何が不満なんだ」
ついきつい口調で言うと、
「何て……。たまにはヒヴァに寄ってくださって、ついでに私にも会ってくださるといいなと思っていましたので」
という。
あはは、そういうことかあ。なんだあ。
ふうと、ひとつ息をつく。
「俺はこれからブハラで油の店を開きたい。ついてはお前も一緒に来ないかっていうことだよ」
「ええっ。じゃあ、結婚ってことですか?」
「ああ、そうだね。それを先に言うべきだったね」
言わなくても分かってるような気がしたので、つい言うの忘れた。すまんかった。
「まあ俺はそういう計画を持ってる。もしよかったら一緒に来てくれ、ということだ。返事はすぐでなくてもいい。考えてみてくれ」
「はあ……結婚?……ええと……はあ……」
女はよほど驚いたのか、それとも腰が痛いのか、ふらふらしながら帰っていった。
俺としては引き止めたかったんだが、無断で外泊すると料理長に怒られるということだった。
しかも、肝心のアーモンド油の小瓶は忘れていった。忘れ物の多い女だ。
まあ、必要なら明日、取りにくるだろう。
4,砂漠へ
これは、父親に聞いた話なんだけど。昔むかし、ものすごい大昔は、天の北の「極」には全く別の星があったらしい。そして、天はその星を中心に回っていたそうだ。
それが、長い年月のうちに、次第にずれてきたんだな。今は、厳密にいうと、天の北の「極」に星はない。というか、見えないだけかもしれない。見えないと困るから、その近くにある適当に明るい星を「極星」と決めたんだ。
ほれ、あのへんに「ひしゃくのかたちをした七つ星」があるだろう? 見えるか?
まあ砂漠の旅は慣れないものにはきついよな。昼間は暑いし、夜は寒い。四方は(多少の起伏はあるが)見渡す限り、砂ばかり。灌木や生きながら半分枯れたような草が生えているだけだ。退屈極まりないよ。
でも、一人でみる砂漠の星空と、二人でみるそれは、なぜだか全くちがってみえる。たとえ、一人は荷車の後ろで寝ているだけだとしても。これって、不思議だよな。今まであったこともなかった人と出会って、「二人」になるなんて。その人のために、なにかしてやりたいと思うなんて。
砂漠では廃墟はあっというまに砂に埋まってしまう。アムダリヤ河の流れも変わっているかもしれない。八年前、モンゴル軍に滅ぼされた小さな国の跡なんて、地図があっても見つからないかもしれない。でも、心残りはなるべく消しておくほうがいいと俺は思ってるし。故国と両親に別れを告げたいという気持ちもわかるから、それらしいことをさせてやりたいと思ったんだ。
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東の空が明るくなり、明けの明星が輝きはじめた。地図にある場所の見当をつけ、らくだと荷車を止めた。
「このへんだと思うんだが、どうかな。なにか見覚えのあるものがあるか?」
と聞くと、
「いいえ、わかりません。というよりほとんど何も覚えていないのです」
と苦笑する。そりゃそうだろう。地平線を見渡しても、どこをみても一面、砂ばかりだ。
「行ったらなにか思い出すかと思ったんだけど……」
といいながら、乾燥した草の枝や葉を集めはじめた。手で穴をほってそれらを入れ、町から大事に持ってきた火口を懐から取り出し、枯れ枝に火をつけた。
しゃがんで口の中でなにかを唱えていたが、俺には聞こえなかった。しかし、砂漠特有の強い風が、あっという間に火のついた枯れ枝や草を吹き飛ばしていった。
四方八方に散らばっていく枝草を追いかけることもできず、両手をついて見送る。
「これでご両親やシーリンさんにも、心は伝わったと思うよ。そろそろ帰ろう」
と声をかけると、
「そうですね」
手でまぶたをぬぐう。泣くのは、これで最後にしてもらわないとな。
「さあ、行こうか」
と俺が手を差し伸べると、妻はその手をつかんで、立ち上がった。
5,開業
ブハラで店を開くと決めた理由は三つある。
一つは、東西の交易が活発になってきたこと。ブハラはその中心の一つだが、多くの人や商品が集まり、お金持ちも多い。商いの幅も大きい。
もう一つは、ブハラは水の都といわれるほど、水が豊かなところだ。町のいたるところに池や水路があり、たくさんの鴨や水鳥がきて遊んでいる。モスクの屋根にはこうのとりが巣をつくっている。妻がそれをみて喜ぶだろうと見越して開業を決めた。案の定だった。
そして、最後の一つは、ブハラのチャシュマ・アイユブ(預言者ヨブの泉)という泉だ。「そこの水を飲むと女性は美しくなれる」という伝説があるのだ。
妻はそこに毎日のように通いつめ、泉の水で顔を洗った。なにかを一つ信じ込むと、毎日毎日、飽きずに愚直につづける。わが妻ながら、そういうところはすごいと思う。
俺らは、町の中心から小路を少し入った奥まった通りに店を構えた。
アーモンド油は、例の緑の小瓶の超高級品には及ばないが、よいものがカブールから入るようになった。インドからはココナッツ油、ごま油など、食用にも美容にも使えるものが入る。ウコン(ターメリック)は、食用の黄色味の強いものではなく、インドの女性が美容につかう色の薄いものを仕入れた。女性の皆さんは、飢えていたかのように、それらを買いあさった。
おかげさまで店はそこそこ繁盛した。妻も高級アーモンド油を毎日顔や手や髪にすりこみ、肌も回復し、また美しくもなっていった。一番初めに会ったとき俺の頭に浮かんだ、輝くような妻の姿は、間違いではなかった。しかし逆に、キャラバンサライの部屋で頭布が落ちた時見た、あのぼろぼろだった顔が、なつかしく頭に浮かぶ時もある。
らくだのカーチャは今も裏庭にいて、仕入れの時には荷車を引いてくれる。
最初に思い切って買った超高級品のアーモンド油の緑の小瓶は、今は手洗い場においてある。花など活けてもらって、朝は日の光を受けて、きらきらと輝いている。
(終)
☆ウバ クロネ様
☆ Kirisame - Own work, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5213398 様の画像を、私(地湧金蓮)が加工しています。
読んでいただきまして、ありがとうございました。




