現代の世界から~オマーン-イマーム国の発展~
オマーン-イマーム国。
ハーシム朝アラブ帝国、南アラビア首長国連邦、イラン民主連邦共和国、そしてアラビア海を挟んで南アジア連邦とドラヴィダ-ナードゥに接するこの国は遠くアラビア半島に位置しているにもかかわらず、東亜協同体の正式加盟国であると同時に東亜協同体加盟国が唯一のオマーン政府として認めている存在でもある。
この国を語るうえで忘れてはいけないのが、イバード派のことだろう。イバード派は一般にイスラームの2大宗派と呼ばれるスンナ派ともシーア派とも異なる宗派であり、最後の正統カリフ、アリーと争ったウマイヤ家のムアーウィアの双方に反対し自らに反対するものを不信仰者と呼んだ過激派であるハワーリジュ派の中でも穏健派に属する者たちの流れをくむ宗派だった。
イバード派はオマーンの大部分で信仰されていたが、例外的にスンナ派が主なハドラマウト地方はかつてのオマーン統一戦争の際、自らの主君すら裏切って旧アデン保護領を中心とした南アラビア首長国連邦に加盟することで生きながらえる道を選んだ。
とはいえ統一が成ったといってもこの国を取り巻く環境は厳しかった。従来より経済的に重要だったハドラマウト地方を失い、国際的にも南アジア連邦が後ろ盾となったグワーダルのオマーン-スルタン国亡命政府(現在は19世紀に分裂したザンジバル-スルタン国との合同によりオマーン=ザンジバル-スルタン国となっている)を承認する国家が圧倒的多数であったことが原因だった。それ故に統一後は暫くアラビア最貧国として過ごさざるを得なくなったほどだった。
そんなオマーン-イマーム国にとっての転機となったのが、1976年の東インド介入から始まった大日本帝国及び大清帝国と南アジア連邦との緊張関係とその後の武力衝突だった。良港マスカットを有するオマーン-イマーム国は日清両国にとって南アジア連邦を牽制するにはうってつけの存在であり、はじめは軍事顧問団の派遣や兵器の供与から始まり、次に経済的援助などが行なわれた。
こうした協力関係は戦後も維持され、オマーン-イマーム国はカリフを擁するスンナ派国家としての矜持を強く持つハーシム朝アラブ帝国、世俗国家ながらナショナリズム的観点から決してシーア派の影響力を捨てきれないイラン民主連邦共和国、そしてアラブ人とは異なるという民族意識をもとに民族革命を起こした旧エジプトや旧クウェートのいずれとも違う禁欲を美徳とし、武力よりも知識に重点を置く有力者の合議によって選出される終身制の権威ある指導者とそれを支え共に統治する地方の名士たちというイバード派の思想とオマーンの実情を合わせた独自の共和制を掲げたアラブ国家としてさらなる発展を遂げることになる。
しかし、それに危機感を抱いたのが周辺諸国の中でも弱体な南アラビア首長国連邦、さらに言えばその中でもかつてオマーンを離脱した過去を持つハドラマウトの人々だった。ハドラマウトの人々は伝統的にインド洋を商圏とした商人であり、海洋民でもあったため、それ故に南アジア連邦との繋がりや東南アジア各地でのムスリムと交流があり、ハドラマウトの人々はその繋がりを生かしてオマーン-イマーム国に対抗しようとした。その方法は多岐にわたり、真っ当な経済育成、軍事力の強化を目指す遠回りなものから、最も手っ取り早い方法、つまりオマーン-イマーム国とそれを援助する日清両国へのテロ行為などがあった。後者の活動は95年のマニラでのカタガルガン共和国独立50周年式典に参加していた日清両国の要人を狙ったテロ事件とその報復としての東亜協同体による各地への攻撃、そしてそれを受けた更なる規模のテロ攻撃による報復という最悪の形で世界に大きな影響を及ぼすことになったのは記憶に新しいところである。
だが、そうした困難に直面してなおオマーン-イマーム国は発展を続けており、2026年に首都ニズワで行なわれる予定の東亜協同体首脳会議と最大都市マスカットでの万国博覧会はその発展を示す好例となるかもしれない。




