ぼっちキングの失恋
降下艇のハッチが開くと同時に、鼻を突いたのは鉄錆のような血の匂いと、腐敗した肉が放つ不浄な熱気だった。
「……ひどいな」
皆人は降下艇から一歩踏み出し、眼下に広がるブラウスウェイト伯爵領を眺めて絶句した。わずか数十分前まで平和な空を飛んでいたのが嘘のように、そこは地獄の様相を呈していた。
先行させていた偵察ドローンからの映像データが視界の隅に同期される。画面に映し出されていたのは、通常の魔物とは明らかに一線を画す「異形」の集団だった。
「アンデッド化したオーガ……しかも、魔導兵装だと?」
本来、知能が低いはずのオーガたちが、禍々しい紫の光を放つ魔導斧や盾を装備している。それはリーズを襲撃したアンデッド軍の武装と酷似していた。誰かが意図的に、この領地を実験場か、あるいは見せしめの場として選んだのだ。
「シャルフィヤ、無事でいてくれ……!」
皆人は加速装置を吹かし、半壊した伯爵邸へと突っ込んだ。
邸内はさらに凄惨だった。豪華な調度品は砕かれ、かつて栄華を誇った廊下には、動く死体と化した衛兵たちが徘徊している。
「邪魔だ、どけ!」
皆人は腰の試作型光線銃を抜き、アンデッド・オーガたちの眉間を次々と撃ち抜いていく。
倒しても倒しても、魔導武器の呪いによって強制的に立ち上がるオーガたち。皆人は出力を最大に引き上げ、一帯を焼き尽くしながら地下へと続く隠し階段を探り当てた。
重い鉄扉を蹴り破ると、そこには震えながら身を寄せ合う三人の人影があった。
「シャルフィヤ!」
「……っ、あなたは……?」
泥と涙にまみれた顔を上げたのは、間違いなくシャルフィヤだった。彼女の両脇には、彼女を必死に守ろうとしていたであろう二人の侍女が、ボロボロの衣服で立ち尽くしていた。
「助けに来た。今は何も聞かずに俺について来てくれ」
皆人は彼女の細い手を取り、半ば強引に立たせた。彼女の瞳には、皆人に対する感謝よりも先に、信じられないほどの絶望と恐怖が張り付いていた。
降下艇まであと数十メートル。広場に出た皆人たちの前に、一際巨大な「影」が立ちふさがった。
それは、ボロボロの貴族服を身に纏い、全身から黒い霧を噴き出すアンデッドだった。腐り落ちた頬の間から、不自然なほどに爛々と輝く赤い目が俺たちを射抜く。
「お……お兄様……?」
シャルフィヤの喉から、ひきつった声が漏れた。
目の前にいるのは、ブラウスウェイト家の現当主。シャルフィヤの実の兄だ。だが、その魂はすでに呪いに蝕まれ、歪みきっていた。
『……おのれ、成り上がりの……冒険者風情が……』
アンデッド化した伯爵は、手にした呪いの長剣を地面に引きずりながら、怨嗟の声を吐き散らす。
『貴様さえいなければ……我が家は……王国内で揺るぎない地位を……。シャルフィヤ、貴様もだ……。なぜあのような下賎な男に……心を寄せた……!』
「お兄様、もうやめて! お願い!」
シャルフィヤの悲痛な叫びも、死者の耳には届かない。伯爵は呪いの剣を振り上げ、目にも留まらぬ速さで皆人へと斬りかかってきた。
「……もう、手遅れなんだ」
皆人はシャルフィヤを背後に庇いながら、腕のプリズム・レイ・ユニットを起動した。
多重屈折した七色の閃光が収束し、一直線の純白の熱線となって放たれる。
『ギ、アアアアアッ……!』
伯爵の体は、その怨念ごと白光の中に溶け、一瞬で塵へと帰した。
あとに残ったのは、焦げ付いた地面と、静寂だけだった。
「あ……ああ……」
シャルフィヤはその場に膝をついた。皆人が彼女の兄を殺した――たとえそれが慈悲であったとしても、その事実は残酷な楔となって、二人の間に打ち込まれた。
「私を……ボナーヘッド伯爵領へ、運んでください。そこなら、預かってもらえますから」
降下艇の中、シャルフィヤは窓の外を一点に見つめたまま、一度も皆人と目を合わせようとはしなかった。
皆人が差し出した水も、毛布も、彼女は拒まなかったが、受け取ることもしなかった。ただそこに「肉体」があるだけの、空っぽの器のようだった。
指定された領地に彼女たちを下ろしたとき、彼女は一度だけ立ち止まり、背中を向けたまま呟いた。
「……ありがとうございました、冒険者殿」
「冒険者殿」――かつて親しみを込めて呼んでくれた名はそこになく、ただ冷徹な身分の壁だけがそこにあった。
彼女たちは出迎えの兵たちに連れられて去っていった。皆人はハッチが閉まるまで、彼女の後ろ姿を見送ることしかできなかった。
皆人たちの関係は、その日、あの閃光と共に終わったのだ。
空虚な思いを抱えたまま、皆人はエルザたちが待つ港町へと降下艇を戻した。
巨大な金属の塊が空から降りてくるのを見て、エルザ、セーラ、そして料理担当のロッタが目を輝かせて駆け寄ってきた。
「ちょっと! 何よこれ、凄いじゃない!」
「すごーい! 鉄のクジラさんみたい!」
彼女たちの屈託のない明るさが、今の皆人には眩しすぎて、逆に胸が締め付けられる。
「……ああ。これにみんなを乗せて、一度拠点まで戻ろうと思う」
「やったー!」とはしゃぐ彼女たちを乗せ、皆人は湖畔のログハウス拠点へと機体を向けた。
だが、操縦席に座る彼の肩は重く、視界はどこか霞んでいた。
拠点に着くやいなや、皆人はソファに沈み込み、動けなくなった。
そんな彼の異変を察したのか、ロッタが黙って台所に立ち、やがて猛烈な勢いで料理を作り始めた。
「主様、食べてください。人間、お腹が空くと心まで腐っちゃいますから」
テーブルに並べられたのは、山盛りの肉料理、香ばしいスープ、焼き立てのパン。ロッタが腕によりをかけた「爆食メニュー」だ。
「……いただくよ」
皆人は無言でフォークを動かした。
美味い。驚くほど美味い。だが、味がするたびに、シャルフィヤのあの絶望した顔が思い出され、皆人はそれをかき消すように、さらに料理を口に押し込んだ。
涙がスープに落ちたが、彼は構わず食べ続けた。
翌日。皆人は一人でログハウスのテラスに座り、ぼんやりと湖面を眺めていた。
ふと見ると、桟橋の方でエルザたちが釣りをしていた。
「あー! また逃げられた! セーラ、そっち行ったわよ!」
「わわ、待って待って!」
彼女たちは、わざとらしく騒がしくしていた。時折、チラチラとこちらを窺う視線に気づく。
彼女たちは、皆人が立ち直るのを待ってくれているのだ。無理に踏み込まず、ただ「いつでもここにいる」という空気を作ってくれている。
その優しさが、少しずつ、彼の心のひび割れを埋めていった。
「……情けないな、俺は」
立ち上がり、大きく伸びをする。
失ったものは大きい。シャルフィヤとの絆は修復不可能かもしれない。だが、皆人がここで止まれば、今度はこの湖畔の笑顔まで失うことになる。
皆人は桟橋まで歩いていき、背中に声をかけた。
「……エルザ、セーラ。昨日は、心配かけたな。すまなかった」
エルザが振り向き、少しだけ意地悪く、けれど最高に優しい笑みを浮かべた。
「やっと起きたわね、このバカ。さあ、釣った魚の処理、手伝いなさいよ!」
「ああ、任せろ」
数日間の静養を経て、彼の心は完全にではないにせよ、前を向ける程度には回復した。
降下艇の点検を終え、皆人はみんなを呼び寄せた。
「みんな、準備はいいか? やっと、リーズへ帰るぞ」
「おう!」と元気よく答えるエルザたち。
空はどこまでも高く、青かった。
降下艇が垂直に浮上し、高度を上げる。
眼下に広がる美しい湖畔を後にしながら、彼は心に誓った。
アンデッドを操り、人々の絆を切り裂く黒幕を必ず突き止める。それが、皆人にできる唯一の贖罪であり、戦いなのだ。
機体は加速し、雲を突き抜けて、懐かしきリーズの街へと向かって真っ直ぐに飛んでいった。




