ぼっちキングと夜会
ベヒーモス討伐という、歴史に刻まれるべき大戦果から数週間。
リーズの街は、かつてない熱狂に包まれていた。路地裏の酒場から領主の館に至るまで、語られるのは「銀嶺の英雄」皆人が放った、天を割る極大魔法の噂ばかり。
しかし、当の本人はといえば、慣れない礼装に身を包み、鏡の前で深い溜息をついていた。
「……なあ、『兵庫』。このネクタイ、少し締めすぎじゃないか? 呼吸が苦しいんだが」
皆人が首元をいじると、網膜上に皮肉げなシステムメッセージが躍る。
『カイト、それは「ネクタイ」ではなく「アスコットタイ」です。締め具合は適正。心拍数の上昇は緊張によるものと推測されます。
貴族の夜会における生存率は、魔境の深部より低いというデータもあります。マナーモード:【完璧な紳士(偽)】を起動しますか?』
「余計なお世話だ。……だが、断れないのは辛いな」
ベヒーモス討伐の功績は、一介の冒険者の手に余るものとなっていた。ギルバート子爵の上位にあたる、この地方一帯を束ねる有力貴族・ラインハルト伯爵からの直々の招待。これを蹴れば、今後この都市圏での活動に致命的な支障が出ることは明白だった。
「カイト! 準備できた? ……あら」
部屋に入ってきたエルザが、言葉を失う。
普段の無骨な革鎧姿とは打って変わり、深い紺色のジャケットに身を包んだ皆人は、どこか浮世離れした気品を漂わせていた。
「……意外と様になってるじゃない。これなら、お貴族様たちの令嬢に食い殺される心配はなさそうね」
「食い殺される? 冗談はやめてくれ、エルザ。俺はただ、挨拶をしてメシを食って帰りたいだけなんだ」
「それが一番難しい場所だって言ってるのよ、夜会は」
エルザは苦笑しながら、彼の襟を整えた。その目は、冗談めかしながらも、どこか遠くへ行ってしまう仲間を案じるような、複雑な色を帯びていた。
会場となった伯爵邸の大広間は、まさに光の洪水だった。
魔石を用いたシャンデリアが天井でまたたき、最高級のワインと芳醇な料理の香りが空気を満たしている。
皆人が一歩足を踏み入れると、それまで喧騒に包まれていた会場が一瞬、奇妙な静寂に包まれた。
(視線が……痛いな)
『兵庫』が即座に周囲の人間をスキャンし、色分けされたマーカーを視界に表示する。
『【周辺環境分析:ターゲット属性】
赤(敵対・警戒):20% ―― 突如現れた強大な力を危惧する保守派貴族。
黄(中立・観察):30% ―― 様子見。
緑(懐柔・利用):50% ―― 英雄の「血」または「力」を自陣営に取り込もうとする勢力』
「カイト殿! おお、貴殿が噂の……!」
真っ先に近づいてきたのは、脂ぎった顔に下卑た笑みを浮かべた男だった。彼は自分の娘らしき、着飾った少女を伴っている。
「こちらは私の三女、リリアーヌです。魔法学園では優秀な成績でしてな。ぜひ、極大魔法の理論についてご教授いただければ……」
「カイト様、私は四女のミリー。剣術の稽古をつけていただきたいのですわ」
次から次へと、貴族たちが「三女」や「四女」を差し出してくる。長女や次女は既に有力な家柄との婚約が決まっていることが多いが、三女以降はこうした「掘り出し物の英雄」を繋ぎ止めるための、最も手離れの良い「駒」として扱われるのが常だった。
「……あー、恐縮です。ですが、俺の魔法は少し特殊でして、人に教えられるようなものでは……」
皆人は、マニュアル通りの笑顔を貼り付けながら、内心で舌打ちした。
彼女たちの瞳にあるのは、皆人自身への興味ではない。彼が持つ「ベヒーモスを一撃で葬る力」という看板への、底なしの欲望だ。
(逃げたい。今すぐ窓から飛び降りて、森に帰りたい……)
押し寄せる令嬢たちの香水攻めに眩暈を覚えた皆人は、隙を見てバルコニーへと逃げ出した。
夜風が冷たく、熱を持った頭を冷やしてくれる。
「……ふう。戦場の方がまだマシだな」
「左様でございますか? 私は、戦場よりはこちらの方が、まだ呼吸がしやすいかと存じますけれど」
鈴を転がすような、穏やかな声がした。
振り向くと、バルコニーの隅に一人の令嬢が立っていた。
彼女は、他の令嬢たちのように豪華な宝石をジャラジャラと着飾ってはいなかった。シンプルな、だが仕立ての良さが伺える淡い銀色のドレス。夜露に濡れたような黒髪が、月光を浴びてしっとりと輝いている。
「驚かせてしまいましたね。申し訳ありません」
彼女は小さく頭を下げた。その所作には、付け焼き刃ではない、魂に染み付いたような気品と謙虚さが宿っていた。
「いえ、こちらこそ。……お名前を伺っても?」
「シャルフィヤと申します。ブラウスウェイト伯爵家の、……末席に連なる者です」
シャルフィヤ。
その名は、先ほど『兵庫』がリストアップした「要注意リスト」には入っていなかった。伯爵家の娘ではあるが、派手な社交界からは一線を画している、いわば「目立たない令嬢」だった。
「カイト様、ですよね。ベヒーモスから、この街を救ってくださった」
「……仕事をしただけですよ。褒賞もたっぷりもらいましたし」
「ふふ、謙虚なのですね。でも、私の父や他の皆様があなたに向ける視線は……少し、騒がしすぎます」
彼女は困ったように微笑んだ。その眼差しには、他の者たちが持っていた「計算」や「選別」の光が一切なかった。ただ、一人の人間として皆人を見つめている。
「私、魔法のことは分かりませんが……。あの光が空から降ってきたとき、とても美しいと思ったんです。恐ろしい力なのに、どこか優しくて、透き通っていて。それを作った方は、きっと……静かな場所を好む方なのだろうなって」
皆は不意を突かれた。
『兵庫』が放つ軌道レーザーを「美しい」と評した人間は、初めてだった。
「……静かな場所は、好きですよ。焚き火の音とか、風が木々を揺らす音とか」
「まあ、素敵ですね。私も、書庫の静寂が一番の友人なんです」
二人は、ほんの数分、言葉を交わした。
それは政治の話でも、魔法の理論でもない。ただの、他愛もない世間話。
皆人にとって、この夜会で初めて得られた「本物の休息」だった。
「――シャルフィヤ! どこへ行った、この娘は!」
奥から鋭い声が響く。彼女の父親であるブラウスウェイト伯爵の声だ。
彼女はびくりと肩を揺らすと、皆人に深く一礼した。
「失礼いたします。……カイト様、どうか、今夜のワインがあなたの毒になりませんように」
謎めいた言葉を残し、彼女は光の渦へと戻っていった。
皆人がバルコニーで見せた、わずかな態度の変化。
それを見逃すほど、社交界の古狐たちは甘くなかった。
会場の隅、重厚なカーテンに仕切られた小部屋では、数人の高位貴族が冷徹な視線で皆人を観察していた。
「見たか。あの『銀嶺の英雄』、どの令嬢にも眉一つ動かさなかったというのに、シャルフィヤとだけは長く言葉を交わしていたぞ」
「ブラウスウェイト伯。貴殿の娘か。……確か、控えめで目立たぬ、道具としては使いにくい娘だったはずだが?」
問いかけられた伯爵は、口角を醜く吊り上げた。
「ええ、左様でございます。ですが、ああいう『英雄』という人種は、磨き上げられた宝石よりも、道端に咲く可憐な花を好むもの。……無垢で、控えめで、自分を害さないと信じ込める存在。それこそが、最も強力な毒になる」
貴族たちの間で、音もなく合意が形成されていく。
「決まりだな。彼を力で抑え込むのは不可能だ。あの魔法を向けられれば、我が領地など一晩で灰になる。ならば、絆で縛るしかない」
「シャルフィヤ嬢を使い、彼を籠絡する。彼女には『カイト殿を支えるのがお前の役目だ』とでも言い含めておけば、あの性格だ、健気に尽くすだろう」
「英雄が彼女に執着すればするほど、彼は我が国の、我々の陣営の『所有物』となる。……実に結構なことだ」
皆人が会場に戻ったときには、既に空気は変わっていた。
先ほどまで彼を品定めしていた貴族たちが、一転して「シャルフィヤがいかに素晴らしい娘か」を、さりげなく、だが執拗に耳打ちし始めたのだ。
皆人は、それらの言葉を適当に受け流しながら、先ほどの彼女の儚げな横顔を思い出していた。
(シャルフィヤ、か。……まあ、あんなに大人しくて、損得抜きで話せる奴が一人くらい街にいても、悪くはないな)
それが、緻密に計算された「蟻地獄」の一歩目であることに、皆人はまだ気づいていない。
【兵庫によるログ更新】
警告:周辺の人間関係における「カイト」への依存・拘束ベクトルが急上昇しています。
特定個人『シャルフィヤ』を起点とした政治的包囲網を検知。
……ですが、カイト。あなたのストレス値は先ほどより低下していますね。……やれやれ、私の主人は、どうやら『静かな毒』には耐性がないようです。
皆人は、左腕をそっと撫でた。
空では、『兵庫』の冷たいレンズが、主人の預かり知らぬところで蠢く「悪意」を、静かに記録し続けていた。




