おかえり、シャーロット
独白中心なので、向き不向きがあるかと思います。ご了承ください。
何たることでしょう。私はたった今、ナンヤカーヤ侯爵に婚約を破棄されました。私たちが生まれる前から両家が取り決めていたこの婚約を、この方は白紙に戻そうとしているのです。しかも、公衆の面前で。何たることでしょう!
侯爵が言うことには、私は彼の妹君であるメアリーを侮辱し、辱めたのだそう。心当たりがまったくないのだから困ったものです。それなのに人々の視線は刺すようで、胸の辺りがすうっと冷えていくのが感じられました。
メアリーが私を好いていないことくらい感づいておりましたが、まさかこのようなことを謀るとは。彼女をただの生娘だと思っていた自分を打ってやりたいくらいですわ。冗談ですけれど。それにしても、メアリーの勝ち誇った表情といったら!頭に来ますわ。まったく、いい迷惑でございます。
そうは言っても、私、子爵令嬢シャーロット、この場で不平を喚きたてるだとか、そんな恥晒しな真似をするわけには参りません。何故なら、メアリーが訴えたようなことをした覚えは一切ないのですから。私が犯した悪事など片手で数えられる程度ですし、第一それらはすべて子どもの頃の些細な過ちに過ぎません。それがどうして、十余年を経てメアリーに影響を与えましょう?馬鹿馬鹿しい限りですわ。
こうしたことは大抵、時間が解決してくれるものです。私は実に恭順な態度で侯爵の宣言を受け入れ、そのまま舞踏会を後にいたしました。これも、侯爵があの愚劣極まりないメアリーに騙されたままでいるはずがないと信じてのことでございます。そうそう、ところで。
あなた、見ていらっしゃるわね。
恥辱を味わわされたあの日以来、私には醜聞が付き纏うようになりました。どうやら、メアリーはあちこちで根も葉もないことを言いふらしているようでございます。私の気質を知っている方々はもちろん、そのような誹りに耳を貸すことはありませんでしたが、噂というのは砂粒よりも軽いようで、軽く息を吹きかけただけでどこまでも飛んで行ってしまうのです。
聞いたところによれば、私はメアリーの許嫁を誑かしたのだとか。この私が?婚約者がいる身でありながら?このような荒唐無稽な話を、よくもまあ容易く信じられるものですわね。
と思えば、私、今度は当てつけにメアリーのドレスにわざとワインをこぼしたようでございます。これに至っては、その現場を見たと証言する方々が出てくる始末。メアリーたら、そこまでなさいますの?少々性質が悪いのではなくて?
婚約破棄から二月は経とうとしていて、その間一度たりとも彼女には会っていないのですけれどね。まったく、いつになったら飽きてくださるのやら。
メアリーはほとぼりが冷めそうになる度に新しい噂の種をでっち上げているのだとか。おかげで私はどこへ行こうにも人を小馬鹿にしたような視線に曝されるようになりました。以前は私の美貌を褒めそやして媚びへつらっていた方々に突然牙を剥かれるのです。あまりに軽薄ではありませんこと?むしろ羨ましいほどですわ。
何も言うまいと決めた以上、余計な愛想を振りまいたり、反対にあからさまに態度を悪くしたりということはしないようにしておりましたが、さすがの私にもこういった生活は堪えました。きっとそのせいなのでしょう、私の中で徐々に、メアリーに復讐してやりたいという気持ちが芽生えてまいりましたのは。
ええ、わかっております。貴族たるもの、そのような醜い心持でいて良いはずがありません。けれど、どうしようもありませんわね。先に仕掛けたのはあちらのほうなのですから。
さて、それでも私、復讐には縁も所縁もない人生を歩んでまいりましたので、一体どのようにしてメアリーに後悔させてさしあげることができるのやら、見当もつかないのでございます。とはいえ、悩んでいても仕方がありませんので、醜聞を避けることも兼ね、町を離れて叔父様を訪ねることにいたしました。お父様から、叔父様はかなり賢いと聞いたことがあるのです。これは助言を仰ぐしかありません、そうでしょう?
訪問の旨を手紙で伝えたところ、叔父様は大層喜んでくださって、好きなだけ滞在して良いとまでおっしゃってくださいました。例の件については叔父様の耳にも届いていたはずなのですが、そのことには一言も触れないようにしてくださったようでございます。手紙を読み終えたときは、思わず安堵のため息を漏らしました。
私は早速荷物をまとめ、町を離れました。さようなら、メアリー!短いお別れになるでしょうが、どうか寂しがらないでくださいね。それから侯爵、願わくは私が戻るまでに目を覚ましてくださいますように。
まあ…あなた、きっとせっかくの外泊にまでついていらっしゃるおつもりでしょう。構いませんけれど。
叔父様のお屋敷がある町は、想像していたよりも閑散としておりました。普通はこんなものなのかしら。思えば、私の暮らす街が賑やかすぎる気もしますわね。とにかく、そこはとても静かなところでした。きっと下卑た噂話とも無縁なのでしょう。
ほとんど会ったことがないのにも係わらず、叔父様とその奥様はとても温かく私を迎え入れてくださいました。叔父様は手紙の文面から感じ取った通りで、穏やかで人当たりの良い方でいらっしゃいます。お父様が賢いと言っていたのは、別の人のことだったかもしれないと思ったほどです。奥様は大変お綺麗な方で、私が着いてすぐ荷物やら旅の疲れやらを気にかけてくださったので、面倒見の良さそうな感じがいたしました。私には到底真似できませんわ。
叔父様のお屋敷に来てから数日が経過しましたが、私はまだメアリーのことについて叔父様に話さないでおりました。というのは、奥様の前でそういう話をするのは気が引けたからでございます。人間に醜い心などあるはずがないと思っていらっしゃるように見えるんですもの。ですがこの日は朝から外出なさるということでしたので、この機会にと思い、私は叔父様に件のことを相談することにいたしました。するとどうでしょう、私が湧き上がる怒りを必死に抑えながら話すのを一度も止めることなく聞いていた叔父様は、話が終わった途端にこうおっしゃったのです。
婚約するのが良いでしょう、シャーロット。
私、思わず唖然としてしまいましたわ。復讐のことはどこへやら、それに婚約破棄されたばかりの傷心の乙女―もちろん、冗談ですけれど―に、別の方との婚約を勧めるなんて!そもそも、そう簡単に素敵な殿方と婚約できたら苦労はいたしません。誰でも良いというわけではないのです、好みの上でも、体裁の上でも。そのようなことを遠回しに申し上げましたところ、叔父様は、私にぴったりの殿方がいるのだと、万事任せてくれて構わないと請け負ってくださいました。何せ、私は可愛い姪なのだから、と。あらあら、嬉しい!
それに付け加えておっしゃることには、こういった場合には、ああだこうだと策を弄するよりも、あちらのお遊びを尻目に幸福を掴んでしまうほうが余程復讐になるのだそう。確かに、それにも一理あるように思われました。私は完全に納得したとは言い難かったのですが、ひとまず叔父様の提案に従うことにいたしました。叔父様は早速手筈を整える、と爛々と目を輝かせていらっしゃいました。どうしてそんなに楽しそうなのか、私には理解できなかったのですが。
それから数日、とうとうお見合いの日がやって参りました。例の殿方はお屋敷までお越しになってくださるとのことでしたので、このお見合いについてすでに叔父様から聞かされていた奥様に手伝っていただきながら、私はひたすら身づくろいばかりしていました。他のことは何も手につかなかったのです。初めこそ気が進みませんでしたが、いざお相手の方と対面するとなると、やはり気持ちは逸るもの。一体どんな方なのでしょう?叔父様が仲介してくださるのですから、決しておかしな方ではないのでしょうけれど。
お相手の方の馬車が到着したようでございます。余裕をもって支度を進めていたはずでしたのに!降りていく前に、私はもう一度鏡の中の自分を見つめ直しました。まあ、悪くないコンディションですわね。奥様の急かす声にはっとして、私は慌てて部屋を出て行きました。
縁談は叔父様自慢の庭園で行うことになっておりました。その日は春の優しい陽光が降り注いでおり、お外で何かをするにはぴったりのお天気でした。私は高鳴る心臓を努めて落ち着かせようとしながら、婚約者になるはずの殿方が待つ庭園へと出て行きました。
前言撤回、ですわ。どの部分かというと、その殿方がおかしな方であるはずがない、というところですけれど。テラスを見やった瞬間、私は思わず自分の目を疑いました。そこに座っていらしたのは、冷徹で傲慢だとまことしやかに囁かれているあのアーダコダ辺境伯だったのですから!誇張などせずとも、この御方の良い噂など一つたりとも聞いたことがございません。音を立てて食器を置いた召使は即刻クビ、誰かと目が合えば必ず睨み返す、世辞の一つも言いやしない…とか、私もいちいち覚えていませんけれど、とにかくこの殿方に纏わる話といったらそのようなことばかりなのです。私は顔が引きつるのを感じながら、ちらりと叔父様のほうを見やり、そして気付きました。まあ、悪いお顔!
嵌められた、という気がいたします。とても。だけどもう手遅れのようで、叔父様は邪魔をしては悪いから、と言ってそそくさとお屋敷の中に戻ってしまわれました。私は動揺をなるべく気取られないようにしながら、辺境伯の正面に座りました。気まずい、というのはこういうときに使う言葉なのでしょう。しかし淑女たる者、このような状況でも失礼な態度を取るわけには参りません。それに私、このときにはもう覚悟を決めておりました。この方と幸せを掴み、メアリーや侯爵、ついでに叔父様を見返してみせる、と。ええ、ご多分に漏れず、睨みつけられましたわ。ですが、それが何だというのでしょう?このシャーロット、人に睨まれたくらいで気に病むほど柔らな性格はしておりません。勝負でございますわ、アーダコダ辺境伯。必ず、私と幸せになっていただきますわよ。
完敗でございます。完敗でございますわ!寡黙にも限度がありませんこと?私が熱心に話しかけても、ろくに返事をしてくださらないのです。何とか聞き出したところによれば、叔父様は彼の御父上の古い友人で、御父上が亡くなってからは会うこともなかったのにも係わらず、突然この縁談を持ち掛けてきたそう。これは怪しいと思って、見返りに何を要求されたのかと尋ねると、辺境伯は黙ってしまわれました。否定しないということは、何かはあったということ。やはり、私は叔父様が利益を貪るための生贄…失礼、交渉材料にされてしまったようでございます。
それに、どうやらもう婚約は決まっているようなのです。私はまず会ってみるということだけを了承したつもりだったのですけれど。まあ、こんな女は願い下げだ、なんて言われるよりはましでしょうか。何せ私、絶対に結婚までこぎつけるつもりでございますから。
こうなった以上は、とにかく仲を深めていく他ありません。私は半ば強引に翌日に会う約束を取り付けました。強引に、とは言いましたが、辺境伯も嫌がる素振りを見せたわけではございませんでした。彼はしばらく沈黙すると、昼頃に迎えを寄越そう、とだけおっしゃいました。おそらく…いえ、きっと…いえ、あるいは、悪くない出だしなのでしょう。そうでございますわよね?
辺境伯が帰られた後、私はわざわざ叔父様の部屋まで行って、その約束のことをさも嬉しそうに話しました。随分面食らっていらっしゃいましたわね。危うく笑い出してしまうところでしたわ。それにしても、叔父様の表情管理の見事なこと!叔父様はすぐに穏やかな笑顔を浮かべ、優しく私の話に相槌を打ち始めました。お父様の言っていた意味が、ようやくわかった気がします。
奥様にも同じ話をしてみたところ、奥様は心から喜んでくださっているように見えました。とんでもない演技派なのか、本当に純粋な方なのか、私には見分けることができません。まあ、わざわざ悪いように捉える必要もありませんわね。私と奥様は明日どんなことが起きるだろうか、ひょっとしたらお優しい方かも、いやいや、案外大胆な方かも、などというおしゃべりに花を咲かせ、ただの想像だというのに、最後には二人してすっかり興奮しきっておりました。私ったら、浮ついている場合ではないというのに。
翌日、すっかり支度を整えて待っておりますと、窓からお迎えの馬車が到着するのが見えました。私は呼ばれるまでもなく階下に降りていき、叔父様と奥様に挨拶をしてから玄関を出て行きました。御者の方が馬車の扉を開けて待っていてくださったのですが、驚いたことに、中に辺境伯の姿はございませんでした。確かに、迎えに行こう、ではなくて、迎えを寄越そう、とおっしゃっていましたわね。そう思い直し、私は訝るような表情をしないようにして微笑み、馬車に乗り込みました。ひょっとしたら、お屋敷に招いてくださるのかも。そんな冗談で自分を励ましながら。
まあ、案の定着いた先は辺境伯邸だったのですけれどね。召使の方がお出迎えしてくださって、その方についていきながら、私はその大きなお屋敷を圧倒されたように眺めておりました。ナンヤカーヤ侯爵邸と同じくらい…いえ、ひょっとしたらそれ以上かもしれませんが、とにかく感嘆してしまうほど立派な建物なのです。辺境伯は召使を除けばお一人でここに暮らしていらっしゃったはず。寂しくはないのかしら?そんな考えが、ふと頭をよぎりました。
私は広々とした応接間に通されました。私の姿を目にすると、辺境伯はどこかぎこちなく立ち上がり、私の手を取ってそこにそっと口づけなさいました。私たちは向かい合って腰を下ろしました。それから、驚くことでもないのですが、長い沈黙が訪れました。紅茶が運ばれてきましたが、私はそれにしばらく手がつけられませんでした。というのは、彼が食器の音が鳴るのをひどく嫌うというのを思い出したからでございますが。実際、辺境伯はほとんど音を立てずにティーカップを扱われましたから、なおのこと委縮してしまうのも無理はなかったでしょう。
私が紅茶を飲まないでいるのに彼が気付いていたのかどうかは定かではありませんが、そのことを指摘しようともなさらないのにはさすがに呆れてしまいました。婚約者というだけで、結局は他人に過ぎないとでも思っていらっしゃるのかしら。どこか他所に出かけるほうが、こんな風に気詰まりしないで済むんじゃありませんの?何度そう言ってしまおうと思ったことでしょう。まさか、私が話し始めるのを待っていらっしゃるわけでもあるまいし。
私はすっかり退屈してしまって、いよいよ紅茶に手をつけることにいたしました。細心の注意を払ってカップを持ち上げ、口元に運ぶ。その動作は、きっとひどくぎくしゃくして見えたものでしょう。紅茶の香り高さはうっとりさせられるほどで、熱いうちに飲んでおくべきだったと心の中で涙を流しました。ちょっと大袈裟でしたわね。私は手に取ったとき以上の慎重さでカップを受け皿の上に置きました。ふと目を上げると、辺境伯にじっと見つめられている―というか、もしかしたら睨まれているのでしょうか―ではありませんか。私は思わず身を固くしました。彼は用心に用心を重ねるように、ゆっくりと口を開きました。
紅茶は好きか?
私が紅茶に手をつけるのをかなり躊躇っていたことには気が付いていらっしゃったようでございます。それとも、あまりにも私が慎重だったので、我慢して飲んでいるように見えたのでしょうか。私は愛想良く頷きました。すると辺境伯も小さく頷き、そして今度は私の名を呟くように口になさいました。また何か言おうとなさっているのかと思って待ってみましたが、続く言葉は何もありませんでした。そこで今度は私のほうからこう尋ねました。
お時間があるときは何をしていらっしゃるの、辺境伯?
彼はまるで質問の意味をじっくり吟味するかのように押し黙り、私を見つめていらっしゃいます。気のせいだと思いたくても、やはり睨まれているような感覚が拭いきれず、とうとう私は目を逸らし、気に障ったのかと尋ねてしまいました。驚いたことに、辺境伯は瞬発的にそれを否定なさいました。言葉を理解するのに時間がかかる方、というわけではないことがはっきりしましたわね。続けて彼はおっしゃいました。
私に興味があるのか?
何ですの、その質問?…と言いたいのはやまやまでしたが、私は諾い、婚約者ですもの、と付け加えました。辺境伯はそうだな、としかつめらしく呟くと、また用心深くなりながら、食器を集めているのだとおっしゃいました。なるほど、食器を乱雑に扱われるのを嫌がるわけでございます。
そのとき、私、ピンときましたわ。どうやら睨んでいるつもりはないようですし、食器の件も完全なる理不尽というわけではなかったのですから、この方にまつわる噂というのは、きっと勘違いから生じたものなのだ、と!ええ、そうに違いありません。そうでなくては困る、というのが本音ですけれど。
そこで私は、彼の汚名を返上すべく様々なことを尋ねてみました。そして今回ばかりは、私の希望的観測が当たってくれました。なんと彼の睥睨の謎はその視力の問題で、口数の少なさは彼の御父上に原因があるようなのです。詳しいことは何も教えてくださいませんでしたが、どうやら御父上は随分横柄な方だったようでございます。御母上は物心がつく前にお亡くなりになったそうですから、きっとろくな愛情を受けてこなかったのでしょう。
となると、やはりこのアーダコダ辺境伯、悪い方ではないのではありませんこと?努力次第で、少なくとも私には心を開いてくださるようになるのでは?そう思うと、俄然やる気がみなぎって参りました。目標変更ですわ。幸せになるだけでは不十分でございます。私、必ずやこの方の悪い噂を払拭し、誰もが羨む夫婦となってみせます。ええ、淑女に二言はありませんことよ。
それからは格闘の日々でした。毎日のように会う約束をし、辺境伯から話を聞き出せるように努め、時には一緒に外出しに行きました。大変でしたのよ?だんだんと打ち解けてきていたと思っていましたのに、出かけるとなるとちっとも譲ろうとしてくださらなかったのですから。だんまりですのよ、良い大人が。私の燃え上がるような復讐心がなければ、きっとこの壁は乗り越えられませんでしたわね。
必死の説得の結果叶った初めてのお出かけでは、彼の眼鏡を調達することにいたしました。近視のせいで目つきが悪いのなら、よく見えるようになれば少しは穏やかな顔つきになるかもしれませんもの。まあ、眼鏡をしても染みついた癖はなかなか抜けず、怖い顔のままだったのですけれど。そんな顔をしないでも鮮明に見えるはずなのだから、目に力を入れるのはおよしになって、ということを何度かお話しした甲斐あってか、少し目つきが和らいだような気もいたします。それに、辺境伯は結構眼鏡がお似合いになりますのよ。何だかんだ言って男前ですし。
ああ、それから、私はもう彼を辺境伯とは呼ばなくなっておりました。バジルと呼んでくれないか、と彼が言ったときにはつい驚いてしまいましたけれど、婚約者ですものね。私も妙によそよそしい関係から一歩先に行きたいと思っていましたから、彼の決死のお願い―まさにそんな感じで切り出されました―を私は喜んで聞き入れました。そして何より、彼から私に歩み寄ってくれたことを嬉しく思いました。
眼鏡をつけるようになってからは、バジルは私と出かけるのをあまり渋らないようになりました。すでに一度出かけたというのも理由の一つだったのでしょうけれど、きっと周囲がよく見えるようになったことが大きいのだと思います。二人で街中を歩いていると、人々の視線が気になることもありました。だけどその度に私は彼と仲睦まじく見えるよう振舞いました。…振舞った、などと言いましたけれど、本当は心から楽しんでおりましたの。嫌ですわね、何に対して意地を張っているのやら。
ところで、あなた、そうどこにでも姿を見せられると、何だかプライバシーが侵害されているような気分になるのですけれど。言っても無駄ね!
叔父様のところに滞在してしばらくになりますが、私としたことが、お父様とお母様にお手紙を出すのをすっかり忘れておりましたわ。そう、婚約の話をお伝えしていなかったのです。そのことに気が付いたのは、お母様からの便りが届いたときでした。その中でお母様はバジルとの関係性をそれとなく尋ねてきていました。叔父様のせいとはいえ、何だか裏切ってしまったかのような気分でございます。
お父様からの伝言は何一つとして書かれていませんでした。それもそのはず、お父様はすっかりナンヤカーヤ侯爵の味方をしていて、私の言い分など一つも聞き入れてくださらなかったのですから。きっとまだ怒っていらっしゃるのね。
私はさっそく返事を書こうと筆を執りましたが、そのときふとこんな考えが浮かび上がってきました。バジルは私をどう思っているのかしら、と。あの一件は随分な騒ぎになってしまったので、彼の耳にも私の醜聞は届いていたはずです。私が彼の噂を真実でないと思っていても、彼が同じように私のことを信じてくれているとは限らないではありませんか。
私はひどく不安になり、いつもの迎えの馬車を待たずにバジルに会いに行きました。彼は嫌な顔一つせず私を迎え入れてくれました。そう思ったのは、眼鏡の奥で彼が穏やかな目をするようになってきたからかもしれません。話が逸れましたわね。
私はバジルにお母様からの手紙のことを話し、婚約の件を伝えても良いかと尋ねました。当然彼は、何故そんなことを聞くのか、と言いました。私は今朝生じた不安について洗いざらい話しました。思えば、私が彼に打ち明け話をするのはこれが初めてのことでした。これまで彼は何も聞こうとしなかったのです。
私の話を聞き終えると、バジルは少しの間黙って考えを巡らせていました。それから言葉を選ぶように、ぽつりぽつりと語り出しました。
シャーロット、確かに私はそのことを耳にしていた。だがそれは、信じる、信じないという範疇にはなかった。あなたが赤の他人だったからだ。とはいえ、今でもそのことについて一考する価値はない…と思う。人間は変わらないものだ。様々な要素が重なった結果、変わったように見えるだけなんだ。だが、私は…そう見えるまま、あなたを見たい。たとえすべてが真実だったとしても、今のあなたは、私をまっすぐに想ってくれているように見える。私にはそれで充分だ。私が何かを信じるとすれば、それは私と向き合ってくれるあなたの姿だ。…私の言うことが、伝わっていると良いのだが。
このときまで、私は知りませんでした。バジルがこんなにも真摯な言葉を投げかけてくれる人だとは。勝手に涙が溢れ出してきて、私ははっとして彼から顔を逸らしました。彼は私を傷つけてしまったものと思ったようでした。私は涙を隠しながら、感謝と喜びを素直に言葉にしました。ぎこちなく私の頬に触れたバジルの手は温かくて、この瞬間、私は幸福の意味を知ったのです。
これはちょっとした笑い話なのですが、私が落ち着いたときバジルは、私に謝らねばならないことがある、と言い出しました。私が何事かと身構えていると、彼は懺悔でもするような調子でこう言ったのです。
私はあなたを食器と交換してしまったのだ。
一体何のことやら。私がぽかんとしていると、彼は叔父様との交渉のことを話し出しました。要するに、彼のコレクションの一つだった、どこぞの名匠が作った希少な食器を譲ってもらう代わりに、叔父様は私を婚約者として差し出した、ということだったようでございます。彼は私を物のように扱ったことをずっと気に病んでいたのです。私がそんなことは気にしない、と伝えると、彼は心底安堵したようでした。お可愛い方。
ですが気になったのは、どうして大切に飾っていたその食器を手放してまで婚約者を必要としていたのか、ということでした。私がそれを尋ねると、彼はかなり躊躇ってから、小さな声で答えました。このお屋敷に一人なのは寂しかったのだ、と。あら、お可愛い。しかしそんなことはおくびにも出さずにいたので、叔父様に婚約のことを持ち出されたときは、ついぎくりとしたそう。叔父様は彼が実は寂しがり屋だということを見抜いていたということでしょうか。私に騙すような仕打ちをした以上は善意あっての行動だったとは考え難いですが、その賢さには感服いたしますわね。
私が婚約の件を手紙で伝えると、案の定と言うべきでしょうか、お父様の字で、すぐに帰って来るように、という旨の手紙が返って来ました。私を信じずに侯爵の味方をしたお父様の言うことなど、知ったことではありません。私は無視してしまおうと思ったのですが、そのことを話すと、バジルが顔色を変えて、言いつけ通りにしたほうが良い、と言うのです。
私が気乗りしないでいると、彼はほとんど懇願するように、お父様の元に戻るよう私に説得を試み始めました。そんな風にされては、私としても無下にするわけには参りません。そこで私は、彼についてきてほしいと頼むことにいたしました。婚約者ですもの、両親に紹介しないといけませんものね。バジルはかなり渋りましたが、ついてきてくれないなら戻らない、と私が頑として聞こうとしないので、とうとう同行を承諾してくれました。
私は叔父様と奥様に屋敷に戻ることを伝え、翌日、バジルの馬車で両親の元へ帰りました。彼を連れて戻るとは思わなかったのか、お父様は凍り付いたような表情で私たちと対面なさいました。お母様はというと、どちらかというと嬉しそうな顔をしていらっしゃいました。私、お母様なら祝福してくださると信じていましたわ。
それからの話し合いの退屈なことといったら!話し合いとも呼べないようなものでした。
私、もう決めましたの。
しかし、シャーロット…。
お父様、もう決めましたのよ。
しかし、シャーロット…。
お母様もバジルもどうしたものかとおろおろするばかりで、とても力になってくれそうにありません。バジルは何度も退席しようとしました。話が進まないのは彼が同席しているせいだと思っていたのでしょう。ですが私にはお父様が声を荒げないでいるのは彼がいるおかげだとわかっておりましたので、彼に繰り返しこの場に残るようお願いしました。相当居心地が悪かったでしょうに、悪いことをしましたわね。
しばらくこの堂々巡りが続いた後、ようやくお母様が助け舟を出してくださいました。シャーロットの望むようにしてあげてはどうでしょう、と。するとお父様は、静かに燃えていた怒りの矛先をお母様に向け始めたのです。何だか覚えていませんけれど、女にはわからない、だとか、上流階級としてどうこう、だとか、そんなようなことをおっしゃるのです。大真面目に。信じられませんわ!
私は憤慨して席を立ち、お父様に止められるのも聞かずに部屋を出て行きました。バジルが追って来るかと思いましたが、いくら待っても彼が出てくる気配はありません。ああいう退席の仕方をしてしまった以上、私は部屋に戻ろうにも戻れず、彼がどうしているのかとひたすらに気を揉みました。まさか、二人の口論を黙って聞いているのかしら?
私はふてくされながら自室に引き上げました。バジルが出てきたらすぐに彼のお屋敷に戻ってしまおうと思いましたが、荷解きをしていなかったのでする支度もありません。随分長いこと待っていたような気がしますが、時計の針はあまり進んだようには見えませんでした。やがてドアを叩く音が聞こえて、お母様が顔を覗かせました。とても晴れやかな顔をしていらっしゃいます。お母様はふくれっ面でベッドに腰掛けていた私に歩み寄ると、満面の笑みでこう囁きました。
あの人が婚約を認めてくださったわよ、シャーロット!
私は唖然として、それからすぐにお母様に負けないくらいの笑みをこぼしました。一体どうやって説得したのかと尋ねると、お母様はバジルのおかげだと言うのです。何でも、彼は私との出会いを懇切丁寧に、そして正直に告白し、そこから確かに芽生えた愛情についてはひどく熱心に語ってくれたそう。お母様は彼を素敵な方だと言って微笑んでくださいました。まさかわかっていただけると思っていなかった私は、思わずまた嬉し涙を流してしまいました。いつの間にこうも涙もろくなったのかしら?
お父様は意固地になっていたことを認め、私とバジルに謝罪してくださいました。何だか大袈裟な気もいたしますけれど。お父様が認めてくださらなくても勝手に結婚していただろうということは言わないでおきました。お父様は叔父様のことを少し怒っているように見えました。きっと、今回の件についての含みのある長文の手紙を送りつけることでしょう。
私が早くバジルと一緒になりたいのだと仄めかすと、お母様は随分張り切って、早速式の準備を始めるべきだと主張なさいました。やる気になったお母様を止めることはお父様にもできません。来月までにすっかり手筈を整えてしまうということに、お父様は半ば強引に同意させられたのでした。
私たちの婚約の知らせは街中を駆け巡りました。中には切り替えが早すぎるだの、腹いせに違いないだのと言う方々もいらっしゃいましたが、そういう方々に理解していただく必要はないと割り切ることにいたしました。言わせておけば良いのです。
式の準備は本当に慌ただしく進みました。お父様もお母様も顔が広いので、持てる人脈を総動員してくださいましたが、そうすると私とバジルにできることがほとんどなくなってしまって、何だかおかしな感じがいたしました。そして、あれよあれよという間に準備が整い、私たちは実感の湧かないまま結婚式の当日を迎えました。
式は滞りなく進みました。誓いを立てて私を見つめるバジルの眼差しはとても優しく、彼の元に私を導いてくれた運命には感謝をしてもしきれないと感じました。振り返ると、目に涙を溜めるお母様と、泣くまいとして繰り返し咳払いをするお父様の姿が目に入り、私はこの上ない切なさを覚えました。両親の斜め後ろには、ナンヤカーヤ侯爵とメアリーの姿がありました。いらっしゃらないだろうと思いつつ招待したのですが、お二人の姿を見ると、どういうわけか嬉しさが込み上げて参りました。復讐心から始まったことではありましたが、そんなことどうでも良くなってしまうくらい、私は幸せだったのでございます。
招待していないはずのあなたがいらっしゃることにも、目を瞑って差し上げましょう。
このようにして、私はパンナコタ子爵令嬢の肩書のさらに上からアーダコダ辺境伯夫人の肩書を纏うことになったのです。
事件が起きたのは、披露宴の盛り上がりが最高潮に達していたときでした。
私はそのときバジルと共に、お母様気に入りの管弦楽団が奏でる美しい音色に聞き惚れていて、ダンスホールの入り口付近で起きている異様なざわめきにはまったく気が付いていませんでした。ですがそのざわめきや音楽を突き抜けるようにして、こんな言葉が聞こえてきたのです。
シャーロットがやったんだわ!
驚いて声のしたほうを見やると、噛みつこうとでもするかのように私を睨みつけるメアリーが数人がかりで押さえつけられているのが目に入りました。彼女のドレスや手袋には、ところどころに赤黒い染みのようなものがついています。とてもワインには見えませんでした。私はすぐに人だかりのほうへ向かい、誰に対してというわけでもなく何事かと尋ねました。するとメアリーが押さえられた両手を振り解こうともがきながら絶望的に怒鳴りました。
この人殺し!お兄様を返して!
私は茫然としてメアリーを見つめました。彼女が何の話をしているのかわからなかったし、わかりたくもありませんでした。誰かが息を切らしながら入って来て叫びました。本当にナンヤカーヤ侯爵が刺されて死んでいる、と。私はぞっとして腰を抜かしそうになりました。メアリーが繰り返し私を人殺しだと言い続けています。隣に立つバジルが安心させるように私の手を取り、シャーロットとは披露宴が始まってからずっと一緒にいた、と宣誓するように言いました。何人かが彼に同調しました。いつの間にか音楽は止まっていて、誰もが私たちを見ていました。
それでもメアリーは狂ったように私に対する罵詈雑言を浴びせかけてきています。彼女は、血塗れのドレスを着た私がナンヤカーヤ侯爵が亡くなっていた部屋から出て来るのを見たのだと言いました。ですが私のドレスは誰がどう見ても純白のままでした。メアリーに対する不信感が募り始めました。彼女は何を言われても自分の主張を崩そうとはしませんでした。ついに彼女は、誰かが呼んだ憲兵に連行されていきました。そのときも、彼女は泣き叫びながら私を睨み続けていました。
披露宴は当然そのままお開きになりました。
おかげで私とバジルは、言いようのない重苦しさの中初夜を迎えることになりました。誰と話し合ったわけでもありませんが、皆メアリーがナンヤカーヤ侯爵を殺めたのだと結論付けているようでしたし、私もそう考える他ないと感じていました。
だけど、どうしてメアリーはそんなことをしたのでしょう?どうしてそこまでして私を貶めたいのでしょう?侯爵を殺めたのが私だとするのには、いくら何でも無理がありました。ひょっとして、彼女は狂ってしまったのでしょうか?
考えを巡らせているうちに、最もおぞましい可能性が脳裏をよぎりました。私は静かにベッドから身を起こしました。手が冷えていくような感覚がして、慌てて両手を擦り合わせましたが、何の足しにもなりません。私はベッドを抜け出し、一歩一歩踏みしめるようにして窓辺に近づいていきました。その間、同じ考えがひたすら私の頭の中を駆け巡っていました。
もし、メアリーが狂っていなかったのだとしたら?もし、彼女が見たすべてが真実だったとしたら?
私は手の震えを感じながら、恐る恐るカーテンをわずかに開きました。隙間からはちょうど一本の木が見えています。そしてその傍らに、確かに誰かが立っているのです。示し合わせたかのように月光が差し込んできました。私が今日着ていたのと同じドレス。すっかり黒くなった染み。こちらを見上げる、瓜二つの笑顔。
生きていたのね、シャーロット。あなたは、私の幻覚ではなかったのね…。
私はすぐにカーテンを閉めました。乱れる呼吸を整えようとしても上手くいきません。私はその場にへたり込み、一晩中そうしていました。
シャーロットと出会ったのは、私たちがほんの子どもだった時分でした。私は森の奥に住む木こりの娘でした。父と私は細々と暮らしておりました。それ以外の暮らしを知らなかったので、特に不満もありませんでした。ある日私が一人で遊んでいると、木の陰から誰かが飛び出してきて私にぶつかり、私たちは二人とも打った頭を押さえながら尻もちをつきました。相手の顔を見ようと目を上げたときの衝撃は忘れられません。彼女は、シャーロットは、私と瓜二つだったのです。
私たちは茫然としてお互いを見つめていました。きっとその表情もまったく同じだったことでしょう。先に笑い出したのは彼女のほうでした。彼女はさっさと立ち上がり、私に手を差し伸べてくれました。私たちは色々な話をしました。彼女は、服装からして明らかだったことですが、貴族の家に生まれたのだと高飛車に言いました。当時の私には貴族と言われてもピンとこず、大した返事はできなかったのですが、よれよれの服を着た私に賞賛されなかったことで彼女は気を悪くしたようでした。それでも彼女は毎日のように私に会いに来てくれました。友達のいなかった私にはそれがすごく嬉しかったのを覚えています。
かなり親しくなった頃でした。その日、彼女は何か荷物を抱えてやってきました。中身を聞くと、彼女は贈り物だと言って、開けてみて、と私を急かしました。それは彼女のドレスの一つでした。彼女は言いました。
ナターシャ、これは特別よ。私はこういうドレスをたくさん持っているから良いの。それに、あなたの服はぼろぼろだもの。
私は感激して、繰り返し彼女に感謝しました。彼女は満足げな顔をしていました。だけど私はそれを汚してしまうのが怖くて、その日着てみたきり、それは父に見つからない場所に隠してしまいました。
また別の日、彼女がこんなことを提案してきました。彼女の代わりに彼女の屋敷に帰ってみる、というものでした。私はそれを断りました。ご両親にばれてしまったらと思うと気が滅入ったのです。ですが彼女は譲りませんでした。危なくなったら絶対に助けてあげるから、と。彼女は私があのドレスを着ないことにひどくがっかりしていて、私はこれ以上彼女を失望させたくありませんでした。だから私は彼女の提案に従うことにしました。
そうと決まると、彼女は私をじっくりと眺めてから言いました。そんな髪じゃだめよ、と。彼女は私を近くの川まで連れていき、冷たい水で私の髪を洗い始めました。良い天気だからすぐ乾くわ、なんて、よくもそんなことを言えるものだと思ったものです。日向で待っていると、確かに髪はあっという間に乾きましたが。彼女は私の髪を熱心に梳き、それが終わると私をもう一度じっと眺め、満足したように頷きました。私はあのドレスに着替え、怯えながら彼女の屋敷に入っていきました。
彼女は私に、彼女の部屋にある髪飾りを取って来るように言いつけていました。部屋の場所は教えてもらっていたので、私はなるべく人に会いませんようにと心の中で願いながらそこを目指しました。その願いは叶いませんでした。部屋まであと少しのところで、綺麗な女の人に出くわしたのです。彼女のお母さんでした。もう駄目だと思ったとき、その人は言いました。
あら、シャーロット。今日はそのドレスだったかしら?
私は一瞬呆気に取られてしまいました。どうやら気付いていないようです。顔がそっくりなのだから無理もありませんわね。私は突然、ここでぼろを出すわけにはいかない、という気になりました。私はとっさにシャーロットの癖である、右手で髪を耳にかける仕草を真似て、彼女らしく自信たっぷりに、着替えたの、と答えました。夫人はにっこりと笑って、少しも疑う様子を見せずに行ってしまいました。その後は何事もなく、私は彼女に言われた通り、髪飾りを持って森に戻っていきました。彼女はいたずらの成功を喜び、私にその髪飾りをくれました。それ以来、私は時々彼女の屋敷に送り出されるようになりましたが、別人だと気付かれることは一度もございませんでした。
彼女との日々が終わりを迎えたのは突然のことでした。私たちはいつものように森で遊んでいました。あれは事故でした。彼女が木の根に躓いて転び、その拍子に大きな石に頭を打ったのです。彼女は動きませんでした。石には血が付いていました。私は、彼女が死んだのだと思いました。恐怖に囚われると共に、命の灯が消えるあっけなさに心を奪われたのも確かでございます。あれは事故でした。事件にしてしまったのは、幼い私の愚かさでした。
私は彼女のご両親を呼びに行こうとして、ふと思い止まりました。彼女が死んだなら、私が彼女になれるかもしれないと思ったのです。着て帰るドレスはありました。髪も、彼女が毎日梳いてくれたので綺麗でした。今まで何度彼女のふりをしても、気付かれなかったじゃない。私の醜い心が、そう囁きかけてきました。私は茫然としながら彼女を川まで引きずっていきました。彼女の遺体を捨ててしまわないといけないのはわかっていました。あんな状況なのに狡賢い自分が恐ろしくも、頼もしくもありました。私は彼女のドレスを脱がせました。だけど可哀想になって、私の着ていたぼろぼろの服を着せました。その間、彼女は息をしているように見えなかったし、目覚めもしなかったのです。軽い彼女の身体を、少し流れの速いあの川はすぐに連れ去ってくれました。
私は彼女のくれたドレスを纏い、髪飾りもつけました。ドレスを汚さないようにと、これまで以上に慎重になって森を歩きました。屋敷まで辿り着くと、召使の一人が私に気付き、笑いかけながら言いました。
おかえりなさいませ、シャーロットお嬢様。
私はその日からシャーロットになったのです。死んだのは、ナターシャのはずでした。
だけど、あなたは生きていた。
そうと知って以来、私は平穏に過ごすことができなくなってしまいました。バジルは真っ先に私の異変に気付いてくれましたが、とても真実を話す気にはなれません。彼を心配させないよう、何とか普段通りに振舞っているつもりですが、彼はどう思っているのでしょう?
メアリーは拘留されることはなかったそうです。その代わり、彼女は精神病院なるところに入れられていると聞きました。彼女にすべてを打ち明けるべきでしょうか?いえ、きっと彼女は私の話には耳を貸してくださらないわね。
あの結婚式の夜、最後にシャーロットを見てから数か月が経ちました。そう、彼女は私の前に姿を現さなくなっていたのです。やっぱり彼女は幻影で、メアリーも本当に狂っていただけなのかもしれません。最早何もわかりません。だけど、今日はそれもどうでも良いと思えてしまうくらい嬉しいことがありました。バジルの子を授かったとわかったのです。
だけどこのことを彼に伝えるのは明日までお預けにしなければなりません。彼は離れた町で開催されているオークションに参加していて、今日は帰って来ないのです。私もついていく予定だったのですが、気分が優れなかったので断念しました。彼は出かける前、オークションを諦めようとするほど心配していましたから、その原因が嬉しいものと知ったら、一層喜んでくれるに違いありません。
夜、私は領地を一人で散歩することにいたしました。こんなにも晴れやかな気分になったのは久しぶりでした。私は森の小道を抜けた先にある湖まで歩いていきました。それはすごく綺麗な湖で、月が出る夜には一際幻想的になるのです。今日は満月で雲一つありませんから、きっと美しい光景が見られることでしょう。
もう少しで湖にたどり着くというときでした。背後から、枝を踏みしめる音が聞こえてきたのは。気のせいだと思いましたが、私の心はあっという間に恐怖に呑まれてしまいました。シャーロットが来たのかもしれない。そう考えずにはいられませんでした。
私は一気に振り返りました。そこに立っていたのは、なんとメアリーでございます。彼女はまだ精神病院から出ていないはずでした。私は唖然として彼女を見つめました。そして気付いたのです、彼女がナイフを手にしているということに。悲鳴が口から飛び出しました。彼女はゆっくりとこちらに近づいてきています。私は後退り、後退り、気付けば水辺のぎりぎりのところに立たされていました。背水の陣ですわ。…なんて考えましたが、残念ながら私はそれ以前に無力でした。
死ぬのだと思うと、涙よりも笑いが込み上げて来ました。愚かな選択をした私に、罰が当たったのです。幸せの絶頂に到達させておいて、それを嘲笑うように取り上げる。運命とは、残酷なものですわね。メアリーはもう目の前に立っています。血走った眼をして、肩で息をしながら。私は、何というわけもなく言いました。
私、シャーロットじゃないの。
彼女は物凄い形相で私を睨みつけました。ふざけていると思ったのでしょうね。
私はナターシャ。ナターシャなのよ、メアリー。
そのとき、お腹が燃えるように熱くなったのを感じました。赤。赤。赤。メアリーは自分が何をしたのかわからないかのように私の赤を見つめています。力が抜けていき、水面に倒れ込む寸前に、私はシャーロットの姿を見ました。月明かりの下に浮かび上がるように、私たちを眺めているのです。表情まではわかりませんでした。
大きな音がしました。私が湖に落ちた音だと気付いたのは、数秒経ってからでした。死を傍らに感じながら、私はバジルのことを考えています。バジル、あなたは私がナターシャなのだと知っても私を愛してくれるでしょうか。あの日のあの言葉は、絶対に揺るがないのでしょうか。帰って来たときあなたをシャーロットが待っていたら、彼女を代わりに愛してくださるのでしょうか。そうだと良いと、心から思います。彼女の居場所を奪ってしまったのは私なのだから。私は罰を受けて当然なのだから。彼女は愛を受けて当然なのだから。
消えてしまったことも知られずにいたシャーロット。あなたが戻ってきたことを知っているのは、私だけなのね。ああ、叶うなら、あなたに言ってあげたかった。
おかえりなさい、シャーロット。
ここまでたどりついてくださって皆さまに格別の感謝を。
そうでない皆さまにそこそこの感謝を。
ところで、誰が悪役令嬢だったのでしょうね