春と修羅
昨日、賢治の「マグノリアの木」を書いている時、「春と修羅」のことが思い浮かんだ。以前にブログに書いたことがあると思って調べたら、見つかったので、それを載せてみたい。ちなみに、当時は「ですます調」で書いていた。
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宮沢賢治の「春と修羅」は生前に出版された唯一の詩集で、1924年の刊行です。
序を含めると七十編の詩(彼は心象スケッチと呼んでいます)が収められており、あの「永訣の朝」もそのひとつです。
詩集「春と修羅」の中には、「春と修羅(mental sketch modified) 」という本のタイトルと同名の一篇があります。その詩は出版二年前の二十六歳の時に書かれたもので、一見難しそうなのですが、読んでみると、びんびんと感じてしまう詩です。
賢治はその年、二十四歳の妹トシを失い、吠えたいほどの悲しみの中にいました。
心を鬼にしたくなるような啼哭の哀惜には、水のような言葉では、物足りないですからね。
この詩を読んで、こういう経験した人には、あああ、と感じるものがあるはずです。
では、まずは詩を載せてみます。
つきましては、青空文庫からコピーさせていただきました。
くねったそような文字の並べ方や()は、本文のそのままです。
☆ ☆ ☆
心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく
琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路をかぎり
れいろうの天の海には
聖玻璃の風が行き交ひ
ZYPRESSEN 春のいちれつ
くろぐろと光素を吸ひ
その暗い脚並からは
天山の雪の稜さへひかるのに
(かげろふの波と白い偏光)
まことのことばはうしなはれ
雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(玉髄の雲がながれて
どこで啼くその春の鳥)
日輪青くかげろへば
修羅は樹林に交響し
陥りくらむ天の椀から
黒い木の群落が延び
その枝はかなしくしげり
すべて二重の風景を
喪神の森の梢から
ひらめいてとびたつからす
(気層いよいよすみわたり
ひのきもしんと天に立つころ)
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
修羅のなみだはつちにふる)
あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ
☆ ☆ ☆
ひとつひとつの意味はわからなくても、
「おれはひとりの修羅なのだ」という言葉がぐんぐんと響いてきます。
賢治は日蓮宗の信者だったことはよく知られていますが、私は「修羅」を「怒っている男」というように解釈しました。大切な人を失くした時、どうしてそういうことが起こらねばならないのか。神も仏もないとすべてを恨みますよね。この男の心は銅のように固く、蔦のようにぐじゃぐじゃと混乱し、誰にも心を開かず、すべてが悲しくて、すへてを恨んでいます。
しかし、そんな時でも、自然の光は注ぐのです。
いろいろな解釈があると思いますが、
下は私流の解釈です。
☆ ☆ ☆
おれの心はまるで灰色の硬い鋼で、
それはアケビの蔓が雲のでからまったようにぐじゃぐじゃで、
たとえばとげとげの野ばらの藪、腐食した湿地
しかし、誰にも本音を隠している。この悲しみは、誰にもわかるはずがない
(正午を知らせる鐘が鳴り続き、
琥珀色の光が注ぐ時)
苦々しいい怒りがまた新たに湧き上がり、
四月の大気の中、光が当たる土に
おれはを唾を吐いて、歯ぎしりしながら歩いている
おれはひとりの修羅なのだ
(風景は涙で揺れて)
どこまでもちぎれ雲が飛んでいる
玉のように美しい空には
清々しい風が吹いている
春のツィプレッセン(糸杉)が一列に並び
黒々として光を吸い
その暗い並木の間からは
雪山の尖った峰さえ光って見えるのに
(かげろうの波と白い光)
おれは 本当に言いたいことが言えず、上を見れば
空ではちぎれ雲が、飛んでいる
ああ、四月の輝く土の上を
おれはかっかとしながら、歯ぎしりして、おろおろ行き来している
おれはひとりの修羅なのだ
白い玉石のような雲は流れ
どこかで春の鳥が啼いている
太陽が青い影を作れば、
この怒りは樹木と響き合い
水に写る太陽の円形には
黒い木の群落が延びて
その枝影が悲しく茂っている
天と水に写るふたつの風景の中で、
喪に服しているような静かな森の梢から
カラスが突如、飛び立った
(空気はいよいよ澄み渡り
ヒノキの木もしんとして天に向かって立つ正午)
光の草地の中を歩いてくるものがある
なにか人のカタチをしている
防寒着をまとって、おれを見る。おまえは農夫なのか、それとも
おまえには、おれのことがわかっているのか
まばゆい大気の底に
(悲しみは青々と深く沈み
ツイプレッセンは静かに揺れて)
鳥がまた青空を横切り、はっとする
(ののしったのは本心じゃないんだ
怒り狂っていたおれの涙が土に落ちる)
気を静めて、空をあおいで呼吸をすれば
冷たい空気で肺は縮こまる
(この修羅の身体よ、空にちりぢりに散らばれ)
銀杏の梢がまた光り
ツイプレッセンはますます色濃く
雲の光芒が、おれに降り注ぐ
☆ ☆ ☆
私が「春と修羅」を読んでまず思うのは、「宮沢賢治はなんてよい人間なのか」ということです。
世の中にはすばらしい詩がたくさんあります。音がきれいな詩、ストレートに詠ったもの、難解だけれど深いことを言っているものなどなど。
けれど、賢治のこの詩のタイトルは「修羅」ではなく「春と修羅」、「春」がついていて、この詩は読む人に「どんなに悲しくても、光(希望)はある」と語ってくれます。賢治はそのために、出版したいと奔走したのでしょう。
このブログに写真を添えたいので、これを選びました。
ZYPRESSEN (糸杉)のイメージから、この絵が浮かんできたからです。
糸杉というと、ゴッホの糸杉を思い出す人が多いようですが、
私はスイス人画家アルノルト・ベックリン(1827-1901)の描いたこの「死の島」です。(近況ノートに載せました)
「死の島」
1883年、80x150cm、ベルリン
ベックリンはいろんなバージョンで描いていて、1880年作のバーゼルやメトロポリタン美術館にあるのが有名なのですが、色が暗すぎて、マイブログではよく見えないので、この第三バージョンのにしました。
以前に取り上げましたが、
この絵はヨーロッパではとても人気があり、複製を室内に飾る人多いそうです。
かなりこわい感じがしますが、ドイツの人がこれを見ると「癒される」そうです。