後先を考えずに駆けだす
ここ北カリフォルニアでも、朝ドラは見ることができる。6:45pmから始まるので、こちらでは「夕ドラ」なのだが。
今回の「らんまん」はおもしろくて、楽しみにしている。先日、永守徹という若者が突如現れて、まんたろうの借金を肩代わりしてくれた。
それが史実だと知らなかったら、「脚本家の先生、その解決法はないでしょう」と言うところだけれど、このモデルになった人物が実際にいた。
池長猛(1891-1955)という神戸生まれの青年で、後に叔父の養子になり、養父が56歳でなくなった時、莫大な遺産を相続した。
そんな時、「牧野富太郎が海外の研究所に植物標本を売却しようといている」という新聞記事を読み、当時はまだ京都大学の学生だった猛だが、すぐに新聞社に出かけて行って、援助を申し出たということだ。奇特な人がいたものである。
私はドラマを見るまで池長猛の名前すら聞いたことがなかったのだが、彼のことを知った時、すぐに思い出した人がいた。
私は今年の夏、日本を旅行していた。東北新幹線に乗っていた時、座席前のポケットに雑誌がはいっていて、それに宮沢賢治のことが書かれていた。
去年の春亡くなった妹が宮沢賢治が大好きなこともあり、その雑誌がほしかったが、旅ではものをふやしたくないから、ノートにメモした。
「トランクいっぱいの童話や物語を遺して、1933 年、無名の人生を終えた。ところが、翌年、宮沢賢治の全集が出る。この無謀と言うしかない出版を本郷森川町の文圃同書店が引き受けた。書店といっても、売り場三坪の小さな古本屋で、主人の野々上慶一はまだ24歳だった」
と書いてあり、その後に、
「名もないバトンを受け取って、後先考えずに駆け出す。いつだって、こういうタイプが、新しいものの到来を告げる」と続いていた。
この部分が特におもしろく、ひとり笑いながら、過ぎていく風景を眺めていた。東北の空って、こんなに明るかったっけと思いながら。
彼が小さな古本屋の主だというから、「舞いあがれ」のあののんびり口調のやさしい青年をイメージしていたが、うちに帰って調べてみたら、野々上慶一(1909-2004)はただの古本屋のお兄さんではなかった。
貴族院議員の長男として山口県に生まれ、左翼運動の新派として逮捕され、早稲田を中退。父親の出資で店を出し、1934年には、「文学界」の刊行も引き受けている。
かれ自身、著書も多く、中には読みたいと思う本があった。たとえば、「中也ノオト、私と中原中也」など。
友人には小林秀雄、青山二郎がいて、この人なんだか、なにか白州正子さんのニオイがする。
と思って調べてみたら、1999年に、「ユリイカ」という雑誌で、その前年に亡くなった白州正子を追悼して、「烈しさと慈愛ー白州正子の人生と時代」というテーマで、車谷長吉と対談をしていた。やはりつながっていた。
車谷長吉についても、私は名前を知っている程度。
ウィキによると、
1985年「吃りの父が歌った軍歌」(『鹽壺の匙』所収)を『新潮』に発表すると白洲正子から作品を絶賛する私信を受け取る。以後、白洲が死ぬまで目を掛けられ続け「私の生き方を継いで欲しい」と遺言を受けている、と記されている。
そうなんだ。知らないことばっかり。
ここが日本ならすぐにブックオフにいって本を探すだろうけれど、それができないから、ただ外を眺めて、カモミールティを飲む。外は明るいけれど、白く、煙っている。山火事の煙のせいだ。空気が悪いから、外出は慎めと言われている。
ところで話は飛んで、その月刊文芸雑誌「ユリイカ」のことだが、名前は聞いたことがある。
今、ふと思って調べたら、「ユリイカ」とはやはり「Eurica」のことで、「見つけたぞ!」という意味。カリフォルニアにはそういう名前の町があり、「金が見つかった」時にそう名付けられたとそうだ。「ユリイカ」というので、わからなかった。こちらでは、「ユリカ」と発音するから。
そんなわけで、また話がずれてしまった。
でも、「ユリイカ」、「ユリイカ」の連続だったから、いい日だ。