表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/26

   雑草娘娘_06

手前(テメ)ェ! 草苺(ツァオメイ)! なんで逃げんだ!」


 角星(スボシ)が追い掛けてきた。

 そりゃあもう鬼神とまがう恐ろしい形相で。

 人面蜘蛛よりも角星のほうが怖いと、草苺は本気で戦慄した。


「ひぃ……すみません! すみません! 勝手に花結いをしてすみません! 死罪はいやです!」

「ハア? 死罪だあ? ふっざけんなっ話聞け!」

「話せることはなにもないです――――!」


 草苺は華奢な体躯を利用して高く伸びた雑草や木の影を縫って逃げる。逃げる。逃げる。

 逃げ続ける。


「逃げんじゃねえ!」

「ひいっ……!」


 なのに、後ろからの怒鳴り声はやまない。


「ど、どうせ死罪なら……!」


 こうなったら! と草苺は貴妃のいる春薔薇宮へ足を向けた。


「もうどうにでもなれ! いや、どうにでもなりたくない!」


 頭の中は大嵐。

 思考がまとまらない。

 いつもならこういう時に煤が手を貸してくれるのに、彼はまだ姿を現さない。

「申し訳ございません! 失礼いたします!」


 草苺は庭に面した回廊へと飛び込むと、春薔薇宮内へと突っ込んだ。

 白亜の石床を強く踏み叩く。


 真鍮の天井飾りとともに房付きの提燈が吊るされた天井。欄間には瀟洒な透かし彫り。太い柱には蔓薔薇が絡み、素人目にもこだわって作られたと分かる典麗な内装。

 けれど、空気が重く、ところどころ埃を被っていた。生活感が感じられない。人の気配が微塵もない寂れた美麗さが建物全体を包んでいる。

 だからこそ、これ幸いと草苺は貴妃の住まいを堂々と走り抜けられていた。


「男性が貴妃の宮に入っていいの⁉︎」


 下級女官である自分を棚に上げ、草苺はまだ追い掛けてくる角星に文句を吐く。

 横腹が痛い。

 体力的にそろそろ限界だ。


「煤に会えないまま死罪になるの⁉︎  せめて煤老師に最高の花結いができたって伝えるまで死ねない! 煤老師! 老師ー!」


 泣き言を叫び、草苺は見慣れぬ廊下を走る。


「煤老師に会いた――――⁉︎」


 真横から、ぬっ……となにかが這い出てきて悲鳴が詰まる。

 草苺の視界が傾く。

 考える間もなく草苺は身体をなにかに柔らかく抱き締められた。

 見知らぬ部屋に連れ込まれたと理解した時には、後ろから口を塞がれていた。本来ならば恐怖を抱くべき突然の出来事だが、なぜか危機感を感じられない。草苺は抵抗せず、相手の腕の中で荒くなった呼吸を整えた。


「ぁんのちんちくり……じゃねえ! 草苺! どこ行きやがった!」


 戸の両脇についた花頭窓から荒々しい声が入ってくる。すぐそこの廊下に角星がいる。

 ギャアギャアと喚き散らし、ややあって足音は見当違いの方向へと離れて行った。


 完全に、足音も気配も消える。


 口を覆っていた白い手がおろされて、草苺を部屋に連れ込んだ人物が静かに離れた。


「ありが……っ!」


 相手を確認するために振り返り、草苺は視界いっぱいの純白に魅入られた。


 佇んでいたのは陽炎の向こう側に揺蕩う仙人のごとく浮世離れした清らかな麗姿。

 線の細い尊顔は白粉もまぶされていないのに透明感があり、引き摺るほどに長い白髪は月虹の煌めきを宿している。長い睫毛も新雪を積らせているかようで。覆われた瞳だけがどこまでも(あか)い。

 紅玉とは異なる神秘的で芳醇な緋さは、自分の頭につく蛇苺の実に似ていた。


 甘く甘く、じっくりと熟れた蛇苺の緋さ。

 煤が好む、最も美味しい時の蛇苺の緋さ。


 と考えて、こんな仙郷に住んでいてもおかしくはないほどの佳人と自分を一緒にしてはいけないと草苺は己を叱責する。


「庇ってくださって、ありがとうございます」


 草苺は深々と頭を下げた。

 出で立ちからして、位の高い方かもしれない。

 きめ細やかな紗で仕立てた披帛を羽織り、純白の長衫には緻密な鱗に似た刺繍が施されている。銀糸の鱗は明月のような彩光を綾なしていた。


 ふと顔を上げた時、立領で僅かに隠れている相手の喉元に出っ張りを見付けて草苺は相手が男性だと気付いた。しかし、顔付きや細い腰はどちらかといえば女性的。

 宦官かと草苺は心の中で首を捻る。

 それにしては、宦官が身に付けるべき造花がどこにも見当たらない。


「こちらにお仕えする方ですか? わたしは……ええと、迷ってしま、むぐ!」


 取り敢えずなにか言い訳を……と、口を動かした瞬間。顔面ごと、言葉を塞がれた。


「あぶ、っぅぐ! あばばば……!」


 触り心地の良い布が草苺の顔を擦り回す。


「ぷはっ! あ、あの……なにを……」


 解放されたかと思いきや、すかさず次は右腕を掴まれた。引っ張られ、同じように触感の良い布が手を拭う。

 眼前の宦官は、袖で草苺の汚れた身体を拭いてくれていた。


「だ、大丈夫ですよ! お召し物が汚れてしまいます!」


 草苺は慌てて腕を引っ込める。

 宦官は柳眉を顰め、線の細い顔に不服の色を滲ませた。深い溜息を吐くと、するりと白い手を持ち上げる。


「ぁいた!」


 揃えた人差し指と中指の先で、額を小突かれた。

 しかも一度ではなく何度も。

 地味な衝撃はくるが、痛くはない。

 それどころかなぜか安心感すら抱いてしまう。


 だから「ご、ごめんなさい……」と草苺は素直に謝罪を口にする。

 白い宦官は今度は呆れた様子の溜め息を落とした。再び、草苺の傷付いた右手を細く柔らかな手付きで拾い上げる。

 手を裏返し、手のひらを見て、白い宦官は緋い瞳に怒りの色を含ませた。


 小さな手のひらは、擦り傷を爪で広げたせいで傷口が悲惨な状態になっていた。皮は大きく剥け、どす黒い残骸と砂利に汚れた痛ましい有り様。

 今更に痛みを感じ始めて草苺は顔を歪めた。

 次の瞬間。


「ぅえ?」


 れろぉ……と、赤く長い舌が草苺の手のひらを撫でた。

 たっぷりと唾液を絡めた熱い舌の表面が擦り切れた皮膚と剥き出しの柔肉をくすぐり、滲む血液をすくい上げる。

 ぢくり、と傷が疼いて指先が一瞬痙攣した。

 尖った舌先が指の間にまで蛇のように這い上がり、ぬるついたくすぐったさと相手の吐息を間近で感じて――ようやく。


「ぎ、っ――――……!」


 ようやく、草苺は自分の手のひらになにをされているのか理解した。


「ぎゃぁあああ――――ッ!」


 すかさず掴まれていた右腕を振り解き、絶叫する。

 追われているとか、隠れているとか、もはや関係ない。

 人面蜘蛛よりも、角星よりも、誰よりも。

 いまは目の前の人物に危機感を抱き、草苺は全身を総毛立たせて悲鳴を迸らせた。


「ああああぁあっ老師! 煤老師! 変人がー!」


 草苺はまがいなりにも皇帝に見染められるべく後宮で花を磨く女官。

 本来ならば悲鳴こそ庇護欲を誘う色艶を含んだ音色を弾かせるべきなのだろうが、草苺は色艶どころか可愛げすらない牛とまがう野太い濁声を轟かせて逃げ出した。



「はあっはあ……ぜえ、はあ……はー……」


 がむしゃらに走り回り、酸素が枯渇した草苺が地面に突っ伏したのは、幸運にも見慣れた枯れ井戸のそばだった。


「無理……。はあ、疲れた……」


 鬱然とする草苺のボロボロな姿を嘲笑うように西陽が辺り一面を金色の斜陽で鮮麗に照らす。

 草苺は痺れる足で枯れ井戸へと、ふらふらと進んだ。井戸を背に重い腰を下ろす。


「……頭が、ついていかない」


 遠くから鐘の音が聞こえてくる。

 夕餉の時間が近付いている合図だが、大部屋に戻る気がおきない。いまになって非現実的な衝撃の余波が心身に広がって、戸惑いと疲労が思考力を奪っていった。


「でも……」


 ぼんやりと、霧掛かる頭で、思い出す。


「あの花結いは、すごく気持ち良かったなあ……」


 長く伸びた井戸の影に隠れ、草苺は抱えた膝に額を当てた。

 濃さを増していく夕闇に手招かれ、草苺は自分でも気付かぬうちに意識を落とした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ