二章 治癒の癒花_01
頬に何度も触れる違和感。
こそばゆさに、草苺の意識はぼんやりと浮上した。
「んー……?」
まだ完全に瞼は開かず、夢現をふらふらと行き来する。
「煤ぃ? もう少し寝かせて。昨日疲れたんだよお……」
寝返りを打った草苺は、自分の下に広がる固い触感に目を瞑ったまま眉根を顰めた。
下級女官に与えられる布団は薄いが、それでもここまで固くない。
「……んん?」
薄目を開ける。
ぼやける視界に映ったのは女官たちが雑魚寝する大部屋の風景ではなく、朝露に濡れて潤う花々。
湿った土の香りが鼻腔を掠め、背中にはひんやりとした感覚。
「あー……そうだ。昨日、昨日は……!」
草苺は飛び起きた。
関節のふしぶしが重怠い。自分で思っていた以上に疲弊していたのだろう。
毎朝通う井戸のそばで、夜を明かしてしまった。
「昨日は、色々あって……蟲とか、花結いしたり……変人が!」
一気に記憶が蘇り、わなわなと全身を震わせる。
「煤! 聞いてよ! 昨日ね!」
草苺は傍らに感じる気配へと腕を伸ばし、鷲掴み、ぐわっ! と持ち上げた。
「昨日はすごく大変だったのに、どこに」
「んにゃー」
「行ってたにゃー! …………にゃー?」
草苺の両手が掴むのはひんやりとした鱗の身体ではなく。もっちりと、ふんわりと、もふりとした魅力的な魔性の――毛玉。
蛇にはない眠気を誘う高い体温。蛇にはないおてて。蛇にはない三角の耳に、蛇のように長い尻尾。
煤に似ているところといえば、肉球の色のみ。
「にゃー」
薄汚れた猫は、草苺の寝癖頭からこぼれている蛇苺をむちむちの黒い肉球前脚で弄る。
「ええと……」
草苺は辺りに誰もいないことを確認。
「どこから来たにゃ?」
だらしのないとろけた笑顔を猫へと向けた。
「少し汚れてるね。……あっ、でも誰かの飼い猫かにゃ?」
人懐っこく頭を擦り付けてくる猫。
真紅の首紐は、草苺の身に付けるものより上等だ。
座り方を変えて猫を膝に乗せる。
チリン、と首紐の鈴が透き通った音を奏でた。
「顔の汚れ、拭いてあげるね」
草苺は猫の鼻横に付着する汚れを袖で拭ってやろうとして「……あれ?」
不思議なことに気付く。
自分の、右手の傷が癒えていた。
「手の傷……なんで?」
草苺は袖を捲り、手のひらをしっかりと確認する。
「治り難い傷だと思ったんだけど……」
治るのに一週間以上は掛かるだろう傷だったが、手のひらはまるで最初から怪我などしていなかったように、つるりとしていた。
左手も一瞥。こちらはまだ擦り傷が残っている。
ただ左の傷は浅く、痛みはない。
草苺は首を捻る。
散々な経験のあとの、不思議な出来事。
仄暗い疑懼が胸の内に渦巻く。
「……!」
ぐりっ、と猫が草苺の右手に頭を擦り付けた。
「っ……ご、ごめんね!」
もやりと濁った心中を誤魔化すように、草苺は眼前の猫へと意識を集中した。
「いま拭いてあげる」
摘んだ袖先で猫の面を拭いてやる。
けれども、汚れは取れない。
すぐに鼻横の汚れが模様だと気が付いた。
「ああっ! ごめん。これ、汚れじゃなくてこういう模様だったんだ」
草苺は猫を抱き上げて顔を寄せる。
全体的に薄灰色だが、ところどころが中途半端に濃い毛色。そのせいで薄汚れて見えていた。
しかし薄汚れたふうな外見とは裏腹に、ツンとしたかんばせは気品がある。
玉座で丸くなっていても違和感がなさそうだ。
この猫が皇帝なら、草苺は後宮での過ごし方を頑張ったかもしれない。
「可愛い模様だね」
向かって左の鼻頭。変哲のないただの黒いシミは猫の愛らしさを深める。
猫の黒い鼻と草苺の鼻先が触れ合った。
湿った鼻のむず痒さに草苺は小さく笑う。
扁桃型の清澄な碧眼が、すいっと細まった。
「あ……」
似ている。
昨日出会った青年の瞳に。
草苺は、猫に嵌め込まれたふたつの青空を静かに見つめた。
「アーラ。呼ばれたのかと思ったけれど、お邪魔だったかしらネエ?」
唐突に馴染みのある声が耳に滑り込んできた。
「ぅひあ……っ!」
反応する間もなく耳の縁を悪戯に舐められ、こそばゆさに草苺は肩を跳ね上げた。
くすぐったい耳を押さえれば、膝から猫が飛び降りた。
「煤ッ……⁉︎」
振り返ると、井戸の表面を這う煤と目があった。
「いつからそこに……」
「アンタとソイツが鼻先であーんなコトやこんなコト、チョンチョンとしてる時からヨ」
「鼻をくっつけるのは猫の挨拶。変な言い方しないでよ。それより、いままでどこに行ってたの? 大変だったんだから!」
「そんな叫ばなくったって聞こえてるワヨ」
ウルサイ、と一度額を叩かれる。
「ホーント、直々にお呼ばれされるくらいには大変みたいネ」
緋い瞳が面倒そうに細まり、少し離れた位置で座る猫へと移った。
「猫妖。皇帝が契約している妖ヨ。皇帝の手脚として宮廷内を走り回ってるワ」
猫妖は皇帝が契約し、使役する妖の一種だ。
男子禁制である後宮の護衛や、宮廷全体の害獣駆除に一役かっている。草苺も雑草むしりの最中に何度か目にしたことがあるが、いままで見た猫妖たちは尻尾が二又で、二足歩行をしていた。
「尻尾、二又に分かれてないよ?」
「妖力の強い猫妖は普通の猫に化けられるのヨ。あの薄汚れてみえる風貌は…………アラ、ヤダ。薄汚れ将軍じゃないのヨ! アレは猫妖を束ねる頭ヨ」
「あんなに可愛いのに。すごい猫なんだね」
「見た目に騙されるんじゃないワ。アンタ、将軍が呼びにくる意味分かってるの?」
今度は二、三度続けに額を小突かれる。
「お呼び出しヨ。皇帝|《白匣》から、直々のネ」
走馬灯のごとく草苺の脳裏に昨日の出来事が駆け巡った。
瞬く間の回想が終わると、自分の首と胴が離れる妄想もしてしまう。背筋が震えた。
「ち、違うの老師! わたし、悪いことは……花結いを、人助けで……」
無駄に両手を彷徨わせ、しどろもどろに草苺は説明をする。
煤にだけは勘違いされたくない! と必死に昨日の事件を伝えようとし、けれども、うまく思考がまとまらずに舌が絡まった。
「落ち着きナサイ。分かってるワヨ」
煤が首に巻き付いてきて、あやすふうに頬擦りをしてくれた。
「ウチの子が悪いコトするわけないワ。ナニか理由があるんデショ?」
「メ、煤老師……」
じん、と涙腺が熱くなる。
草苺は昨日の出来事を煤にすべて伝えた。




