投げやりな青年司祭は、聖母の言葉に身を乗り出す
大聖堂、南塔最上階。
少し風に当たりたくて、わたしはバルコニーに出る。
夕陽は沈みきっていないけれど、王都の空はもう夜の色で、星々の間に白く光る月が浮かんでいた。
──シルヴィアさま、ほんと天使だなぁ。
わたしは、ふっと息を吐く。
ミリツァはきっと、王家のスキルを獲得してしまったことに、心の底から畏れおののいていたのだと思う。
なにしろ彼女は、シャトーナ王国に代々仕えてきた公爵家の娘なのだ。
王族でもない自分が、王権の象徴を手に入れてしまったことは、新参者のわたしが想像する以上に深刻な問題だったにちがいない。
「ふっ、不敬です……わ、わたくしなどが──」
顔面蒼白のミリツァがそう涙目で訴えたとき、無邪気な声がした。
「どうしたの?」
「シ、シルヴィアさま……いえ、な、なんでもありませんわ」
ミリツァが強張った作り笑顔を向けると、シルヴィアは疑わしげな目でわたしを見た。
「ほんとに?」
「うーん……ほんとでは、ないかも」
「リリムさん──っ」
悲鳴のような声をあげるミリツァに、わたしは言った。
「王国の人々にとって、そのスキルが神聖なものだってことはわかってる。でも冷静に考えれば、スキルは結局スキルでしょ? 本当は、誰でも獲得する可能性はあるってことだよね」
「そ、それは──」
「それに、さ……なんていうか」
「……?」
「他人にどうこう言える立場じゃないけど……身近なひとたちに秘密を抱えて生きていくのって、結構、しんどいと思うんだ。わたしの経験上」
「──っ!」
ミリツァが唐突にわたしの手を握ったので、わたしはかえってびっくりした。
「え……ええっと、ミリツァ?」
「リリムさん、ごめんなさい……つらいことを思い出させて……」
「う、うん……?」
わたしは自分がガイド・フェアリーなのを隠してきたことを考えてたんだけど……。
この反応、例のゴシップ記事で書き立てられた、聖母のいわくつきの過去って話と勘違いしてる……? あぁ、もう、それはいいからっ!
シルヴィアは、そんなわたしたちの様子を見上げながら、ぷっくりと頬を膨らませた。
「ちっともわからないわ!」
「ああ、シルヴィアさま……」
ミリツァは地面に脚がつくのではないかというくらい深々と膝を折って、幼い王女に頭を垂れる。
「畏れ多さのあまり、わたくしは王女殿下に隠し事をしようといたしました。聖母リリムさまが道を示してくださらなければ、おのれの心の弱さに負けて、わたくしは罪を重ねていたでしょう……」
「やっぱり! わたしだけ仲間はずれなんて、いけないことだわ!」
乗馬服を着たシルヴィアは、簡単には許してあげないんだから! と言わんばかりに腕を組んでツーンと唇を尖らせた。
そのかわいさに苦笑しながら、わたしは言った。
「ミリツァさまも反省なさっているのですから、どうか許して差し上げてください。思いがけないことになって、混乱していらっしゃったのですよ」
「こんらん……?」
「ほら、ミリツァ。思い切って──」
ミリツァは、輝くような金髪を震わせながら言った。
「畏れながら、申し上げます。臣、ブランコヴィチ公爵家が一女ミリツァ、図らずも……王家のスキルを授かりましてございます」
「でかした!」
突然、横から朗らかな声がして、わたしたちは飛び上がった。
エレーナ王妃が満面の笑みを浮かべて、ツカツカと近づいてくる。
「でかしましたよ、ミリツァ。〈秘儀の間〉が失われた今、王家のスキルを次代に伝承する手立ては限られています。パーヴェルと結ばれる縁のあなたがスキルを持っているのなら、こんなに心強いことはないわ」
「で、ですが、わたくしなどが──」
「何を遠慮することがありますか。そもそも、お母上の公爵夫人は西方コルキスの第8王女、立派な王家の血筋でしょう」
──って、そうなんかーい!
ミリツァの両肩を支えるようにして立ち上がらせると、王妃はポンポンとその肩を叩いた。
「継承の儀式は、ずっと秘されてきた……わたくしを含め、歴代王妃は、伴侶たる国王陛下や我が子が、どんな苦難を経験しているのか、知る由もなかったわ。けれども、あなたたちはちがう……あなたとパーヴェルは、まったく新しい継承の形を一緒に考えていくことになるの」
「王妃さま──」
「堂々として。胸を張りなさい。ああ、でも、ちょっと心配になるわね……こんなに可憐で愛らしいお嬢さんが、これ以上、輝いて見えたら、誰かに取られてしまうんじゃないかって」
王妃は、さりげなくミリツァの目尻に浮かんでいた涙を拭った。
「うちのバカ息子にも、あなたに逃げられないようにしなさいと、きつく言っておかないと」
「うっ……」
また泣き出しそうになったミリツァの裾を、小さな手が引っ張った。
「シルヴィアさま……」
「ミリツァさま、でかした、なの?」
不思議そうな顔で見上げる王女に、王妃はにっこりと微笑みかけた。
「そうよ。ミリツァはこれまでたくさん頑張ってきたから、神さまがご褒美に、シルヴィアと同じスキルを授けてくださったのです」
「同じスキル──?」
目をパチクリさせたシルヴィアは、パッとヒマワリが咲いたように表情を輝かせた。
「じゃあ、おそろい、ね!」
胸を射抜くような、まぶしい笑顔。
あんな純粋な王女までもが、命を狙われているかもしれないなんて──。
ゴウ、と強く風が吹き抜けて、バルコニーにたたずんでいたわたしは、我に返る。
もう見慣れてしまった、夜のシャトーナの街明かり。
最初は、幽閉されるために連れてこられた、この〈王妃の間〉を、わたしはいつの間にか、この街での居場所のように感じていた。
でも……。
月明かりに黒くそびえる、この大聖堂のどこかに、王女を狙い、王国を滅ぼそうとしている者がいる。
──結局、ここもわたしにとっては、敵地、だったのかな……。
ほうっと溜め息を吐いたとき、背後からメイヴの静かな声がした。
「アントンさまがおみえです──」
大司教付きの青年司祭アントンは、応接間のソファに深々と腰を下ろしていた。
記憶の中では、いつも貴族的な雰囲気を崩さず、上品に振る舞っていたのに、今は疲労の色を隠すこともできず、うっすらと伸びた無精髭が、やつれた顔をいっそうくたびれて見せている。
「お久しぶりね。傷はもういいの?」
わたしが訊くと、アントンは投げやりな調子で答える。
「すぐに〈治癒師〉の手当てを受けましたから。それより、なんですか。明日からの捜索の用意もあるので、わたしは忙しいんです」
アントンは、誘拐されたアファナーシエフ大司教に、誰よりも心酔していた若者だ。
それなのに、あの大聖堂爆破の日、アントンは賊に刺されて深傷を負い、大司教を守ることができなかった。
回復したアントンは、国軍にかけあって捜索隊に参加し、王都のあちこちを駆けずり回っているらしい。
「ああ……そういえば今日、城外の倉庫街で暴動があって、あの爆発の実行犯が反体制派だとわかったそうですよ。異端審問にかけられる予定だった、あなたの侍女もじきに戻ってくるでしょう。これが聞きたかったことなら、わたしの役目は終わりですね。では、失礼します──」
一方的にまくし立てたアントンは、ソファから腰を浮かしかけた。
「待って」
「……まだ何か?」
「あなたは、わたしを嫌ってる。わたしが偽物の聖母だから」
「いきなりだな。だが、この際だからハッキリ言いましょうか。わたしはね、あなたのことなんか、もうどうでもいいんです。王国と正教会が、あなたを聖母にしておいたほうが都合がいいというのなら、好きにすればいい。あなたが進んでその称号を手に入れたのではないことも、経緯を見て知っています。だが、人々の前で聖母を演じるあなたには、正直うんざりさせられますよ。出自もあやしい一介の冒険者が、聖人を気取り、王宮にまで好き勝手に出入りして……でもそれだって、わたしには関係のないことだ。今となっては、文句を言う気はありません」
「そうよね。あなたにとって大事なのは、アファナーシエフ大司教が、わたしを聖母にしておこうと決めたこと。それ以外のことは、どうでもいいのよね」
「……何が言いたいんです」
「わたしは、あなたのそういうところを信頼しているって言ってるの。正教会の上層部がなんと言おうが、あなたは大司教の言葉を信じ、大司教を守るためなら信念さえ曲げてみせる。そうでしょう?」
「ハッ……まさに、悪魔のささやきですね。大司教さまをエサに、わたしに異端の道にでも入れと言うんですか」
「いいえ。でも、わたしには必要なのよ。正教会に逆らうことになっても、大司教を救い出すために一緒に動いてくれる聖職者が」
「──っ」
ソファに座り直したアントンは、身を乗り出してわたしを睨んだ。
「何か……つかんだのですね。わたしにどうしろと?」
「いくら王都を走り回っても、大司教は見つからない。教えてほしいのは、ここのこと」
応接テーブルを、トンと指で突いて、わたしは青年司祭の瞳を見つめ返す。
「アファナーシエフ大司教は、この大聖堂の中にいる──」