聖母は弱気な公爵令嬢の言葉に胸を熱くする
〈……回収完了。モグラを巣に帰します〉
翠玉宮、応接室。
窓際に立ったわたしの脳裏に、オルタンスからの〈念話〉が飛び込んできた。
〈了解。舞台の準備は整った。花束を送って〉
〈成功を祈ります〉
ガラス越しに周囲の木々の緑を見つめて、わたしは小さく息を吐く。
王宮には監視がついているはず。〈念話〉も盗聴されているかも──。
そう言い出したのは、オルタンスだった。
たしかに倉庫街では、あのトゥッリアとかいう残忍な元貴族が、隠密行動を取っていたオルタンスに奇襲をしかけてきた。
こんな符牒に、どれほどの意味があるかはわからないけど、念には念を、だよね。
モグラ、つまり〈採掘師〉のラモンは、わたしとの取引の通り、東の庭園のはずれに穴を掘った。
さっきの合図は、その身柄が無事、魔族たちに受け渡されたという意味だ。
「……撤収、完了です。荷物の搬入に移ります」
言いながら室内を振り返ると、いつもより軽装のエレーナ王妃が厳しい顔でうなずいた。
翠玉宮の中では、侍女たちがあわただしく駆け回っている。
湖沼地帯にある王家の別荘に出かける準備……そういう名目になってはいたけれど、実際には、シルヴィア王女と王妃さまが国境地帯の修道院に避難するための用意だった。
「こちらの宝石箱は、いかがしましょう……せめて、これだけは……」
侍女のドロテアが、上品なパステルトーンの小箱を抱えて、そっと王妃に耳打ちをする。
「いいえ……置いていきましょう」
「王妃さま──」
「いいのよ。あちらには、あちらなりの楽しみがあるのだもの。宝石なんて、ピクニックにも遠乗りにも不似合いでしょう?」
「……」
ドロテアが涙ぐむのを見て、事情を知らない小間使いたちが顔を見合わせている。
そのとき、王妃の向かいに座ったミリツァが、意を決したように口を開いた。
「王妃さまっ、実はわたくし、折入ってご相談があるのですが……」
少し意外そうな顔して金髪の令嬢を見つめた王妃は、そうね、ちょうどいいわ……と低くつぶやいた。
「わたくしも、少し疲れました。ドロテア、宝石箱はそこに置いて。みな、しばらく、わたくしたちだけにしてちょうだい」
「……承知いたしました」
侍女たちの足音が廊下の向こうに遠ざかると、王妃は小さく溜め息を吐く。
「神の道に入るのですから、本当はいさぎよく身ひとつで向かうべきなのに、やはりダメね。あれこれと、考えてしまって……」
「エレーナさま……」
「この宝石箱はね……陛下に嫁ぐとき、わたくしが実家から持ってきたのよ。シルヴィアが成人したら、この中からあの子に似合うものを贈るつもりだったのだけれど……いけないわね。こんな感傷にひたっていては」
ミリツァの肩が震えて見える。わたしも黙って唇を噛んだ。
実は、翠玉宮に到着してすぐ、わたしはシルヴィアの様子を見にいった。
好奇心の塊のような王女が、暗殺者のうろつく庭園に飛び出してきてしまわないかと気がかりだったからだ。
侍女たちがせわしなく出入りする王女の部屋をのぞいてみると、小さなシルヴィアは〈道化師〉とふたり、難しい顔でソファに並んで座っている。
「……何をなさっているんでしょう?」
通りかかった宮廷メイドのハンナに小声で訊くと、ハンナは困ったように笑った。
「王妃さまが、連れていくのは一番のお気に入りだけにしなさい、とおっしゃって。朝からずっとお悩みなんです」
「連れていく……?」
「あちらを──」
ハンナの視線を追ってベッドを見ると、大小のぬいぐるみがズラリと並べられている。
そのとき、うんうん唸っていたシルヴィアが、プハァッ……と息を吐いて天井をあおいだ。
「やっぱり、ダメよ。いちばんなんて決められないわっ」
「あぁ、こりゃまた、見事に振り出しだ」
スタンチクがのけぞると、シルヴィアは唇を尖らせて〈道化師〉を睨む。
「仕方がないでしょう。どの子にも好きなところがあるのだもの」
「……でもね、姫さま。世の中にゃ、あるんですよ。等しく愛する者の中から、誰かを選ばにゃならんときが」
わたしは、ハッと息を止めた。
スタンチクの声は、聞いたことがないほどおだやかで、落ち着いている。
そんな道化の様子には気づかず、シルヴィアは頬を膨らませた。
「そんなの、ちっとも楽しくないわ」
「なるほどなるほど……では思い切って、お供選びはここまでに! このスタンチクが、姫の悩みを解決いたしましょう」
「え……?」
「故事にいわく、ひとつを選べないなら、ひとつも選ばなければいい。眠るときも目覚めるときも、姫さまはこの道化にしがみついておられるがよろしい!」
「──っ! おばかね、スタンチク! ホントにおばかな答えだわ!」
キャッキャと笑うシルヴィアの声を背に、わたしはそっと扉から身を離した──。
思いに沈んでいたわたしは、王妃さまの言葉で、ふいに我に返る。
「ところで、ミリツァ。先ほどは何か、相談事があると言っていたけれど」
「はい……」
ミリツァは、いつになく緊張した面持ちで言った。
「これは、その……大変差し出がましいことなのですけれど……」
「構いません。遠慮せず言ってごらんなさい」
「では……王妃さまとシルヴィアさまのお移りになる先のことですが……リラの修道院ではなく、わたくしどもの領地ではいけませんでしょうか」
「つまり、ブランコヴィチ領に──?」
「はいっ」
興奮に頬を染めたミリツァは、輝くような金髪を揺らして身を乗り出す。
「リリムさんやアレクセイ殿下が戦ったというおぞましい兵器も、正教会の手の者が運び込んだ疑いがあると……それが事実なら、修道院に向かわれるのは、敵の手に身をゆだねられるも同じではありませんか。もし……もし、公爵領にお移りいただけるなら、わたくしたちは家門の名誉にかけて、たとえ最後の一兵になろうとも、必ずおふたりをお守りしますっ」
「ミリツァ、あなた……それは、公爵にも諮ったうえでの言葉なの?」
「いいえ。父は騎士団とともに、ミュルクの森に陣を布いたままですので……けれど、反対はしないでしょう。いいえ、させません。領地にだって十分、将兵は残っているのですし、今は王都にオクタヴィアン卿もおります。ですから──」
「そう簡単な話ではないわ。世俗の身分を保ったままのわたくしたちを匿えば、公爵領を巻き込んでの大戦になるかもしれないのよ。正教会と敵対するとわかれば、領民たちにも動揺が走ります……兵力や忠誠心だけでは先行きを計れない、難しい戦いになるでしょう」
「わかっておりますっ! それでもっ……それでも、おふたりが死地に向かわれるのを黙って見過ごすことなど、わたくしにはできませんっ」
「ミリツァ──」
わたしは呼吸をするのも忘れて、ふたりの会話を聞いていた。
会うたびにいつも青ざめて、自我を押し殺したように微笑んでいるミリツァばかり見てきたからだろうか。
こんなふうに言葉に熱を込めて、必死に王妃さまを説得しようとする姿は新鮮で、衝撃的ですらあった。
しばしの沈黙のあと、王妃は意を決したように金髪の令嬢を見つめた。
「わかりました。わたくしたちの命運、公爵家に……いえ、あなたに託しましょう」
「エレーナさま、では──」
「ええ。このことはギリギリまで、わたくしたちだけの秘密にしましょう。修道院に行くと見せかけて、途中から公爵領に向かえば、多少なり、敵を撹乱して時間を稼げるはずよ」
「はい……はいっ」
「でもね、ミリツァ──」
王妃はミリツァの手をとって、小さく息を吐く。
「どうか……わたくしたちのことで、パーヴェルを心の冷たい人間だと思わないでね。王位継承のことがある以上、今のあの子は、このことを言い出せないのです」
たしかに、修道院への避難を白紙に戻せば、正教会への不信を態度で示すことになってしまう。
あの面倒な枢機卿あたりが、それをネタにゴネはじめたら、災厄の日までに王位継承を済ませるなど夢のまた夢だ。
「リリムさんも……どうか最後まで、あの子を見捨てないでちょうだい」
「ええ、それはもちろん──」
って、あれ……?
そういえば王妃さまって、わたしとパーヴェルの関係を誤解したままだっけ……?
ミリツァもミリツァで、微妙な顔で笑ってるし……あああ、もうっ、何もかも、あの鈍感王子のせいだ──っ!
心の中で悪態を吐いていると、コンコンと窓をノックする音がした。
わたしは王妃さまたちに目で合図をすると、掃き出しの窓を開けて広いバルコニーに出る。
大理石の床の上では、役目を終えた転移陣がチリチリとかすかな音を立てて風に散っていく。
人影は4人。
まぶしそうに空を見上げるベリャーエフと、双子のラウラ。
そして、わたしが花束と呼んだ、咲き誇る薔薇の花のような少女──。
「お届け物よ、リリム」
「ディアナ! みんなも、ありがとう」
魔族令嬢のディアナは、王妃さまに目をとめると優雅にお辞儀をしてみせる。
わたしの背後で、王妃さまはポツリとつぶやいた。
「ああ、神さま……こんな形で、初めて娘たちがそろうなんて、あんまりですわ──」