聖母は〈巨獣〉にヘッポコスキルを叩き込む
進行率89%──
ピクピクと痙攣をはじめたマーサの手を握りながら、わたしは必死に考える。
目の前には、まだ「マーサ」というひとりの人間が存在している……少なくとも、この目にはそう鑑定えた。
〈融合〉では、心身の支配権を、HPがより高かった者が獲得する。
「最大HP」ではなく、ただの「HP」……それなら、今からでもハーヴグーヴァをマーサより弱らせることができれば、支配権をマーサが握ることができるはず──。
もし……マーサを傷つけずに、この怪物だけを攻撃することができたら?
わたしは、床の鉄格子を睨んだ。
すぐ足元で、消化管のような組織……どう見ても、人間の一部ではないものが、ドクンドクンと脈打っている。
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ハーヴグーヴァLv.100 HP96253/98765
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──これは、マーサさんじゃない……。
そう念じながら、当たりさわりのない〈回復〉を使ってみる。
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ハーヴグーヴァLv.100 HP96353/98765
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「100戻した……マーサさんは──!?」
顔を上げたわたしは、グッと唇を噛んだ。
HP5438……マーサは、きっちり怪物と同じだけ回復してしまっている。
もちろん、こうなることを予想していなかったわけじゃない。
どう見てもモンスターの一部でしかない、あの太い脚にアレクセイが斬りつけたとき、マーサは激痛に絶叫していたのだから。
彼女はすでに痛覚だけでなく、生命を支えるエネルギーまで怪物と共有してしまっている……。
マーサ以外の存在を強く意識すれば、ハーヴグーヴァだけを狙えるかも……そんな淡い期待は、簡単に打ち砕かれてしまった。
──マーサさんが混じっていない場所を見つけるしかない……? でも、こんな大きな身体の、いったいどこを……?
そのとき突然、マーサがすさまじい力で、わたしの手を握った。
「……カ……ハッ……」
「マーサさんっ!?」
ズズッ……ズズズッ……
おぞましい音がして、ピンクの肉塊がせりあがる。
進行率91%──
怪物の組織に胸を圧迫されて、マーサはゼヒュゥゼヒュゥ……と浅い息を吐く。
ハッチの外で、機械兵器がウゥゥ……アァァ……と亡者のようにうめき声をあげているのが聞こえた。
ムーゲンが、リリムッと鋭く叫んだ。
「もう限界だっ……いい加減、終わらせてやれっ」
「──っ」
ダメだ。もし、ここで死んだって、〈融合〉は止まらない。
このまま取り込まれてしまったら、マーサは怪物が命尽きるまで、この身の毛のよだつ人造生命体の中で苦しみつづけるのだ。
──どうしたら……。
硬直したマーサの手の爪が、わたしの手の甲に食い込んで、赤い血がにじんでいた。
肉塊におおわれたマーサの耳元で、わたしは届くかわからない言葉をかける。
「……ごめんね……せめて……この苦しみだけでも……」
泣き出しそうな心を必死に抑えながら、わたしはマーサの強張った手を、自分の額に当てた。
──どうか効いて……〈催眠〉……。
目を閉じて、祈るように。
スキルに集中して、深く息を吐く。
マーサの手がピクリと震えて……すがりつくようにわたしの手を握りしめていた力が、ふいにゆるんだ。
「む……声が、やんだ──?」
ムーゲンの言葉に、わたしはゆっくり目を開ける。
マーサの肺は相変わらず、呼吸するたびに濁った音を立てていたけれど、ハッチの外の壮絶なうめき声は聞こえなくなっていた。
激しく揺れていた室内も、いつの間にか動きを止めている。
妖精は低い声で訊いた。
「眠らせた……のか?」
「うん……今は、これしか──」
わたしが言いかけたとき、ガゴンッ……と怪物が身を震わせた。
「どうして……もう目覚めて──あれ?」
ズンッ、ズンッと、怪物が土を蹴る衝撃は伝わってくる。
けれども、マーサが苦悶する声は、再開する様子はない。
わたしは、ハッとしてマーサの残った肉体に目を向けた。
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マーサ Lv.51 HP5438/7850
(〈催眠〉効果中)
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「効いてる……マーサさんにだけ?」
何かをつかめそうでつかめない、モヤモヤした感覚にとらわれる。
わたしは、マーサではないものを狙うことはできなかった。
でも、マーサだけを狙うことはできる。
やるべきことは、この融合体の中の、マーサ以外を攻撃すること──。
なんだろう……何か引っかかる、この感じ。
わたしにできること……わたしにできることの中に、何かこういうのが……。
……〈審美眼〉〈自覚〉〈潜水〉〈火球〉〈斬撃〉〈育成〉〈建てる〉〈掘る〉〈暗視〉〈暗黙知〉〈浄化〉〈補集合〉〈光源〉〈鼓舞〉〈有用判定〉〈口寄せ〉〈意思疎通〉〈噛みつき〉〈記憶術〉〈方向判定〉〈速読〉……
ほとんどがポンコツな自分のスキルを二度、見返して、わたしは「あああっ」と声をあげた。
ムーゲンが目を丸くする。
「どっ、どうした、いきなり大声を出して!?」
「ひょっとして、このっ……このいちばん使えないヤツ──!」
「はっ……??」
マーサの冷たい手を取って、わたしはそのスキルと〈催眠〉を交互に発動させた。
ギギ……ギギギ……
金属の軋む音がして、半獣の機械兵器がゆっくりと動きを止める。
壁に手をついたまま、妖精は警戒するように言った。
「また止まった……? だが、これなら先ほども──」
「いいえっ……さっきとは同じじゃないっ!」
わたしが叫んだとき、グラッと巨大な機体が揺れた。
投げだされた身体が、フワリと無重力になる。
「しまっ──」
「リリムッ」
ムーゲンが手を伸ばした刹那──
重低音を響かせて、人造の魔獣は大地に崩れ落ちた……はずだった。
「……?」
何も聞こえない。それどころか、何の衝撃も感じない。
おそるおそる目をあけると、わたしの身体はフワフワと宙に浮いたままだ。
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〈想いの盾〉=死地にあっても包み守る盾。対象の周囲に魔法の膜を展開し、最長3分間、熱、圧力、電位、加速度など、あらゆる物理的な状態の急変から対象を隔絶する。
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ブニュッ……パチンッ
唐突に、全身を包んでいたシャボン玉のような膜がかき消えて、わたしの身体は不機嫌そうなムーゲンの腕の中にポスンと落ちた。
「このうつけっ、何かするならすると、なぜ先に言わぬっ」
「へへ……思ったより、うまくいっちゃった……」
わたしがやったこと。
それは、身につけてから一度も実戦で使ったことのない、ヘッポコスキルを使うことだった。
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〈補集合〉=効果範囲の規定があるスキルの一部について、効果範囲を反転させることができる。
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王都に来る前、このスキルを手に入れたときには、飛び上がって驚いたものだった。
だって……範囲が反転するんでしょ?
半径10mのサークルの中で効く〈範囲回復〉をひっくり返せば、円の外にいる世界中のひとを回復できるってこと……?
ところが、そうは問屋がおろさなかった。
いくら試しても、このヘッポコスキルは〈範囲回復〉や〈範囲解毒〉には、なんの効果もなかったのだ。
ヤケを起こしたわたしは、持っているすべてのスキルを片っ端から〈補集合〉と組み合わせてみることにした。
最初に効果があらわれたのは、どういうわけか〈呼ぶ〉だった。
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〈呼ぶ〉=自らに敵意のない動物またはモンスターを、自らの元に呼び寄せることができる。ただし、対象は半径500m以内に存在し、位置が知覚可能である必要がある。
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市場都市の郊外で、ホーンラビットめがけて〈呼ぶ〉を使ったわたしは、あっという間にツチネズミやヌレバカラス、モリイノシシといった森の動物たちに囲まれた。
けれども、肝心のホーンラビットは驚いて逃げてしまった。
次に効果があったのは、〈湧水〉だった。
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〈湧水〉=半径10m以内の任意の場所から、任意の分量の水を湧き出させる。
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切り株の上に置いたカップの中をイメージして〈湧水〉を使った瞬間、わたしは自分がズブ濡れになったことに気づいた。
見渡すと、きれいに半径10mの円を描くように周囲から水が湧いていた。でも……カップの中には何もなし。
そして……実験から半日ほど、ウンウンうなっていたわたしは、ふいに気がついたのだった。
「500m以内のすべての動物たち」から選んだ「特定の動物」を反転すると、「500m以内にいる、他のすべての動物」に。
「10m以内の場所」の中にある「特定の場所」を反転すると、「10m以内にある、他のすべての場所」になる。
〈範囲回復〉は、「10m以内にいる人々」の中の「全対象」のHPを回復する……だから、ひっくり返したら「誰も対象にならない」……?
ふーむ……それなら、他のスキルは?
たとえば、〈物理防壁〉は、体表面から1m以内で発生する物理的な衝撃を軽減する。
ひっくり返せる要素は、「体表面から1m以内」くらい……なら、「体表面から1mより外の全空間」が対象になってもおかしくない。でも、実際には何も起こらない。
もし、「距離」や「時間」といった物理的な「効果範囲」だけでなく、「対象の選び方」まで反転されるのなら、単体向けのスキルだって除外はできないはずだ。
〈解毒〉をひっくり返せば、「ターゲットにした人物以外のこの世の全員」の毒を浄化するはず……だけど、そうはならない。
この世の全員……世界のすべて。
〈補集合〉は、世界全体を相手にしてしまうようなときは、発動しない……どうやら、そういうことらしい。
それなら、〈融合〉している最中の対象だったら、どうなるだろう?
マーサと、マーサ以外──。
〈融合〉の途中なら、「マーサ以外」が指し示すのは「マーサ以外の世界の全員」とは限らない。
融合体という限られた範囲で見れば、マーサの反対とは……半獣の機械兵器ハーヴグーヴァ。
フゴゴゴゴゴゴ……〈催眠〉状態の怪物が空気を吸い込む音が響く。
〈融合〉の進行率は、94%……マーサに駆け寄ったわたしは、固く拳を握って言った。
「遅くなってごめん。でも、わかったよ……反撃しよう、この化け物に。そして、あなたを化け物に変えようとしたヤツらに──」