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結衣は瞬時に陽菜と向き合う姿勢になり、陽菜の肩を掴んで大きく揺さぶった。
「何それ、初耳なんだけど、浮気?」結衣が声を荒げて、畳み掛けるように質問した。
「ちょっと、落ち着いて聞いてください。大声出したら蓮が起きるから」陽菜が結衣の腕を掴んで離そうとするが、結衣の力が強くて手が解けた。
「どこの女」
「女性じゃない」
「はあ!?」結衣の声がさらに大きくなった。そう言えば、陽菜がまだ高校生だった頃、自分はレズビアン寄りのバイセクシュアルだと思うと言っていたことを思い出した。
「ちょっと、落ち着いて結衣さん」
陽菜の言葉が耳に入らない。さらに陽菜の肩を大きく揺さぶり、二人はソファに倒れ込んだ。
「結局男ってわけ? 私の稼ぎが少ないから? それとも、今更世間体とか気にしてんの?」
「違う、ポリアモリーって言ったじゃないですか」
「どこで知り合ったの? 大学の知り合い? 勤め先?」
陽菜は時々洟をすすり上げ、涙ぐんでいた。
「ネット、SNSで知り合った人」
「いつからSNS始めたの」
「最近」
「私の何が不満だっての」自分の声も鼻声になっている。
「不満があるわけじゃない、ただ」陽菜は涙を拭いながら話していた。
不意に、リビングのドアが開く音が二人の後ろから聞こえた。二人が顔を向けると、蓮がキッチンに向かっていた。
「蓮、ただいま」怒りと悲しみで震える声を努めて冷静にして、蓮に話しかけた。
「喉渇いた」二人の方を向かずに、蓮が半ば独り言のようにつぶやいた。
「そう」陽菜も冷静さを取り戻したのか、涙が止まっていた。
「近所迷惑」蓮は、水を飲み干すと二人の方を指さしてそう言って、自室に戻っていった。
陽菜の肩からゆっくり手を離し、ソファから起き上がった。
「ごめん。ちょっと今疲れてるし冷静に話できなさそう。明日聞くわ。お風呂入る」
「そうした方がいいですね。私も明日のシフトはお昼からだから、朝蓮が家出たら話しましょう」陽菜もソファに居直り、ティッシュで洟をかんだ。
翌日、蓮が家を出て、二人で家事を片した後、どちらから声を掛けるでもなく、自然にテーブルに腰掛けた。テーブルには小さな花瓶が置いてあり、ドライフラワーのラベンダーが差してあった。あまり金銭的に余裕がなくても心まで貧しくなりたくないからと、陽菜は意識的に花を飾るようにしたいのだと、何年か前に言っていた。
「はい」と言って座りながら、陽菜は結衣にブラックコーヒーを差し出した。陽菜のもう一方の手にはアイスミルクティを持っていた。
「ありがと」結衣はブラックコーヒーを受け取り、息を二、三度かけて冷ましてから少しだけすすった。ブラックコーヒーの入った大きくて白いマグは、同棲を始める前に二人で買ったお揃いのものだ。
「SNSを今更始めた理由を教えてほしい」結衣から話を切り出した。
「SNS始めたのは、出会い目的じゃなくて、子育てのため」陽菜は、ストローでミルクティーを一口飲んだ。「私一人っ子だし、結衣さんも三姉妹でしょう。だから、男の子ってどう育てればいいかいまいち分からなくて。もうあの子も思春期ですし。今のところ素直で野球が好きないい子に育ってくれてるけど、なんとなく不安になったんです」
「それは陽菜だけじゃなくて二人の問題じゃん」
陽菜から子育てに関する不安事は、蓮が歳を重ねるにつれ聞かなくなっていた。陽菜が子育てで悩んでいたということ自体、まったく気付いていなかった。
「それはもちろんそうだけど、実際問題、結衣さん仕事増やしたから、家にいないことの方が多くなったし。いずれ相談するつもりだったんです。だから昨日話しました」
「ごめん、気付かなかった」
「謝らないでください」陽菜が、マグを握る結衣の手に触れた。結衣が顔を上げると、陽菜が真っ直ぐに結衣の目を見つめていたので、思わず結衣は目を逸らした。
「それで、その相手の人とはどうやって」
「あ、うん、SNSで色々同じくらいの子どもを育ててる人をフォローして情報交換したり、まあちょっと愚痴っぽいこと言ったりもしてたんです。そしたら、数ヶ月前にその人が話しかけてきたんです」
「何て」
「その人は男の子育てた経験あるわけじゃないけど、自分が男性だから、色々教えてくれて。あと……あまりお金がないけど家事は得意なら、ウチで働きませんかって」
「働く? どこ?」陽菜の話から、パートナーシップとの関連性があまり見えず、つい眉間の皺が深くなった。
「県内。袖ケ浦だって。その人は男性と数年前に結婚してて、相手の子どもが二人いるんだけど、その人自身も全然家事できないし、相手の人も仕事忙しくて家にほとんどいないから、子どもが家事してるような状態で、それはまずいからってことで家事手伝いの人を探してるんだって。いずれ家族になるのを前提に」
「ヘルパーとして働かないかってこと? 家族になる前提ってのは?」
「まあ、そのあたりのことも含めて、会って話聞こうかなって」
「その人、信用できるの?」
「一応、SNSに顔写真載ってますよ」陽菜はスマートフォンを慣れた手つきで操作した。こんなにスマホに慣れてたっけ、と内心陽菜が知らないうちに変わったように感じて焦っていた。それとも、自分が陽菜のことをどこか舐めていたのだろうか。
「ほら」と陽菜が男性のプロフィール画面を見せた。白髪が少し混じった、細いシルバーフレームのメガネを掛けた男性の胸像が映っていた。結衣たちより一回りほど年上に見えた。
「でも、この写真が本物かなんて分かんないじゃん」
「でも、本人認証マークあるから、ここに」陽菜が男性のハンドルネームの横にある緑のチェックマークを指さした。
SNSによる誹謗中傷が社会問題になってから、多くのSNS運営会社が本人認証制度を導入した。任意の設定ではあるが、それを行った人は自分の素性を運営側に明らかにした信用のある人だ、という証明になるというものだった。
「どんだけそんなもん信じられんのか、分かったもんじゃない」結衣はこのSNS本人認証の精度に懐疑的だった。実際、システム目をかいくぐったトラブルもしばしばニュースになっていた。