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金曜日の夜八時、信哉が息を切らせながら和食店の個室のふすまを開けると、佐久間がお品書きを眺めながら緑茶をすすっていた。
「すみません、俺がお誘いしたのに、課長待たせてしまって」
「またそんなに息切らして、急がなくていいのに。はい深呼吸して」佐久間と同様に信哉は深く息を吸い、吸うより長い時間を掛けて吐いた。
「念のため聞くけど、亜紀ちゃんと駿一くんは大丈夫なんだよね?」
「はい、今日は前妻のところに預けてて、土日過ごす予定なんで」
「ならよかった」
二人の前には鍋が置かれていた。
「にしても課長、真夏に鍋を所望されるとは」信哉は止めどなく流れる汗を拭っていた。
「会社、クーラーガンガンにかかってるでしょ。僕どちらかというと寒がりだから、夏は逆に身体が冷えるんだよ。だから、こういうときは温まるものが食べたくてね。君は恐らく暑がりだろうから、付き合わせて悪いけど」
「いえ、お気になさらないでください。今日は私が課長にご馳走するんですから」
鍋から立ち上る熱気で、まだしばらく汗は引きそうになかった。それともこの汗は緊張に因るものなのだろうか。
「そういえば」佐久間がお品書きに視線を落としたまま話した。「急かすようで悪いけど、結婚の件、考えてくれた?」
「その件なんですけど」信哉は正座した足を直して、背筋を伸ばした。「結論から言うと、その方向で考えています」
「本当に?」佐久間の顔が途端に明るくなった。「子どもたちは? 前のパートナーさんには言ったの?」
「子どもたちは、課長と一緒に住むのはどうかって聞いたら、楽しくなるって喜んでました」
「そうかあ」佐久間は今まで見たことのないような破顔っぷりだった。
「でも一つ言っておきたいことがあります」
「何? 生活する上では相談は大事だからね。何でも言って」
「俺、課長のことが好きでした」
佐久間の表情がゆっくり真顔に変わっていった。少し青ざめたようにも見えた。目は、信哉の姿を見ているようで、まったく違うところを見ているようにも見えた。
「赴任されてから、ずっと好きでした。ほとんど一目惚れでした。この話がなかったら、言うつもりもありませんでした」自分の目頭が熱くなっているのを感じた。「課長は気付いてないご様子だったので、わざわざ言わなくてもよかったのかもしれないですけど。でも失恋したから、いったん蹴りを付けてから結婚したくて。驚かせてしまってすみません」
「……驚いたね、正直」お品書きを閉じながら佐久間はつぶやいた。「一緒に生活して、君と亜紀ちゃんと駿一くんを支えたいとは思うけど、君のことは恋愛対象としては見ていない。それは答えられない。ごめん」佐久間の表情を確認したかったが、湯気で佐久間のメガネが少し曇っていて表情が読み取れなかった。
「分かってます。俺が言いたかっただけですから」
「僕がこんなこと聞くの悪いけど、失恋した相手と一緒に住むなんて、つらいんじゃないの?」佐久間の声色は確かに信哉を心配しているが、部下を、家族を心配しているのであって、恋人に対するそれではなかった。
「つらいですよ」信哉は声を振り絞った。明らかに震えていたが、隠す余裕もなかった。「つらいですけど、自分の感情に課長を巻き込む方がもっと嫌ですから。それに実際、課長が言ってくださったように、俺一人で亜紀と駿一の面倒を見るのはとっくに限界なんです。二人のためにも、課長と結婚するのが一番いい」
「そうか」
「灰汁、取りますね」
信哉は腕をまくって、灰汁を取り出した。そうでもしないと自分が何をしでかすか分からなかった。何かに集中していたかった。
「ありがとう」
「課長が退職されてお引っ越しされたら、三人で新しい家にうかがいますね。その頃には僕たちも引っ越ししなきゃいけなくなるから、忙しくなるな。有給取れるといいけど」
「うん、そうだね」佐久間が肩で顔をぬぐった。鍋の蒸気の汗を拭いたのか、涙を拭いたのか、信哉には分からなかった。




