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バーベキューから一ヶ月後の平日夜、結衣は六本木ヒルズの噴水の前に立っていた。十二月に噴水の前にいると余計に寒さを感じた。結衣は小さい頃から寒がりだった。
陽菜から、信哉は本当に仕事がとても忙しいようだと聞いていた。実際、一ヶ月前に会ったときも寝不足気味で疲れている様子だった。夕食の約束も仕事でドタキャンされたら最悪だと思っていたが「今日は何が何でも定時で上がります」と夕方に連絡が入っていた。
約束の時間を五分過ぎて、オフィス棟の方から信哉が息を切らして走ってきた。
「すみません、遅れてしまって」胸に手を押さえながら信哉が途切れ途切れに話した。
「そんなに急がなくても」
「上司が、定時に上がるって言っといたのに、仕事を押しつけようとしましてね」信哉は一回深呼吸をして、唾を飲んだ。「やるやらないでちょっと時間を使ってしまった」
「よく抜けられましたね」
「定時で上がるって何日も前から宣言してたんでね、部下が助けてくれました。明日昼飯奢らなきゃ」
信哉は背筋を伸ばし、鞄を持ち直すと「じゃ、行きましょう」と歩き出した。
案内されたのは高級フレンチレストランだった。事前に店を知らされていたのでドレスアップしていたが、高級レストランに最後に行ったのがいつなのかも分からないほど久々で、結衣は緊張を隠せなかった。
反面、信哉は落ち着いていて、外国人のウェイターが来てもまったく表情を変えなかった。自分よりも何歳か年下だと聞いていたが、人生経験は信哉の方がありそうだ。接待で高級料理店にもよく行くのだろうか。
「コース料理頼んであるんですけど、大丈夫でした?」席に着くと、小さな声で信哉が尋ねた。
「ええ」
「よかった。今日は俺の奢りなんで、まあ気にせずおいしく食べてくださいね」
「それには及びませんよ」慌てて結衣は否定した。どういった場面でも、あまり奢られるのが苦手だった。
「まあ、そう言わず。陽菜さんへの日頃の感謝を間接的にしているとでも思ってもらえれば。それに、もう払ってますし」
結衣は目を剥いた。先手を取られた。
「陽菜も、こういうところに連れて行ったことあるんですか」
「いや、こういう場所はなかなか袖ケ浦にはないですから。それに、そもそも俺あまり家にいないので、陽菜さんともそんなに実はお会いしていないんですよ。もう一年も働いてもらってるのに」
「やっぱり、かなりお忙しいんですね」
当たり障りのない会話をしていると、ワインが運ばれてきた。静かに赤ワインがグラスの中に注がれていく様子は、いつまででも眺めていられた。これから大事な話をするというのに、すでに場に酔っているのかもしれない。
全然分からないワインの説明を聞いてから乾杯した。ツアーの打ち上げでも飲んだことのないような、高級な匂いと味がした。気付いたら、一気に飲み干していた。
「お酒強いんですね」
「普段は飲まないんですけどね。おいしかったので、つい」
「気をつけてくださいね」そう言う信哉は、ほとんどワインに口を付けていなかった。
前菜を食べ終えた頃、結衣から切り出した。「単刀直入に聞きますけど、私たちがお宅に転がり込んだら、嫌じゃないんですか」
「いやあ、正直、僕としては一刻も早く来ていただきたいくらいで」口に手を押さえながら信哉が答えた。信哉の方が食べるのが遅かった。「単純に、陽菜さんに毎日いていただいた方が助かるし。それに、子どもたちもかなり懐いていて。実は、少し勉強まで見てもらってるんですよ。茂さん、算数教えるのすごく下手で、僕も勉強はあまりできないから、助かってます」
「へえ」江口家の子どもたちの勉強まで見ているとは知らなかった。「でも、佐久間さんが他の人と、陽菜と事実婚ということになりますけど、抵抗ないんですか」
「それねえ」信哉は一瞬困った顔をしたように見えた。「最初、陽菜さんがウチで働き始める直前、茂さんから話聞いたときは、俺も認められないって言ったんです。茂さんはみんな家族って感じで考えますけど、俺は茂さんのことが好きで結婚したんで、茂さんに別のパートナーができるのは考えられなかった」
「そうだったんですね」結衣は少しだけ驚いた。佐久間からは本人も言っていたくらい恋愛の匂いをまったく感じないが、現に佐久間は信哉という男性と結婚しているのだ。同時に、信哉の感覚が自分と近しく感じられて、安堵した。
「でも陽菜さんが来るようになって、環境が劇的に改善されて、子どもたちが明るくなったんですよね。子どもが明るくなると、家全体も雰囲気が良くなって。それに茂さんと陽菜さんが一緒にいる姿を見ていても、まあ茂さんのことだから絶対に恋愛関係には発展しないだろうなとは思っていましたけど、特に焼きもちも湧いて来なくて」
「絶対ないって、何で分かるんですか」
「聞いてませんか? 茂さん、恋愛したことないって」
「それは以前本人が言ってました」
「だからですよ。俺のことも恋愛としては好きじゃないんです」信哉の顔は少しさみしそうだった。
「長年思い続けている人が、自分の方には振り向かないと分かっていながら生活を共にするのは、しんどくないんですか」結衣は、頭の中に浮かんだ疑問を無意識に口にしていた。「すみません、私なんてことを」
「いえいえ。実際、しんどいですよ。慣れましたけど」信哉の声はどんどん小さくなっていった。「けど、それを相手に押しつけて嫌な思いをさせるのは不本意ですし、もう子どもも茂さんを父親だと認識している今は、現実的に別れるのも難しい。それに、パートナーとして茂さんがいることですごく助かってますから。今は家族として接しています」
「すごいですね、私だったら無理かも」
「まあ、そういうわけで、実際陽菜さんが来ても嫉妬心も芽生えなかったわけです。こうなりゃ家族があと三人くらい増えたってどうってことありません。だからきっと、結衣さんも意外とウチに来ても案外すんなんり慣れると思いますよ」
次のメニューが運ばれてきた。ラムシチューだった。
「そういうもんですかね」
「そういうもんですよ」




