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結衣はしばらく黙って佐久間を睨みつけた後に、再び口を開けた。「それで、まあヘルパーはいいとして、何で結婚が前提になるんですか」
佐久間は陽菜を見つめて、しばし口を閉ざした。
「答えてください」沈黙に痺れを切らして結衣が急かした。
「陽菜さん、いいですか」
「ええ、いずれ伝えないといけないですし」
「何ですか」結衣はまったく苛立ちを隠せていなかったが、隠す気もなかった。
「道鬼さん家、お金厳しいですよね」
結衣は黙った。
実際、道鬼家の家計は火の車だった。結衣が一生懸命働いても、女性だからと相手に能力を低く見られることもしばしばあった。それに加えて、フリーランスは働いてから収入が振り込まれるまで期間があく場合も少なくなく、今月はよく働いたのに口座にはあまり預金が残っていないということもよくあった。蓮が小学生になってからは陽菜もパートで平日昼間は働いていたが、蓮にさせている習い事の月謝でその大半が消えた。家計が圧迫しても、蓮に習い事を一つもさせないというのは、結衣と陽菜のプライドが許さなかった。
さらに、蓮の希望で地域の野球チームにも入れると、消耗品である道具や遠征費、積立金などで、陽菜がパート代の残りで頑張って貯めていた貯金も、みるみる残高が減っていた。
「それは私たちで何とかします」結衣は意地でそういったものの、実のところ何のアイデアもなかった。
「何とかするって、どうやって。現実考えてくださいよ」陽菜が結衣に問いかけた。柔らかそうな雰囲気を見に纏っていることが多いが、いつも現実を直視しているのは陽菜の方だった。
「いざとなれば、私が就職して安定した仕事に就けば」
「それは嫌!」陽菜が結衣の膝を軽く叩いた。「トランペット始めたの、小学生からでしょう? それからこんなに長いこと続けてキャリアも積み上げたのに、そんなに軽々しく捨てるようなこと言わないでください」
「家族の方が大事だよ」
「まあ、まずは陽菜さんに僕の家で働いてもらって、僕はお給料って形で道鬼さん家をサポートさせてください。でも、県内でそこまで家も遠くなかったから、一緒に住むのもアリかなって、僕は思ってて。部屋も余ってますし。あと陽菜さんとは、連絡させていただく中で、価値観合うなって思ったんです」
「価値観、とは」
「読書が好きで、大切に思ってるところとか。佐久間さん家、家の廊下に本棚があって、たくさん本があるんですって。それに、佐久間さんも大学でアカペラサークル入ってて、音楽好きだって。あと、食事を大事にしてるところも」陽菜が嬉しそうに話した。いつか大きな本棚がある家に住みたいというのは、陽菜の口癖だった。
「食事は身体作りの基本ですからね。まあ僕が言っても説得力ないですが」
「陽菜さ」結衣が小さな震え声を出した。「佐久間さんのこと、好きなの?」
「え、好きっていうか」
「いや、そういうのはまた別の話で」佐久間も手を横に振った。
結衣が顔を覆った。
「やっぱり陽菜が別の人とも付き合うのは考えらんない」息もどんどん荒くなる。正気を保てそうにない。
「無理」鞄から財布を取り出し、テーブルに一万円札を叩きつけた。「もう帰ろう」陽菜の腕を強く引っ張った。
「ちょっと」陽菜が結衣の手を振り払おうとした。「全然話終わってませんよ」
「いや、無理しないでください」佐久間が立ち上がり、一万円札を手に取って結衣に渡した。「でもこれは蓮くんや陽菜さんのために使ってください」
舌打ちをして一万円札を奪うように受け取り、陽菜の手を引っ張って店を出た。




