圭吾の反撃
朝一番で、企業専門の調査会社に遠藤電機の調査を依頼し、身辺調査専門の事務所に遠藤美夏個人の調査を依頼して、圭吾は一人、社長室から空を眺めた。
このクラスの会社の社長にしては珍しく、圭吾は秘書を置かない。会社の方針というわけではないので、他の重役は専門の秘書を付けている。
圭吾は自分の管理は自分でしても問題無く回せるキャパシティを持っているし、何より四六時中他人に張り付かれていると監視されてるようで気が滅入る。
どれだけ好意的な視線を向ける人間も、どうせ自分と許嫁なら許嫁の言い分を信じるんだろうという鬱屈した思いまで浮かぶ。もはやトラウマだ。
蓮花は信じてくれたな。
空からパソコンの画面に視線を戻した圭吾の口許に微笑が浮かんだ。
許嫁と会ったことが無いから適当に迎合しているのではなく、ちゃんと圭吾と向き合って話を聞いて自分の考えを述べてくれた。今までそんな人間はいなかった。
「俺が相手を軽んじていたから、皆、俺に対してそうしたんだろうな」
必要な情報を速読で頭に入れて、圭吾は立ち上がった。
蓮花の顔が見たい。フレックスを使っていても、出社してる時間だ。仕事の邪魔はしたくないから、遠くから少し見るだけでいい。
システム開発課のフロアに降りて、蓮花が居るはずの席を見ると、パソコンの電源すら入っていない。
何か嫌な予感がして眉を寄せた時、システム開発課長に声をかけられた。
「社長、どうしました?」
「安倍蓮花さんは休みですか?」
質問に質問で返すと、課長は誤魔化すように慌てて答える。
「私はすぐに報告しようと思ってたんですが、安倍さん本人が大したことはないと言うので、安倍さんのために大事にしない方が良いかと」
「要点を報告してください」
苛立ちを隠し、努めて冷静に圭吾は言った。自分よりも若い、特に女性が有能だと、その人の性格云々関係なく憎まれてしまうことはある。
尚も言いたくなさそうな課長を視線で場に縫い止め言葉を待っていると、渋々といった体で話し始めた。
「安倍さんは、警察に寄るので遅れるそうです」
「警察?」
「はぁ。今朝自宅近くで暴漢に襲われたそうで。女の一人暮らしなんてやめて、さっさと寿退社でもすればよかったんですよ」
「怪我は」
「さぁ。かすり傷らしいですし、逃げる時に転びでもしたんじゃないですか? 背が高いくせにハイヒールなんか履いてますし」
いくら有能な部下が妬ましくても、暴漢に襲われて怪我をした女性にこの言い様は人としてアウトだ。
圭吾は目の前の中年男を殴りつけたい衝動を抑え短く指示を出す。
「安倍さんが出社したらすぐに社長室ヘ来るよう伝えてください」
「えぇ?」
「直接報告を聞きます。課長に報告する必要は無いのですぐに。分かりましたか」
舌打ちをしそうになるが睨むに留め、了承の言質を取ると踵を返して社長室に戻った。
昨日の今日で、偶然とは思えない。
だが、今すぐ彼女のために出来ることも無い。
圭吾は後の時間を空けるため、スケジュールを組み直して猛然と業務に取り掛かった。
夕方近くになって、待人は余計なオマケと共に社長室に来た。
猫被りバージョンの蓮花とヘラヘラしているシステム開発課長だ。蓮花の右腕に巻かれた包帯に眉を顰めてから、圭吾は課長に冷たい目を向けた。
「課長に圧力をかけられていると安倍さんも話し難いでしょうから、課長は業務に戻ってください」
「いえそんなことは! 私は安倍さんが社長と二人きりだと緊張して話せないと言うので付き添って来たんですよ」
「安倍さん、事実ですか?」
「いいえ」
「安倍! さん、ハハ、イヤだな。嘘はダメだよ〜」
部長以上の人事は自分も精査していたが、課長以下は殆ど父親の代のまま放置してきた。圭吾はシステム開発課長のあまりの長としての器の無さに目眩がする。
この課長の下では有能な人材ほど逃げ出してしまうだろう。蓮花が未練無く会社を去ろうとしたわけだ。
「先程からの課長の態度で彼女が普段どういう扱いを受けているのか、よく分かりました。私は暇ではない。安倍さんに話があるので課長は早く退室してください。これ以上私を煩わせるな」
三年前に代替わりしたばかりの若い社長ゆえに、古くからいる年長者には丁寧に接してきたが、それが仇になってしまった。
強く言ってようやく邪魔者を追い出し、圭吾は先ず人事部の全員に明日の緊急会議の召集を社内メールでかけ、蓮花の傍に立つ。
「嘘偽り無く状況を報告してくれ」
「今朝、出勤のためにマンションの自室を出たら、扉の前に居た男に折りたたみ式のナイフで襲われた。右腕に切り傷。全治三週間。犯人は気絶させて警察に引き渡した。面識の無い男で、現在完全黙秘中。警察に心当たりを聞かれたけど、分からないと言っておいた」
淡々と報告する蓮花の右腕の白い包帯から圭吾は目が離せなかった。
確証は無いのに、自分に関わらせたせいだという考えが頭を占拠して行く。
「蓮花、もう、止めよう。お前がこんな目に遭うくらいなら、俺は誰と結婚してもいい」
震える声で告げる圭吾に向けて、蓮花は深々と溜め息を吐いた。
「馬鹿? 全治三週間と残り一生分の人生を同じグループで計算するな」
「怪我が三週間で治っても傷痕は残るだろ?!」
「私の実家は総合病院で、腕のいい皮膚科医もいる。それに顔ならともかく、腕の傷など私は気にならない」
「ゲームじゃなくて現実なんだぞ!! 腕じゃなくて急所を狙われたら死んでただろ?!」
「急所は狙われた」
やはり淡々と突き付けられた事実に、圭吾の血の気が下がって行く。
「どういう、こと、だ?」
「これでも女の一人暮らしだから、部屋を出る前は毎回気配を窺ってから鍵とドアを開けてる。全く気配が無かったし、出た瞬間に首を狙われた。動いても足音もしなかったから靴も特殊な物だと思う。多分、プロだ」
へー、プロの殺し屋を気絶させて警察に突き出したんだ?
妙に現実味の無い感想が先に頭を擡げ、次いで沸々と怒りが込み上げた。
「いい加減にしろ!! お前がそんな奴に殺されかけて俺が平気だと思ってるのか!!」
怒鳴りつけて蓮花の肩を掴んで揺さぶる。
「お前がどれだけ強くたって心配するに決まってるだろ!! お前の方に狙われる心当たりがなければ、どう考えても俺のせいじゃないか! 俺のせいでお前が危険な目に遭うのは俺が嫌なんだよ!!」
「圭吾。落ち着け。傷が開く」
憎らしいほど落ち着いた蓮花に諭され、圭吾は小さく謝って肩の手を背中に回し、ソファに座らせた。
「傷、大丈夫か?」
「痛み止め効いてるから」
何か言いかけて止めた圭吾が隣に腰を降ろすと、蓮花は隣ではなく前を向いて話し始めた。
「家は、家族みんな仲が良いんだ。きょうだいも四人いて、兄と姉は未だに可愛がってくれるし妹は可愛い。兄が子供の頃から病院を継ぐ意志を持ってくれたから、下の姉妹は皆好きなように人生を選べた。結婚だって、相手も、するかしないかも自由に選べる。何も不自由したこともないし、孤独を感じる必要も無かった。家族に疑われたことも無いし、家族が好きだと自信を持って言える。
私にとっては、そんな恵まれた環境が生まれた時から日常として与えられてきた。
もし、これが私に与えられていなければ、私の世界は何一つ無かったと思う。生きることなんか無理だったと思う」
蓮花は隣で俯く圭吾に向き直り、彼の手を取る。
「圭吾は強い。一番信じて欲しい人達が信じてくれなくても、何処より安心できるはずの場所で頑張り続けなくちゃいけなくても、もう三年もこの会社を維持して、先代より業績も株価も上がってる。若い社員は、以前より働きやすくなったって言う人も多いんだよ?
私は、頑張ってる人が報われないのは嫌なんだ。圭吾はすごく強いけど、互いに望んでいない相手と生涯を共にしてたら、多分、心は死んでしまう。相手の人だって幸せだと思えない。
私は、人生は死ぬ時にはプラマイゼロになると思うんだ。いいことも悪いことも、幸も不幸も、喜びも悲しみも、色々。だから、圭吾が信じられなかったり疑われた分、これから圭吾を信じる人や圭吾が信じられる人と出会えるはずだし、居心地のいい家庭が得られるんだ。諦めなければ。
圭吾、私は諦めたくないし、圭吾に諦めさせたくない」
俯く圭吾の顔の下で、握った手がどんどん濡れていった。
そのまま静かに時計の音を聞いていると、強く手を握り返した圭吾が泣き腫らした目を隠すことなく顔を上げる。
蓮花を見つめる眼光は、以前よりずっと力強かった。
「蓮花が傍にいてくれるなら俺は自分の人生を諦めない。けど、もう、こんなのは嫌だ。頼むから俺にも蓮花を守らせてくれ」
「わかった。さすがにこの状況を一人でどうにか出来るとは考えてない」
「じゃあ、今日から俺の部屋で暮らしてくれ」
「え?」
「殺し屋が来た部屋に帰せるわけ無いだろ。その腕で電車に乗せるのも心配だ」
何だろう。圭吾がすごくイキイキしている気がする。
蓮花が首を捻っている間に、正論を並べ立てて圭吾は上手く丸め込み、終業時刻になると蓮花を車に乗せて、意気揚々と自宅ヘ連れ帰った。