蛇の目の零戦
架空戦記創作大会2020春 お題1,2です。
現代に至るも、大英帝国国民の間で一番人気の第二次大戦期の戦闘機と言われれば、その流麗なスタイルとともに、本土の空をドイツ軍から守り切ったという輝かしい栄光を持つ「スピットファイア」戦闘機であることは、論を持たない事実である。
では二番人気の機体はと聞かれれば、こちらも現在に至るまで変わらない結論となりうるだろう。それは「ハリケーン」か「ゼロ・ファイター」のどちらかだということだ。
「ハリケーン」は「スピットファイア」より1年早く採用された低翼単葉戦闘機で、鋼管羽布張りという「スピットファイア」に比べて旧式な機体構造を採用し、スタイルも野暮ったさを残していたが、一方でそれは堅実な機体ということもであり、英本土防空戦の時期には「スピットファイア」に勝る数が配備され、英本土防空に活躍し、その後も各戦線で地味ながらも良く戦い抜いた。
この「ハリケーン」と「スピットファイア」は英国の国産戦闘機である。
一方の「ゼロ・ファイター」は、英国製ではなく日本製の艦上戦闘機である。日本名は零式艦上戦闘機といい、同国の天皇の暦で言うところの紀元2600年(西暦1940年)の正式採用を表している。
言うまでもなく、大日本帝国は大英帝国の大切な同盟国である。当初対ロシアのために結ばれたこの同盟は、第一次大戦後のワシントン軍縮条約の際に廃止も議論されたというが、第一次大戦によって打撃を負った大英帝国が、亜細亜方面での権益(安全)の確保。さらには直接の戦場とならず、その生産力を見せつけたアメリカ合衆国や、帝政を倒し共産主義国家へ変貌したロシアへの抑えとして、同盟継続を強く希望したため、その後も維持された。
この結果1931年の9月と1937年の7月に中国大陸の満州や北京で、日本軍が現地の軍閥や中華民国軍と軍事衝突する事態も発生したが、いずれも英国側が仲裁したことで一時的な武力衝突のみで終わっている。
ちなみに、第一次大戦以前まで日本陸軍は兵制をドイツ(プロイセン式)としていたが、そのドイツが敗戦国となったのに加えて、大戦中イギリス軍が戦車を投入するなどの先進性を見せたこと、さらには後の昭和天皇が皇太子時代にイギリスを訪問するなどしたため、1920年代に入ると陸軍の兵制もイギリス式へと徐々に移行。1938年には制服もイギリス式の開襟服に変更している。
さて、そうして同盟関係を堅持した日英であるが、ヨーロッパにおいてはドイツにおいて政権を奪取したヒトラー総統率いるナチス政権が再軍備を宣言し、急速な軍拡と、様々な手段を用いての周辺地域の併合を進めた。そして、1939年9月にはポーランドへと侵攻した。第二次欧州大戦のはじまりである。
一方英国は、それまでの融和主義を捨ててドイツに宣戦布告。日本は直接の宣戦こそしなかったが、英国との同盟関係とナチス政権誕生直後から黄色人種への差別発言を隠そうともせず、対日非難を繰り返すドイツへの嫌悪感もあり、明確に英国支持を表明し、英国への援助を開始した。
とは言え、攻勢側として勢いに乗るドイツは周辺諸国を次々と占領し、陸軍大国フランスを降して後はドーバー海峡を挟んだイギリスのみが孤軍奮闘、という所まで押し込まれた。
しかしそこはイギリスである。英連邦を形成する国家から戦力を呼び寄せるとともに、中立にはあるものの同盟関係を結ぶ日本や米国に援助を要請した。
さて、日本と米国は英国から見ると同盟国であるが、当の2カ国はといえば太平洋やアジア地域での覇権を争うライバル国同士である。イギリスはこのライバル心を煽ることで、巧妙に両国から多量の援助を引き出した。
米国が旧式駆逐艦と基地使用権と代替に送れば、大日本帝国も旧式駆逐艦を電子技術と引き換えに引き渡す。米国が義勇兵を英本土に送りこめば、日本側も義勇兵を地中海戦域に送り込む。こんな感じであった。
そんな中、本土に追い詰められたばかりの英国が欲したのは、本土の空を守り、なおかつ敵国ドイツへ手痛い反撃を行える航空機であった。
この内本土防空に使える機体は、自国で急ピッチで生産する「ハリケーン」や「スピットファイア」があり、さらに米国からはP36「ホーク」戦闘機などが提供された。
一方ドイツへの反撃に使用できる機体は、爆撃機はあるものの護衛戦闘機がなかった。何せ英国にしろ米国にしろ、戦闘機の航続距離は巡航であっても2000kmに届かないのであった。
そこで大英帝国が目を付けたのが、日本海軍が開発中の新鋭戦闘機であった。同盟を結んでいる大英帝国と大日本帝国では、そもそも日本海軍自体がイギリス式であり、また航空関係では後進国である日本に対して多くの技術指導や技術提供を行っていた。
そのため、大英帝国は日本海軍が艦上戦闘機として正式採用していた三菱製の96式艦上戦闘機の実機を入手するとともに、その後継の12試艦上戦闘機の情報も得ていた。
96式艦上戦闘機に関しては、日本海軍初の全金属性単葉艦上戦闘機として名高いが、同時期に「スピットファイア」や「ハリケーン」が初飛行した英国からすると、固定脚で開放風防というのは古臭い印象を与えるとともに、性能も複葉戦闘機とは隔絶しているが、目を見張るものでもなかった。
一方で大英帝国海軍航空隊は、この機体の安定性の高さと燃費の良さ、落下式燃料タンクを付けることで航続距離を延伸できる点に着目した。
日本海軍の祖とも言うべき大英帝国海軍は、この時期複数隻の航空母艦を運用していたが、ではその艦載機はと言えば、時代遅れとは言え雷撃機としては安定したプラットフォームである「ソード・フィッシュ」を除くと、いまいちパッとしない機体ばかりであった。特に艦上戦闘機は、未だに複葉の「グラディエーター」戦闘機であるのは問題であった。
そこで大英帝国海軍は日本海軍に、まず96式艦上戦闘機の購入を匂わせながら、12試艦上戦闘機の情報収集に入った。
ところがここで、大英帝国海軍の予想に反する出来事が発生した。なんと逆に日本側が12試艦上戦闘機の売り込みを図ってきたのである。
これはどういうことかというと、単純にセールスの問題である。と言うのも、生産元である三菱が当時の大日本帝国海軍航空隊向けに戦闘機を製造したところで、その総生産機数は1000機を超えないのは目に見えていた。
こうなるとメーカー側として多額の設備投資をする割には実入りが少なく、また海軍側も購入単価の上昇に直面する。
となれば一番いいのは輸出であるが、ここで12試艦上戦闘機の特殊さが逆に仇になる。空母発艦後に長時間に渡り艦隊防空を行うために与えられた長大な航続力も、また来襲した敵爆撃機を撃破するための強力な武装も、空母上でとり回すための艦上戦闘機としての各種装備も、日本が当時航空機の輸出先として目を向けていたアジアや中南米諸国の国々で使うには、オーバースペックにしかならない。
実際、この手の輸出用として売れたのは中島が陸軍向けに製造した97式戦闘機、一式戦闘機、二式戦闘機などで、12試艦上戦闘機こと零戦はほとんど売れていない。
そんな12試艦上戦闘機に、大英帝国海軍が興味を抱いたのである。これは新たな顧客を獲得するとともに、帝国海軍の師にして航空の分野でも先を行っている同国に売り込むことで、日本の航空技術に箔をつけることができる。
それからもう一つ、英国から液冷エンジンの技術導入にもつなげたいという、淡い期待もあった。
それまで日本は液冷エンジンに関して、ドイツのベンツやユモ社からの輸入に期待する部分があった。しかし、ナチス政権発足後の関係悪化から、その見込みは薄くなった。となると、次点として英国のマリーンに目を向けるのは、ある意味当然のなり行きであった。
こうして日英側の思惑が一致して、まず前段階として「グラディエーター」の代替機名目で96式艦上戦闘機60機が大英帝国海軍に譲渡された。
そして続いて、本命とも言うべき12試艦上戦闘機が大英帝国海軍に譲渡された。ただし、これは試作機の内の1機で、日本国内で大英帝国海軍関係者の立ち合いの元、主に性能確認に利用された機体であった。
この段階で大英帝国としては、早急な発動機強化による最高速度の増加や、その分馬力を防弾版など防御力や機体強度強化に振り向けるよう要請した。彼らからすると、確かに驚異の格闘性能と航続力ではあったが、速度面で物足りず、またこの頃急速に発展しつつあった防御性能が皆無である点が不満であった。
もっとも、この改良には時間が掛かるし、大英帝国が戦闘機として必要としているのは今である。
結局日本海軍でもまだ制式採用前の状況での見切り発車で、まず40機の購入契約が結ばれて大英帝国に送られた。この初期ロッドは完成を急いだため、艦上機としての装備を一部オミットし、日本海軍では11型として採用される機体であった。ちなみに英国名はMk.1である。
なお日本海軍における11型は性能評価目的で領収された分のみで、ほぼ幻の型となった。
続いて本命とも言うべき、艦上戦闘機としての本格的な装備を整えた英国名Mk.2日本名21型400機の生産契約が結ばれ、大英帝国に輸出が開始された。
とはいえ、日本海軍で制式化された時の名前が零式艦上戦闘機とあるように、英国からの要請と援助で生産が急がれたものの、1940年6月から始まる英本土航空戦に参加できた零戦はMk.1とMk.2の一部で、機数自体は100機にも満たなかった。
しかしながら、配備された零戦は少ない機数ながら、戦局に大いに貢献する働きをすることとなる。
と言うのも、先述したように大英帝国では零戦の欧州機にはない長い航続力を活かして、敵地へ向かう爆撃機の護衛戦闘機として利用した。
機数自体が少ないため、その出撃回数は同時期に英国本土を空襲していたドイツ軍機のそれに比べれば微々たるものでしかなかった。しかしながら、大英帝国のラウンデルを主翼と胴体につけた戦闘機が、それまで入り込まなかった奥地へと進入したことは、ドイツ側にとってはショッキングなことであり、英国にしてみれば快挙であった。
ただし、この時点では日本が中立ということもあり、日本製の零式艦上戦闘機と公言することは憚られた。そのため、内外に対して機体名は仮称として「フェニックス」と言う名が与えられ、製造元も架空の英国メーカーの機体として発表された。
投入機数こそ少数であったが、英国政府は名前をぼかしつつも蛇の目マーク入りの零戦の姿を大々的に発表した。もちろん、これはプロパガンダ目的であったが、突如現れた新型機に英国国民は歓喜し、対しててドイツ側はその性能把握に躍起になった。
なお、この英国側の対応のために本来開発を進めていた大日本帝国海軍では、ドイツ側に「フェニックス」が零戦であると知られるのを防ぐ必要がでた。そのため暫くの間は新型戦闘機に関して「実用化までに多少の改良あり」という言い訳を議会などにして、写真の公表を控え、なおかつ零式艦上戦闘機の名前を極力使わなかった。
もっとも、配備が進めば情報が漏れるのは当然のことで、結局1941年に入って日本海軍は零式艦上戦闘機の名前と姿を公にしている。もっとも、この時にはドイツが対日参戦しており、何ら問題なかったが。
ちなみに、購入された機体は当初全て海軍籍に入った機体であり、ドイツ空襲は空海共同作戦であった。
これは零戦の購入はあくまで艦上戦闘機として、海軍が行っていたことに加えて、空軍が飛行機開発では後発の日本製の機体に対する不信感があったからだ。
実際、工作精度が未だに安定しない部分があるゆえに、零戦は発動機からのオイル漏れや各種レバーなどの動作が滑らかでないなど、問題があったのも事実である。
だから空軍としては「できるものならやってみろ」程度に共同作戦をしたというのが現実であった。
ちなみに、こうした欠点はその後英国や米国から航空技術や工作機械を入れたことで、1945年頃までにはほぼ解消している。
しかしながら、空軍の爆撃機が海軍の戦闘機に護衛されて任務を完遂したというのだけでも一大事なのに、さらにその機体が日本製ながらドイツのメッサーシュミットと互角に戦ったことに、大きな衝撃を受けた。
そこで遅ればせながら、空軍も日本の零戦に触手を伸ばした。そして最終的に、空軍も日本の三菱から400機の輸入契約を結んでいる。
なお、この時には生産ラインが全て日本名の21型に統一されていたため、空軍は艦上機タイプのMk.2を輸入し、本国で一部の装備を外すという手間を生じている。
そして英国で、具体的には英国本土周辺の空で戦った「ゼロ・ファイター」はこのおよそ800機のみであった。英国本土航空戦が終結し、アメリカなどからもP40やF4Fなどの機体が輸入されるようになると、零戦は活躍の場を失い退役していった。
またこのMk.2の後には、日本で開発された32,52、54型に相当するMk.4やMk.5、Mk.7と言った機体も書類上は存在したが、いずれもサンプル的な機数のみで、実戦には就かなかった。
一方海軍向けの輸入機は、その後複雑な変遷を辿った。英国海軍では艦上機として安定したプラットフォームである零戦を歓迎し、その後米国製のF6Fや零戦の後継機である「烈風」の輸入まで、正規空母では運用を継続した。また護衛空母などの軽空母では、大戦終結まで使用し続けた。
ただし、英国人のパイロットや整備員に不評であったのが、発動機であった。先述した工作不良があるのに加えて「栄」エンジンが低馬力であったからだ。
そこで大英帝国海軍は零戦の製造元である三菱に、英国で手に入りやすい「マリーン」エンジンへの換装と、ならびに極限まで軽量化を追求し、生産性に難のある機体の改設計を求めた。
この時三菱は、零戦の日本海軍向け改良や後継機の開発に忙しく、この改良作業は空技廠に委ねられた。
空技廠では、この空冷から液冷への換装と言う前代未聞の課題に頭を悩ませたが、断るわけにもいかなかった。空技廠は英国から様々な技術供与を受けており、特にドイツから入手困難となった液冷エンジンの代替として、英国製の「マリーン」を受け取っていたからだ。
こうして空技廠での改修はその威信を掛けて進められ、液冷に強い川崎飛行機の協力を受けながら、設計から試作機完成まで1カ月という超短期間で行われた。
もちろん、単に液冷への換装だけではなく英国側の要望である量産性の向上のため、本来空けられていた肉抜き作業をオミット、さらには自動消火装置の設置や防弾装備の強化なども行われた。これは零戦の性能を担保してきた軽量化を疎かにする処置ではあったが、その分は「マリーン」エンジンの馬力向上分で相殺するということで進められた。
完成した試作機は日本では零戦と根本的に違う機体として、1式艦上戦闘機と命名された。しかし英国側ではあくまで零戦の改良型として扱い「ゼロ・ファイター」のMk.3となった。
機体の性能は最高速力の増加こそ期待したほどではなかったが、機体の強度強化と防御力向上により、英国海軍では高い評価を得た。航続力は大幅に落ちていたが、英国基準ではまだ充分な水準であったので問題にならなかった。
そしてこの「ゼロ・ファイター」MK.3はかなり特異な経歴を辿ることになる。まず先行量産の機体100機分は日本で製造され、エンジンのない首なし状態で、北アフリカ戦線に程近いエジプトへと送り込まれた。そこでイギリスから運ばれた「マリーン」を航空工廠で装着するという荒業が用いられた。
こうした経緯から「ゼロ・ファイター」Mk.3は、主に北アフリカからマルタ島にかけての地域で運用された。英国海空軍のみならず、一部の機体は現地に進出した日本海軍航空隊でも運用された。
この地中海方面における運用機数も、他の機種に比べて突出して多いわけではなく、むしろ総数で見れば少数派であった。
しかしながらバトル・オブ・ブリテンの時同様、ここでもドラマチックな活躍をしたことや、宣伝材料(日英共同運用機として大々的にメディアに露出した)多く使用されたこともあって、英国民に強くその存在を印象付けた。特に陥落寸前のマルタ島を守り切ったことで、その名を再び押し上げた。
1943年に入るとこのMk.3も後継機に徐々に置き換えられ、1945年5月の終戦時点で英国内で第一戦機として使用されている「ゼロ・ファイター」は護衛空母と軽空母用の機体のみとなり、それらも大戦終結後には実戦機としては退役となった。
一方でその安定性の良さから、戦後もしばらくの間は高等練習機やアクロバット機として用いられた。
そして終戦から75年が経過した現在も、イギリス国内には稼働機が複数残され、現在まで続く日英同盟の象徴として飛び続けている。
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