02 遅れてきた末っ子竜
さて、目の前の光景にすっかり心奪われていたが、私のすぐ近くに森以上の驚きが待っていた。
それは、竜。西洋ではドラゴンと呼ばれるアレだ。
目の前にいたのは、真っ赤な鱗を持つ赤い竜だった。
その大きさは、多分ビル五階分ぐらいはあるんじゃないかと思われる。
竜は殻から頭だけ出した私を見下ろし、ギャアギャアと低い声で鳴いた。
瞬間的にヤバイと思った。なにせこちらは身動きができない。あのドラゴンが一歩踏み出しただけで、私は踏み潰されてしまうわけである。
まさに蛇に睨まれたカエル。猫に睨まれたネズミである。
まるで森の中でツキノワグマにでも出会ったような気分で、私はそのまま呆然としてしまった。
しかしどれだけ待っても、竜は私を襲ってこようとはしなかった。
すると続いて、今度は赤い竜よりも近い場所からギャアギャアと騒がしい鳴き声が聞こえてきた。
何かと思いそちらに視線をやると、今度は私より少し目線の高い小さな竜達が、なにやら興奮したようにこちらを見ているではないか。
水色の竜と赤い竜が二頭ずつ。
長い尻尾を地面に叩きつけたり、羽を広げてばさばさと動かしている。
危機感は先ほどの赤い竜ほどではないが、子竜とはいえ今の私には十分な脅威だ。
とにかくこの殻から脱出しないとと、とにかく手足を無茶苦茶にばたつかせてみた。
だが、頭突きによってようやく割れた殻はやはり固く、短い手足によるアタックではなかなか割れてくれない。
鶏の卵を割るのは簡単なのに、包まれているとこんなにも大変なのかと溜息をつきたくなる。
命の危機なので、溜息なんてついている暇はないが。
すると、さきほどまで騒がしくしていた子竜達が、めいめい私の方に近寄ってきた。
無抵抗の相手に何をする気だとみていたら、なんと私を助けるように口先で殻をこつこつとつつき始めたではないか。
だが、よく考えると助けるためではなくて、殻を破って体から食べようとしているのかもしれない。
だとするとこの殻から出ない方がいいのだろうか?
私は悩んで、とりあえずじたばたをやめた。
だって殻が割れた瞬間、今度は体をこの子竜達に八つ裂きにされないもの。
しかし、四頭の竜のキツツキのような攻撃によって、頑丈な殻にピシリと亀裂が走った。
このままでは、殻が破れるのは時間の問題だ。
もはやこれまでかと思ったその時、それまで事態を傍観していた巨大な赤竜が、ひときわ大きな声でギャーーー! と鳴いた。
私達のいる場所は小高い場所なので、辺りの森にも赤い竜の鳴き声が響き渡る。
すると、ピタリと殻をつつくのをやめた子竜達。
どうも、この小さい竜達は赤い竜の子供達であるらしい。
赤竜はまるで言い聞かせるように、子竜達にぎゃあぎゃあと何か言っている。
助かった―――のか?
それにしても、これからどうしようかと私は困ってしまった。
殻から出なければ、この場から逃げ出すことはできない。
けれど殻という防御を失ったら、子竜達に八つ裂きにされるかもしれない。
つまり、殻を破っても破らなくても絶体絶命に代わりはないということだ。
まったく、昨日まで真面目に会社に奉仕していた人間に、これはあんまりな仕打ちじゃないだろうか。
王様にしてくれとは言わないが、せめてももっと平和的な場所で目を覚ましたかったものである。
そうしてしばらく現実逃避していたら、小高い丘の上に今度は人間が現れた。
水色の長い髪をした、とっても綺麗な男の人だ。
え、いつの間にとか、どうしてこんな危険な場所にとか、不思議なことは色々あったが、ようやく人間が現れたことに私はほっと安堵した。
『あの、すいません!』
話しかけてみるが、喉から出るのはギャアギャアという呻きばかり。
まるで先ほどの子竜達のような声である。
私はめげそうになりながら、どうにかその男性とコンタクトを取ろうと試みた。
水色の髪と彫りの深い顔立ちをしているから、おそらく日本人ではないだろう。日本語が通じるとは思えなかったが、今の私には彼だけが唯一頼みの綱なのだ。
めげずにギャアギャア言っていると、男性がこちらへ近づいてきた。
やがて彼は私の目の前までやってくると、その美しい容姿でうっとりととろけるように微笑んだのだった。
『ようやく生まれる気になったか。我らが最後の子』
彼の言葉は日本語ではなかったが、なぜか言っていることは理解することができた。
理解はできたのだが、言っている言葉の意味が全く分からない。
呆気にとられていると、彼はなおも私に近づき、そしてその手のひらを私の頬に押し当てた。
『それにしてもまさか、黒竜が生まれるとは』
彼の目はどう考えても私を見ていた。
もしかしてもしかしなくても、黒竜とは私のことを言っているか。
一瞬そんな考えが過ぎる。
そんな馬鹿な。
私はただの社畜OLで、誰にも迷惑を掛けず大人しく暮らしてきただけなのに、一体この男は何を言ってるんだ?
反射的に、私は自分で破った穴から頭を引っ込めた。
完全にキャパオーバーになったのだ。目を覚ましてからこっち全ての出来事が、私の想像を軽々と越えていた。
次に起きたらもとの部屋に戻っているといいのにと思いながら、私はもう一度微睡みの中に逃げ込むことにしたのだった。