第三話 人生の計画表
身体が軽い。さわやかというか、すっきりしたというか。実際に身体が軽くなったわけではないのだろう。こういうの、プラシーボ効果って言うんだっけ…いや、頭の悪さがバレるからやめておこう。無理に難しい言葉使わなくたって生きていける。
家に帰ると母が早めの夕飯を用意して待っていた。今夜はカレーらしい。いつも通り食べて、片付けて、自分の部屋に戻って。いつもと違うのは、私がカレーを食べるのは多くてもあと数回、と決まっていることか。
母には最初から言う気はなかった。もし言ったら、おそらく普通の家族の一員としては接してくれない。母にも、もちろん父にも黙っておこう。誰にも言わなくていい。世界に優しくしてもらう理由はないし、そもそも余命が1ヶ月であろうと優しくされない。バレてなきゃいいけどな。
いざ残り1ヶ月となると、何をしていいのかわからない。あまりにも急な割に、時間自体はそれなりにある。知り合いには知られたくないから、改めて感謝の気持ちを伝える…ってのは出来ないし。
最初は、ツイッターで余命の実況でもしようかと思った。
「余命がジャスト1ヶ月になったので、今から私の1ヶ月を実況します」
頑張って宣伝とかしたら、結構面白がって見てくれる人がいるんじゃないか。7月30日の夜は小さな山の上かどっかで「最後の晩餐なう」とでもつぶやいてカップ麺の写真を上げる。最初はみんな信じてないけど、31日以降ぱったり音沙汰のなくなったアカウントを見て、徐々に疑問に思う。数日後のニュースで女子高生の遺体が見つかったこと、死因が不明なこと、遺体の近くにカップ麺のゴミがあったことが報道されて、初めてみんなが本当だったんだとわかる。2ちゃんねるなんかにある不可解な事件集に載ったりしたら、少しは有名になれるかも。
我ながらいい案だ、とその時は思っていた。しかしツイッターには、余命が宣告されているとプロフィールに書いている人が予想以上に多いと知った。それだけならまだしも、その人達は別段フォロワーが多いわけでも、注目されているわけでもない。
余命実況は、珍しいものではなかった。アカウントの中には、何年も前に更新が止まっている人や「今日の天気」「今日の運勢」だけがつぶやかれ続けているものもあった。きっと中の人はもうこの世にいない。私の思っている以上に、死は人の興味をそそらないみたい…ってのは不謹慎かもしれないが、今更気にしなくても、みんな許してくれるはずだ。
テーマは「自由」にした。「どうせ1ヶ月だから」を言い訳に、人に迷惑をかけない範囲で楽しく過ごそう。既に迷惑をかけまくっているのはどうしようもないが。
私はインドア派だが、実は旅行に少し興味がある。一人で出かけるのも悪くないかな。後は…久しぶりに翔と遊びたい。数ヶ月くらい遊んでない気がする。幼馴染、といういつでも会えそうな距離感が、逆にあまり会わなくさせている。
暫く考えたが、この二つの他には思い浮かばなかった。元々あんまり欲ってのがない。細かく言うともう一つやってみたいことはあるけど、相当な努力が必要だ。流石にそんな時間はないし、あってもやらない。
自由に過ごそう。やりたいことだけをやろう。自分で選んだ道だから。