◇第57話
シェイラが宝石箱から出てきて5日が経った。
そして事件は起こる。
何の前触れもなく。
―――――――否、前兆はあった。
「次期国王は我が息子に」
それが合言葉だ。
それ以外は何もいらない。
それはまるで呪文のように、彼の人を縛る。
その視野さえも狭く、そして、曇らせていく。
暗く静まり返った部屋の片隅で、怪しく揺らめく影は、鈍い光を放つそれを掲げる。
月の光に照らされたそれは、キラリと自身の存在を主張した。
「さよなら、シェイラ姫」
そう呟いた口元は赤く濡れていた。
弧を描いていたその唇は、やがて歪んでいくことになる。
シェイラだと思って乗っていたそこに、シェイラの姿はなく。
ただそこには丸められた布がそれらしい夜着と黒色の鬘を付けていただけなのだから。
「なぜ・・・・・!?」
呟いた瞬間に光ったのは、部屋の照明。
彼の人の耳に聞こえてきたのは、扉の開く音。
入ってきたのは、この国を支える国王と宰相、青を纏った騎士、そしてシェイラ本人。
「・・・レイチェル、やはり君だったんだな」
そう声をかけたのは、この国で最も高貴な存在であり、彼の人が最も愛したその人。
レイチェル、と呼ばれた側妃は、なんとも忌々しげにシェイラを睨み付けた。
「なぜ、このようなことを」
「なぜですって?キャレット様がいつまでも王位継承権をディーにくださらないからですわ」
レイチェルは決して悪びれることなく言ってのけた。
そこまでして王位が欲しいかと、キャレットはレイチェルを見て思う。
出会った頃はこんなことを言う娘ではなかった。
確かに王子を産んでほしいと、生まれれば王位を継がせることができると、確かにキャレットはレイチェルにそう言った。
それが禍だと、キャレットは気が付いていた。
「しかしディーはまだ15だ。それに・・ディーは王位を継ぎたがってはおらん」
その言葉に、側妃は目をカッと見開く。
その感情は、怒り。
「そんなわけありませんわ。ディーは心優しい子だもの。そこのシェイラ姫に遠慮しているだけですわ。しかし次期国王に相応しいのはディーですわ」
レイチェルはそう信じている。
否、疑ってすらいない。
この国の王になるのはディートリアだと。
自分が望んでいるのだから、当然ながら息子であるディートリアも望んでいると。
そう、信じてやまないのだ。
「・・・そうか」
「ええ。ですからキャレット様、どうぞ、息子のディーに王位を継がせてくださいませ」
「そのために、シェイラを亡き者にしようしたのか?」
その言葉に力はない。
しかしなにかの確認のようにも思える問いかけに、レイチェルは再び悪びれることなく「そうですわ」と言葉を口にした。
まるでその行為は正当化されるかのように。
「なぜですか、母上」
聞こえてきたのは、まだ年端もいかぬ若い声だった。
その声に今まで気丈に振る舞っていたレイチェルの顔が崩れる。
驚愕に見開かれたその瞳がとらえているのは、自分の最愛の息子であるディートリアだった。
ディートリアの瞳は悲しそうに揺れている。
「ディー・・?どうしてあなたがここにいるの?」
レイチェルはとても優しく、しかしどこか怯えながら前に出たディートリアに問う。
「なぜですか、母上。なぜ姉上を殺さねばならないのですか?」
「それは・・あなたが王座に座るために要らぬものは排除しなければならないからです」
その言葉に、ディートリアは顔を顰める。
とても辛そうに、ディートリアは自分の母を見つめている。
「・・僕は・・・・私は、一度も王位を望んだことはありません」
「ディー!なにを言っているの!?あなたは王になるために生まれてきたのよ!」
まるでそうだと言わんばかりに、レイチェルは言葉を紡ぐ。
「だってあなたは・・・!あなたはこんなにも頑張ってきたじゃない!帝王学も、歴史学も、剣術も、礼儀作法も、すべて!・・すべてこの国を背負って立つためにやってきたでしょう!?どうして!」
「・・・・違いますよ、母上」
「ち、がう?」
「・・私が帝王学も、歴史学も、剣術も、作法も、すべて頑張ったのは・・母上、あなたに見てほしかったからですよ」
「なに言ってるの?・・ディー、私はあなたをずっと見ていたわ」
レイチェルの声は心なしか震えている。
今起こっていることが現実でなければいいのにと、彼女が心の片隅で思ってしまった。
「いいえ、あなたは私など見てくれていなかったではないですか」
「何を言っているの!?私はこんなにもあなたを愛して!」
「母上、あなたが見ていたのは、愛していたのは、私ではなく王座ではないですか」
ディートリアはそう力なく言うと、とても悲しそうにレイチェルの姿を見た。
レイチェルの右手には、いまだに鈍く光るそれがその存在を主張している。
レイチェルは何も言い返せなかった。
自分は確かに息子を見ていたのだ。
息子を愛していたのだ。
それがいつからだっただろうか。
息子が、ディートリアが王座に座ることが、自分がここにいるための存在価値なんだと思い始めたのは。
ディートリアの姿を見ると、その奥に王座をちらつかせていたのは誰なのだろうか。
レイチェルはその場に力なく倒れ込む。
それを見た青を纏う騎士たちはレイチェルの手から短剣を奪うと、その華奢な身柄を拘束した。
「・・・地下牢へ連れていけ」
「「「はっ」」」
キャレットは重たくそう言うと、レイチェルを拘束している騎士たちは彼女を連れて地下牢へと向かって行った。
残されたのは、王族とこの国の宰相。
「ディー、」
そっと、ディートリアの肩に手を置いたのは、この部屋で眠っていたはずのシェイラだった。
シェイラは宝石箱から出てきた4日後の夕刻に目を覚ましたのだった。
そして、強硬手段ではあるものの、この手に打って出たのだ。
「ディー、私ね、ディーのこの国を継いでほしいのよ」
「姉上!?」
それではレイチェルの思惑通りではないかと、ディートリアは自分の肩に手を置くシェイラを見つめた。
2つ離れた姉との身長差はすでに開きつつある。
もうすぐシェイラがディートリアをすっかり見上げなければならないほどだ。
「別にレイチェル様のご意向に沿っているわけではなくてね。少し前・・あの宝石箱に閉じ込められているときに思っていたのよ」
シェイラはにこりと優しくほほ笑んで、ディートリアとキャレットを見つめている。
「私ね、可愛い弟と王位争いをするくらいなら王位なんて全然譲るし、あのまま宝石箱の中で死んでもいいわって思っていたのよ」
なんてことを言うのだと、シェイラの言葉を聞いていた3人は思う。
シェイラが死んでしまえば、それこそレイチェルは牢屋での拘束だけでは処分は免れていないだろう。
「でもね、宝石箱の中に閉じこもっているときに声を聞いたわ。王族の私に叱りつけたり呆れたり、色んな感情をぶつけてくれたの」
シェイラのその言葉に、3人ともが美人なのにどこか惜しいマーシャルの姿を思い描く。
人が寄り付かない宝石箱に話しかけるなんて所業、マーシャル以外に一体誰がするというのだろうか。
「私、その人に救われたわ。とても温かい気持ちになったの。箱の中にいるときに白い精霊さんに会ったわ。私を助けようとしている精霊師に感謝なさいって言われたわ」
フフッと、シェイラはその時のことを思い出したのか、小さく笑った。
「だからね、お父様」
シェイラはにこやかな笑顔を携えて父であるキャレットを見る。
キャレットはなんとなく予想できる次の言葉に、口元を引き攣らせてる。
その隣にいる宰相であるヒュースは、王族の前だということを忘れて頭を抱えている。
「私、魔法師になりたいの」
フフッと花が咲くように可愛らしく笑ったシェイラは、今度はディートリアに向き直って言葉をつなげる。
「だからね、ディー。あなたにはお父様の後をついでほしいのよ」
ディートリアも開いた口が塞がらないらしい。
可憐で控えだという美点を持っていた自分の姉が、まさか箱から出てきた途端に、我が道を進みたいがために王位を譲ると言いだすなど、想像もしていなかった。
そしてマーシャルも知らない。
この王女の決断が、のちに厄災となって自分に降りかかってくることを。




