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殺人日記  作者: 鬼火
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三月十一日 午後九時

 三月十一日 午後九時


「兎にも角にも、今日はこちらのものしかご用意できません。それでもよければ」


「じゃあいいよ。それを三つ」


「かしこまりました」


 邪魔虫を追い払うよう邪険に注文をし、店主が背を向けて何か作業を始めたのを見届けると、出竈は僕に「調子に乗ってるなあいつ」と耳打ちした。


 個人の美学の正当性を全く信じていない出竈は、店主の言う美学というものに真っ向から嫌悪感を抱いているらしかった。


 出竈はいつかの僕に、美学の愚かさを滔々と説いたことがある。

 美学ほど唾棄すべきものはないと彼は言った。


  つまり出竈の考える「美学」の真因は、全人類に共通する既成概念として存在するのではなく、むしろ対極にある個人の「感情」に求められた。

 そこでの美学は個人のエゴイズムとして機能するし、美学の意味とは徹底排他の高慢さや個人の狭量な経験に裏打ちされた、他者にしてみれば唾棄すべき感情として見出される。

 彼は他者理解の必要性を(ごう)も信じてはいなかった。


 水を一飲みし、「あいつよりはお前のほうがましだ」と出竈は須崎に言った。

 それを僕は微笑ましく見た。

 押し付けの美学を持たない須崎はその点で無害であるということである。


 しかし無害であることが果たして須崎にとっての幸福だろうか?


 有害であるものは人の五感に影響を与えるが、無害であるものはすべからく看過されるのである。


「まさか僕を褒めて下さるとは。ありがとうございます」


「ふん。お前がもう少し利口だったらな」


 ……そうだ、僕と出竈さんには一衣帯水の隔たりがある。

 それは毒を含んだ汚染水の堀だ。


 僕は出竈さんのようでないから、僕たちの力量は近いようで手に触れられないほどのもの。

 天才のないものに猛毒の隔たりを跳び越えることはできない……。


 須崎は落胆するとともにその隔たりを考え、才なきものの才への渇仰を偲んではあまりに健気なその姿にあたかもじんわりと涙が溢れてきそうだったので、ごまかしで水を一気に飲み干した。


 すると出竈が節のある手を差し出した。


「須崎。巻きタバコくれ」


「今吸うんですか?」


 須崎は大して驚きもせず、しかし少しの逡巡をみせた。

 彼は忙しげにラーメンを作っている店主の背中を横目で見た。


 僕らの言う巻きタバコとは大麻のことであったため、いかに出竈の申し出とはいえど容易に差し出すことを躊躇われた。

 なぜなら一人の軽率による不慮の部分的腐敗が、精密な機構に何らかの破綻を示し、組織の末端から腐乱臭を放つにつけて、あたかも擬似餌のようにみすみす外部の侵入を引き寄せることになるのは、まさに歴史的事実だからである。


「トイレで吸う。よこせ」


「わかりました」


 遂に須崎は大麻を出竈に手渡した。

 それをひったくると出竈は足早にトイレへ消え去った。


「なんて奴だ、全く」

 須崎は出竈の傲慢な諸行に業腹であるらしく、歯ぎしりするように憤った。

 皺と沁みのあるスーツを破り棄ててやりたいような心持ちだった。


 ーーその須崎の無念を汲み取った僕の、あの晴れ晴れとした気持ち、重苦しい熱気の充満する中に吹き込む微風(そよかぜ)を得られたときのような気持ちは、なんと切ないものだったろう!


 出竈に大麻を渡したのが須崎であったのはなんとアレゴリカルだったろう!

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