母の思い子知らず、逆も然り
「うー...気持ち悪いぃ」
「大丈夫?」
俺と母は母の車の後部座席に座っていた。
結局あの突然の、俺にとっては人生最大の驚きといってもいい発表のあと、母は日本酒を注文し、ベロベロになるまで飲んでしまった。俺は飲んでません。
母が酒を飲み、俺も母が帰ってくる前にチューハイを飲んでいたため、結局代行に頼んで帰ることになってしまった。
「うん、平気平気」
母はヘラヘラと笑いながら手を振った。完全に酔ってやがる。
「でもちょっと寝てるわね。着きそうになったら起こして...」
言い終わる前に母は目を瞑り窓にもたれかかる。
「へーい」
車内がシーンと静まり返る。深夜のラジオの陽気な笑い声だけが小さく聞こえる。
(再婚ねぇ)
俺は静かな車の中で先ほどの料亭での母との会話を思い出す。
『香港だよ、香港』
母は俺が驚きのあまり硬直しているのを気にせずに話を続けた。
『相手も展示会だったらしいんだけどね。ブースが近くてさ、展示会の準備とか設営をしてる最中に会ったんだよね』
母はファッションデザイナーとして働いている。世界各地へ飛び回り、最先端の流行を見聞し、または日本のファッションを広めている。まぁ俺もよく分からないんだけどね。
『すごいよね、地面の中に埋め込んであるパイプがさ、すごい熱を帯びてて、もし雪が降ってもそのまま溶かしちゃうんだって。でも香港って雪は降らないじゃん!って思ってさ。思わず聞いちゃったんだよね、これ意味があるの?って』
どうやら日本の文化や技術を見せる大々的な展示会だったらしい。
『ストレートだなぁ』
『そしたら彼がさ、いや、意味は全く無いですね。って真顔で言うもんだから笑っちゃったよ』
『その人もストレートだなぁ』
『停まったホテルも一緒で、まさかの住んでる町も一緒だったからさ、これは運命だなって思ったのよね』
母はようやく相好を崩し、頬杖を突きながら反対の手で箸を持ち上げた。
『それは冗談だけどさ、いろいろと話してみるとお互い境遇が一致しててさ』
『境遇?』
まだ頭は少ししか追いついてないが、とりあえず相槌を打ちつつ聞き返した。
『相手のお母さんがね、若い頃に、それこそ娘さんが生まれてすぐに、病気で亡くなっているんだって』
『そうなんだ』
母は『そうなのよ』と小さく呟くと、手元に置いてあった取り皿の模様を箸でなぞり始める。
『同情ってわけではないんだけどさ、なんか放っておけないんだよね。そばにいてあげたいって、本気で思ってるんだよね』
『それ運命じゃん』
『あ、確かに。やっぱり運命だったのかも』
母は小さく笑った。でもすぐに困ったような顔に戻る。
『でも娘さんがね』
ポツポツと母は話し始める。
その相手の娘さんが、相手の方と、つまり父親とあまり仲が良くないらしい。絶賛反抗期か。
『久々に日本に帰ってきてもね、最近じゃ家に娘さんはいないらしいのよ』
『あらら』
『その人もなるべく日本にいる時間を増やしたいらしいんだけど、会社の状況的にも彼の人材的にも、まだ忙しい時期が続くみたい』
国道を走っていた車が信号で曲がり、やがて住宅街へと近づいていく。
「母さん、そろそろ着きそうだよ」
「うぅん...」
母がゆっくりと起き上がる。やっぱ飲みすぎだ。
そしてようやく家へ到着し、母が代行の運転手にお金を支払う。軽く足取りがおぼつかない母の腕を取り、家へ入って行く。
「あのね、まだ再婚は決まったわけじゃないんだよね」
「あ、そうなの?」
家へ入る寸前に母が俺に言う。俺は思わず立ち止まってしまう。
「君の意見を聞きたくて」
「意見?俺の?」
「そう」
母はジッと俺の顔を見つめる。
「彼の娘さんの話を聞いててさ、けっこう私にも来るものがあったんだよね」
「うん」
やはりまだ話に着いていけてはないが、とりあえず相槌を打つ。
「もし君も反抗期とかが来てたら、今頃私は死んでただろうなぁって思ってさ」
「なんだよいきなり」
「私ってさ、母親として君に何にも出来てなかったな、って今さら思ってさ」
母は自嘲気味に笑った。
「あんたは何も不満とか言わなかったし、優しかったし、大学に合格したら逆に自分から『仕事に打ち込んで欲しい』って言ってくれたしさ」
それは本当だ。今まで俺をずっと育ててくれたから、せめてこれからは自分の時間を増やしてほしいと思い母に言ったのだ。
「でもそれは」
「まぁいいから聞いてよ」
俺が反論しようとするのを母が防ぐ。
「もし君に反抗期とかが来て、私に反抗してたら、私はどうしようもなくなってたよ、絶対。仕事にも手が付かなくなってただろうし」
なんだかいつもの母さんじゃない。こんな母を見るのは始めてかもしれない。
「今回の再婚もさ、また私が勝手に決めつけちゃって、でも君は特に何も言わないでずっと私の話を聞いてくれてたし。私が勝手すぎるんだよね」
「あー、でもそれはまだ話に追いつけてなかったというか」
「本当に私の息子は優しいなぁ」
母はヘラッと笑った。少しいつもの母さんになってきたか。
「だからさ、今回の再婚は君の意見を聞きたいって思ってさ。あ、もちろん彼にも言ってるわよ。彼もぜひそうしてくれって言ってた」
「いや意見って言われても」
「あんな話を聞いた後だからさ、まだ言わなくていいよ。じっくり考えて、私の事とか相手の事とか何も気にしなくていいから。再婚するってなったらいろいろやらなきゃならない事もあるし、私は君の時間を優先して欲しいから」
母はバッグから鍵を取り出し、家のドアを開ける。
「本当に深く考えなくて良いから。娘さんに関しては他にも方法はあるし」
母は振り返って俺に言った。
「よし、早く家に入ろう!やっぱり日本は寒いわね」
あれから母は「洗濯は朝起きたらするぅ」と言って風呂に入ってさっさと寝てしまった。
俺はリビングのソファーに寝っ転がっていた。考えていたことはもちろん母の再婚のことだ。
俺は特に反対なわけではない。むしろ母が再婚したいならそうして欲しいと思っている。
母はいつもは酒をあまり飲まないのに、今日に限ってはたくさんの酒を母は飲んだ。また、いつもの豪快さというかワイルドさというか、天真爛漫な母ではなかった。母は物事に関して常にドーンと構えている人物なのだ。母なりにも、いろいろと思うことが本当にあったのだろう。
特に悩むこともなかった。俺の中の結論はすぐに決まった。
(新しい家族かぁ)
あまり深く考えても仕方がない。今日はもう寝よう。
リビングの電気を消し、二階にある自分の部屋への階段を登る。
(日本は寒いって言ってたけど、今日はまだ暖かかっただろ)
母の言葉を思い出す。
『私ってさ、母親として君に何にも出来てなかったな、って今さら思ってさ』
母に言いつけたいことがいくつかある。明日言ってやろうか。
今日は散々母から驚かされてばっかだったから、少しはお返ししないとな。
季節は10月中旬くらいの秋です。
お読みいただき感謝いたします。