左利きの君
家事は僕の仕事。
キャリアウーマンと言い表すことが一番ぴったりくる、仕事が大好きな彼女の為なら、『男のくせに』なんて嘲笑めいた言葉だって簡単に受け入れることができた。
「色んな夫婦がいるんだから、僕たちのような夫婦がいたって不自然じゃない。」
そう言ったら、君は恐る恐る俯いた顔を上げて、嬉しそうに、本当に嬉しそうに微笑んだ。
仕事も大好きだけど、僕のことも同じくらい大好きで、周りの言葉に傷ついてうつむいてしまった君が、また顔を上げて元気に働く姿を見て
自分の選択はやっぱり間違っていなかった
と実感した。
朝、目が覚めて軽く伸びをしたあと、ベッドの隣を見る。
一人分の皺しか残っていないシーツに、昨日は帰ってこれなかったのかと苦笑する。
食卓の上にはラップのかかった皿がそのままになっていた。
その横に一枚のメモが残されていた。
『帰れない。ごめんなさい。』
メモに書いてある謝罪の言葉に眉尻を下げた。
「謝らなくてもいいのに。」
仕事の繁忙期にかかったり、アクシデントが起こると職場から帰れないことや、帰ってきても着替えだけしてそのまま職場に戻ったりすることもままある彼女に、お疲れ様 と一言つぶやいてメモをコルクボードに画鋲で止める。
「疲れて帰ってきても食べやすいように、今晩は胃に優しいものでも作るかなぁ。」
さて、何を作ろうか。
そんなことを考えながらも、朝食を食べ、家事をし、仕事へ行く準備をした。
仕事は、簡単に言うと図書館の貸出係。
一応、司書の資格も持っているが、扱いとしてはパートやアルバイトに近い。
それでも、9時5時で帰れるこの仕事は家事を担っている僕としてはありがたい。
「我妻さん、おはようございます。」
「おはようございます。」
仕事仲間の女の子に挨拶を返し、仕事に勤しむついでに夕食の献立を考える。
具だくさんスープにしようか。それともおかゆ・・・いや、おじやにしようか。
返却前に汚れがないか簡単にチェックするフリをして料理雑誌の夏バテ対策コーナーを眺める。
ピリ辛のスープも美味しそうだ。
「我妻さん、それ・・・」
「あぁ、少し疲れてるみたいだから、胃に優しいものが食べたくてね。」
今日は帰って来れるだろうか。帰って来れなくても、冷凍しておけばいいかな。
仕事に追われる彼女のことを思いつつ答えると、心配そうにこちらを伺う様子に、少し微笑んで手元のレシピを頭に入れた。
家に帰ってから作ったスープは、我ながら上出来 と自画自賛するほどの出来で、ぜひ彼女に食べてもらいたいと思いながらベッドに入った。
頬を撫でる感触。
あぁ、彼女の手だ。
人差し指と中指の二本でこめかみからあご先へとゆっくりと撫でる感覚はいつも彼女が微笑みながら、お疲れ様 と伝えてくる感覚と一緒だった。
夢現に、 行かないで と、どこか焦ったような想いが募る。
どうしてだろう。彼女はここにいるのに、何故行かないでとすがるようなことを考えるんだろうか。
彼女が忙しくてなかなか帰ってこないから?
すれ違いが続いているから?
靄がかかった思考の中で彼女を探す。
「帰って・・・きた・・・の?」
手を伸ばしても、ただただ宙をかく。
夢、だったのだろうか。
でも確かに、頬に感じた癖のある撫で方は彼女のものだった。
寝ぼけ眼で身体を起こす。
ほのかにカーテンから射す光に、もうすぐで夜明けなのだと気づく。
一度眠ればいつもの起床時間までぐっすりな自分にしては早いな と思いながら隣を見る。
やはり、一人分のシーツの皺しかない。
昨日も帰ってこれなかったのだろうか。
未だ感触の残る頬を自分で撫でながら食卓に行くと、ラップがかけられたスープ皿の横に一枚のメモ。
『まだ帰れない。美味しそうなスープ、ありがとう。』
そっとメモを手に取り、コルクボードに画鋲で止める。
「うーん。甘いものなら口にしたくなるかなぁ。」
疲れているだろう彼女に、何をしてあげれるだろう。
昨日と同じく仕事の合間に、”美味しいスイーツの作り方”と見出しに書いてある料理雑誌を眺めた。
「我妻さん、甘いものお好きなんですか?」
「あぁ、妻が好きだから、作ろうと思って。」
「っ、そ、そうなんです・・・ね。」
「やっぱり失敗が少なそうなのは、レアチーズケーキかなぁ。」
「今は、簡単なババロアの素とかも売っていますよ。」
「あぁ、それも簡単で美味しそうですね。」
周りの職場の人も混ざり、手作りスイーツの話に花を咲かせた。
就業後に寄ったスーパーの製菓コーナーで悩みつつも彼女のことを考えながら選んで買った。
簡単 と銘打たれたパッケージは嘘をつかず、初めてながらそれなりに見栄えがするものが出来た。
今日は帰って来れるだろうか。
そう思いながらベッドへと入った。
左手の薬指をなぞる感覚に、笑みを浮かべた。
そこには彼女と永遠を誓ったシルシがはまっている。
素直じゃない彼女が、いつも恥ずかしそうに言葉をねだる時の癖。
はいはい。わかってるよ。
「愛し・・・て・・・る」
目覚めた僕は、何故か泣いていた。
「変・・・だな。どうしたんだ・・・?」
なかなか止まらない涙に困ったように笑いながら、泣いた。
泣いた顔を洗い、食卓の上を見ると、ラップのかかったリゾットと一口サイズのレアチーズケーキ。
その横には一枚のメモ。
『もう少しで帰れそう。私の好きなケーキ、覚えててくれたのね。』
甘いものがあまり得意ではない僕に遠慮してか、外食先でも一緒にケーキを食べることは少なかったが、いつも頼むケーキは決まっていた。
「そういえば、今日は・・・」
今日の日付を思い出し、絶対に残業なしで帰ろうと心に決めた。
手にとった本は”とっておきの日のための料理”と書かれた本。
興味のある情報をすぐに調べれるのはこの仕事の良いところのひとつだと思う。
「また料理の本ですか?」
「あぁ、今日は特別な日だからね。妻に喜んでもらいたくて・・・」
よく声をかけてくれる職場の女の子が、僅かに眉を寄せたことに気づかぬまま、僕は許された休憩時間ギリギリまで本を熟読した。
仕事を終え、たくさんの食材を買い込み、帰宅すると、よしっ と気合を入れて料理を作り出した。
料理もあらかた済み、残るはメインディッシュのみとなった時だった。
ピンポーン
来客を告げるチャイムの音に、コンロの火を消し、急いで玄関へと行った。
「はい、お待たせしま・・・」
した と続く前に驚いた。
同じ職場の女の子がそこにいたからだ。
「あれ?僕、何か忘れ物でもしちゃってた・・・?」
「いえ、そうではなく・・・」
「というか、よく住所がわかったね。ビックリしちゃった。」
微笑んで言えば、年賀状の住所を見て来たのだと呟いた。
そういえば去年の年末に、年賀状好きな職場のおばちゃんに感化されてみんなで住所を交換して送ったことを思い出した。
「あぁ、そういえば・・・」
「我妻さんは・・・いつまで、いつまで奥さんのことを考えてるんですか?」
「え?」
「あんな家に全然帰ってこない人のこと、いつまで考えて・・・尽くしてるんですか!?」
呟くような声は、最後怒鳴るような声になっていた。
その言葉に呆然と目の前の女の子を見つめ、戸惑ったように返事をした。
「僕はいつでも彼女のことを考えてるよ。だって、僕は神様の前で誓ったからね。」
そう言って、左手の薬指をなぞる。
それを見て、職場の女の子、田投さんは顔色を赤黒く変えて叫んだ。
「そんなっ、左腕だけ残して、山の中でバラバラになっている女のどこがいいんですかっ!!!」
左腕だけ
バラバラ
彼女のその叫びを聞いて、僕は自ら封じ込んでいた記憶を思い出した。
暑い花火大会の夜。
低く響く花火の音と喧騒。
血にまみれた白い指。
二人の結婚記念日とイニシャルの刻まれた結婚指輪。
遺体のない葬儀。
彼女は、最愛の妻は、二週間前、大量の血痕と左腕だけを残して姿を消した。
「あ、あぁ、あああああああ・・・」
彼女の左腕が見つかったのは、自宅からそう遠くない場所。
人気の少ないその場所は、血だらけで、血液の量から生存は絶望的で、左腕を調べた結果、死後に切り取られたものだと判明した。
その日は市内の花火大会ということもあって、現場にほど近い場所に住む住人も花火の音に気を取られて、異常には気付かなかった。
遠方から訪れた人間も多い為、犯人の特定も難しく、犯人はまだ見つかっていない。
誰もいない部屋。
腫れ物に触るような周りの人々。
恨みを買っていた、不倫の末の殺害、勝手な憶測は彼女のいない世界で無意味に響いた。
部屋を綺麗にしても
食事を作っても
仕事から帰ってきても
どれだけ待っても帰ってこない。
疲れたと笑って帰ってきた彼女は
朝、目が覚めると、隣に眠っていた彼女は
体の一部を残して、どこかに消えてしまった。
「田投さん、先ほどのお話、詳しく教えていただけませんか?」
聞こえた声に、今、自分が玄関先で話していたことに気づいた。
悪意のこもった音や、媚びるような音を発していた目の前の女に声をかけたのは、二人組の刑事だった。
「なっ、なんなんです?私は何も・・・」
「先ほど、『山の中でバラバラに』とおっしゃってましたが、何故山の中に遺体があると思ったんですか?」
「そ、そんなのみんな噂で言ってたからに決まってるじゃない!!」
「噂?それにしては、言い切りましたよね。
・・・それに、被害者のご遺族の方に、到底かける言葉ではない発言。ここに貴女を置いてはいけません。」
「やめて!触らないで!!私は何もしてないわっ!!」
「さぁ、暴れないで!!こちらへっ!!」
連れて行かれる女を虚ろな目で見つめる。
「彼女が・・・やったんですか?」
「まだ、はっきりと決まったわけではありませんが、おそらく。」
「妻は・・・彼女は・・・帰って、きます、よね・・・」
「必ず。必ず、全て見つけ出します。」
「刑事さん・・・今日は、ね。」
部屋を振り返る。
漂ってくるのは、スープの香り。
「今日は、妻と、愛を誓った・・・結婚記念日なんです。」
あぁ、やっと帰って来れるんだね・・・
またご連絡致します と言葉を残し、刑事さんは立ち去った。
力なく、食卓の椅子に座り込む。
ふと、食卓の上に一枚のメモが置いてあることに気づいた。
『 愛してくれて、ありがとう。 』
ただ、ただ、声を上げて、咽び泣いた。
愛してる
愛してる
ただ、君だけを
愛してる
君がいなくては生きていけない僕だから、君は残された左腕で僕を慰めてくれたんだと、やっと気づいた。
優しい、優しい・・・左利きの君。
~調書の一部~
山中にてバラバラにされて遺棄された被害者の遺体は損傷が酷く、特に顔面は判別がつかない程酷く、加害者が執拗に暴行を加えたと見られる。
加害者である田投は、被害者の夫に想いを寄せ、邪魔な存在として妻である被害者を殺害、身元の判明と死亡を知らせるために遺体を切断し、左腕を残したと供述している。
身柄を拘束された田投は、身体に謎の痣が頻繁に現れるようになり、徐々に精神に異常をきたし始めた。
その痣は、女性の左手の形に、よく似ていた。
愛しい貴方
優しい貴方
貴方がいたから、私は大好きな仕事で辛いことがあっても乗り越えれた
いつまでも、続くと思ってた日常
それなのに・・・
それなのに・・・
あの女が全てを奪った。
まず思い浮かんだのは彼のこと。
私は左腕だけしか彼のもとへ戻れなかった。
泣き濡れる彼を抱きしめることも
声をかけることもできない
左腕しかない私
私は、
絶対に、
あの女を
許しはしない