56.生きる意味
ーー言っていたんです。ちゃんと生きるためには、きちんと食べることだって。
それは疎かにしてはいけない、と。ちゃんと料理を作って食べれば、取り敢えずちゃんと生きていけると。
ーーだから、料理だけはきちんと作れるようになっておけって。
だから思ったのだ。覚えていることを、実証する。それを実行していくことが、恩返しになるんじゃないかと。
いつか、再び会えた時、あなた方のお陰だと。あの時、僕を見付けてくれて、ありがとう。そう言うために。
そしてそれが、僕の人生の指針になった。
「全く。あんたは、なあ……」
紫がため息をつきつつ、仕事をこなしていくのを見ながら、雅は、彼の父親を思い出していた。今までの人生で、ただ一度だけ聴いた話。どうしようもなかった自分に、嫌な顔一つせず、丁寧に、敬語で話してくれた。妻の母のーーつまり、彼にとっては祖母にあたる人ーー後に、それだけではなかったと思い知り、雅の人生を間接的にだが、多大な影響を与えたと実感することになる人のーー話をしてくれた。
「恩人がいたんだ」
「え?」紫が手を止め、雅の方を振り向く。雅は変わらず、手を動かしたまま話をしていく。「僕に料理の道をーーううん、生きる道を教えてくれた人。僕は、その人を目指しているだけ。あの人ならこうしたかな、って思いながら」
そしてそれが、灯という形になっただけ。「恩人?」紫は首を傾げる。雅は苦笑しながら、「でも、もしかしたら全然違うかも。こんなことならちゃんと見て、知っておくんだった。あの人は、今の僕を見たら、何て言うのかなあ。全然違うって怒られたりして」
そして、ポツンと呟く。「あの人は、何をしたかったかなあ」
「そいつとは会ってないのか?」
「うん。連絡先とか交換しなかったし。と、いうかあの頃僕、無かったんだよね、連絡先。紫君みたいに放浪してたから。向こうの住所は知ってたけど、何か恥ずかしくて、いつか、もう少し料理が出来るようになったら、会いに行こうって、思ってる内に」
「なら、今からでも……」雅に、まるで歯向かうように提案した紫に、笑って首を横に振り、続きを話す。
「駄目だねえ。結局また、駄目になって。そんな時に会おうとして。そしたら、無かった」
「え?」
今でも思い出す。失意の中、救いを求めて再びあの場所に向かいーー「引っ越されてた。家の形、変わってて。呆然としてたら、全然違う人がその家から出て来て。分からなくなっちゃった。近所に訊くことも出来たかも知れないけど、もう頭が真っ白で。情けない話なんだけど」
体全身を覆った絶望。その場所から消えていた、というだけで、雅は動けなくなった。失意の果ての絶望は、あまりに大きかった。
「駄目になって。それで無理矢理会いに行って、僕も料理作ってますって自慢するって、何様って感じでしょう? さすがに、それは……って」
また独りになった。そう思った。子供の頃から親と相容れず、ずっと独りだと思っていた。
想う人が出来ても、その人は他の人の元に行ってしまった。同類を見付けたと思ったら、勘違いだった。「家族」に恵まれず、作ることも出来なかった。
そんな自分にとっての理想の家族。仲の良い両親、そんな人達に愛される息子。
当時は分からなかった。そこにどんな思いがあるかなんて考えもせず、ひねくれた目で見ていた家。
そして、彼らがあの後どうしたのか、想像もせず。
ーーそんな時。
「そんな事を考えていたら、司が目の前に現れたんだ」
彼もまた、家族に恵まれなかったのではないか。だから、ここにいるんじゃないか。そう思った。
「司を引き取ることで、僕は生きたんだ。生きざるを得なかったんだ。そのための手段が料理だった」ーーちゃんと料理を作って、ちゃんと食べて。もし出来れば誰かのために。そうして、ちゃんと生きて。そうすれば、あの人も報われる。これで良かったと、思ってくれる。たとえそれが、自己満足でも。きっと、そんなこと思わなくていいって言うだろうけど。
「雅……?」紫が不思議がりながら、雅の顔を覗き込む。だが、雅の目に写っていたのは、紫を通して見る、別の顔。印象は似ていないが、それでもやはり似ている。遠い昔に会ったきりだが、紫を見ていると思い出す。
そうだ、そんな事を言っていた。
本当は彼の父親なのだが、妙に恥ずかしくて、他人のように話した。ろくな生活を送っていない自分なんかに、あの日、見せてくれた素顔。それを考えもしなかった自分。
連絡先など知らない。自分の親となんて、遠い昔、家を出たきり。今、生きているのかさえ知らない。
「最初はね、僕も料理を職業にする気なんか無かったんだ」
紫が目を見開く。雅もかつて驚いた。まさか、同じことを紫も思っていたなんて。
「料理を教えてもらっていた……知人がいた」どういう代名詞を使う関係か悩んだ。「知人」なんて一言で済む関係では決してない。
「でも……何だろう? 絶交? ハハ……小学生みたいだねえ。喧嘩して、もう二度と料理なんか……みたいな気分に」みたい、どころではない。小学生よりひどい話を、紫に打ち明けるのに勇気が要った。平静を装うのはとても難しい。
「元々、恩人たちも別に料理人じゃなかったし。でもあの時、僕に残っていたのも、また料理だった。温嗣さんに学生や芸術家の卵のために料理してくれって言われたら、断れなかった。あの、僕を救ってくれた人たちに、顔向け出来ないと思った。それだけで、この十年やってきた」
だが、雅は思う。きっと、「今」のためにこの場所で灯を十年間やってきたのだと。いや、二十年前から、ずっと。
ーー紫を助けるために。
おかしい。というより、思った通りと言った方が正しいでしょう。雅さんと作者が組むと。
前哨戦が長い。正に戦ってます。何のために温嗣さんが出て来たのでしょう。次は円の話に移ります。そう、まだ「前哨戦」は続きます。