55.灯の提供品
「司は?」
紫が雅にそう訊ねたのは、保の来店から数日経った朝の開店前だった。もう来ても良い筈だが、まだ司の姿が見えなかった。
「ああ、今日は昼前から来てもらおうと思って、梧桐の方に行ってもらってるんだ。まあその前に、その内、出前だけ取りに来るけど」と、雅がセットしてある鍋を指差しながら答える。「ああ、これ……」
まるで学校給食のようにセットしてある大量の食器と鍋。普段は朝の峠が越えた頃、司と車で迎えに来た梧桐の職員が持って帰り、昼前に出勤がてら、空になったそれらを持って来る。どうやら今日、司はこの鍋たちと行動を共にするらしい。
「それにしても変わってるよな、この店も」
「ん?」
紫は常々この店、灯に対して思っていたことを口にする。
「だって、この鍋といい、あのレシピといい、このメニューといい」
この配膳は、司が勤める梧桐の介護施設に入居しているお年寄りたちの朝食である。きちんと三食用意して、毎回司を始めとする職員たちが取りに来る。
「だって、頼まれたんだもん、この鍋とかは。さすがに忙しいから、配達はしないけど。ちゃんと代金は貰ってるし、大事なお得意様だよ」「ああ、そう……」雅は平然と言うが、紫の方は未だ納得していない。「じゃあ、あのレシピは? 野菜も。と言うか、メニューも」「灯って、比較的安く抑えてるでしょう? 一応『家庭料理食堂』って名目だし。それで、農家さんに沢山採れた野菜とかを、優先して灯に融通してもらってるの。で、貰い過ぎて灯で捌き切れないのを、入口で売って。そしたらレシピ欲しいってお客様もいらして。野菜買っても、どう調理したら良いのか判らないって。それで、農家さんから聞いた野菜の調理方法、書いたレシピも置いておくの。灯で実際に提供している料理のレシピと一緒に。料理教室もたまに開いてるし」紫も、雅が休日を利用して、料理教室を開催していることは知っている。灯は規模としてはファミレス並みだが、入口付近ではおもちゃの代わりに野菜が並び、食事の客と同じレジで支払う。因みに紫もレジを担当したことがある。レジは主に円が担当だが、調理の手が空くと、紫も接客に出るのだ。最近は、金髪がうるさくて、料理の仕込みを口実にあまり出たがらないが。それに、臨時のバイトもいる……。
「そう言えば、あの「バイト」は何?」「何って?」「いや、だから……、つまり、灯のバイトのシステムって……。何、あの予約制?」
灯の正社員は、店長兼調理の雅、接客の円、そして、調理の紫。この三人で基本、灯を回している。だが、固定のバイトはいない。いるのは、補足で入っている司ぐらい。彼は、梧桐の正式な介護士だが、きちんと給料も灯として払っているため、実家の手伝いと称されているものの、もはや兼業と化している。提携しているのもあり、梧桐からも、灯の担当者扱いとしているらしい。
そして、灯のアルバイトは、その日その日で、というより、その時その時で忙しい時間帯に入ってもらい、主に注文、料理の配膳、レジ、後は皿洗いなどを、一時間単位、時給制で行っている。
そして、その時給も変わっていた。「おまけに、給料が飯代、タダとかだし」雅は苦笑し、「まあ、要するに働くから無料にしてくれ、って頼まれたからなんだし。それが結構多くて。ほら、この辺学生とか、芸術家の卵とか多いからさ」
「ああ……」
それは紫も知っていた。数日前、紫が梓と桜を見に行った楓(公園)を中心にして、北に柊大学、西に楸高校。そして、南が灯。更に楸の近くに水人たちが通う、榎中学。隣合って椿小学校。そして、柊の近くにあるのが、「桜」と呼ばれる県内最大規模を誇る複合型文化施設。図書館、美術館、博物館、更には、様々な演劇を行える舞台などが、その中に入っている。その上、全ての施設の敷地面積も規模が大きく、おまけに木樹市民は舞台は格安、博物館などは無料という有り様。おかげで必然的にその周辺は、文化的な職業に就いている人やそこを目指す人が集まった。
そして、彼らに共通すること。それは金が無く、食欲は旺盛。そして、体力も(食べさせれば)あり、それ故、彼らは惜しみなく恩返しとばかりに、その力を灯に恵んでくれた。
「それが、今も続いているの。困ったら固定入れようか、と思ったんだけど」その続きは聞かないまでも、紫は分かった。「そいつらもあって、あの、牛丼屋のメニューみたいなことになったと」「そう。何度、大盛りを請求されたか。まだ足りない、まだ足りないって。じゃあ、最初からグラムごとに値段付けようって。大盛りばかりだと、無理ってお客さんもいて。芸術家やサラリーマンだって、沢山食べる人ばかりでもないし、だから少なめも作ろうって」おかげで灯には、主要なメニューには少なめから、ものによって特盛まで段階的に揃い、値段もそれぞれに付けられている。また、サイドメニューも、単品とセット価格で多少の値引きされるなど、客に様々な頼み方が出来るようにされている。
メニュー自体も、特定の野菜特集など、日によって違うが和洋中と揃い、灯でどんなものを食べたかは、客によって違う。だが、全てに共通しているのは、定食屋として格安で提供しているという点。
「まあ、高級料理だけは無理だけど。それだけは、他の店に行って下さいって感じ。あくまで灯は、一般家庭の主婦の代わり。それだけは絶対譲らないって決めてる。材料も近所のスーパーマーケットや廃棄寸前の食材などが主力ってことは、あらかじめ断ってあるからね」
要は、豪勢なものを食べたいというより、料理をさぼりたい時のため、みたいな食事処が欲しいなあ、という妄想を頭の中で実体化したら、こうなりました。野菜の調理の仕方というのも結構悩むんです。ーー母が。
雅さんみたいに、何でも作れる人が一番憧れるんです。
……まあ、とにかく。雅さんの中の彼の親は、別に料理人ではありません。幼い頃から作って来ただけ。この辺は、次の話で。