54.父子の関係
「てめえ、誰だ! 何やってんだ、こんな所で」
「司!」
紫が思わず叫ぶ。何しろ、いきなり現れた司が保に対して、今にも殴りかかりそうな勢いで怒鳴り込んで来た。梓と円は唖然として声も出ない様子。
「ああ、君が荻田司君ですね。私は円の叔父のーー」「だから何だ」
いきり立つ司にも、柔らかな態度を崩さない保だが、司はとりつく島も与えない。
「司」
雅がそんな義息子に呼びかける。「落ち着け。大丈夫だ」
「……」司は不満そうだったが、それでも大人しくなった。その様子を見た紫は、改めて、十年もの間、雅と司が親子だったのだと思った。
「全く。相変わらずだねえ、司は」
「え? いつもああなのか、司は」
夕食時を迎え、俄に忙しくなり始めた灯の調理場で雅がため息をつく。
「誰に対しても、お気楽なのかと思ってたが」
灯では接客に回り、梧桐ではお年寄り相手の介護士なのだから、「お気楽」は失礼だが、紫にとっては常に笑顔の印象が強い。「俺なんかにも愛想良かったからなあ」
ーーこんな、どこの誰だか分からない人間に。最初から。
「逆、だったからかもねえ」
「逆?」
聞き返すと、それまで器用に仕事し続けていた手を止め、紫に頷く。
「司が嫌いな人種って、要するにエリートで自信があって妙に愛想が良くて、ってタイプ? 何か逆に信用ならないんだって」
「何の話?」と、当の司が皿を下げにやって来る。雅は「何でもない」と首を振り、新たに仕上がった料理の皿の指示をする。
ーーつまり、俺の逆って訳……。
立ち去って行く司の後ろ姿を見ながら、妙に紫は納得する。
「まあ、温嗣さんを始めとして水人たちとは仲良いから、その限りじゃないみたいだけど。でも今日は凄かった。あんなに取り乱して、収まらないかと思った。最近は大人しくなって、大人になったかと思ってたんだけど」
「ふーん」
「昔なんか、テレビの政治家にも本気で怒ってた」
「はあ……」
それきり話はなくなり(仕事が本気で忙しくなったのもあり)、紫たちは仕事に集中したが、ふと、紫は思っていた。
保は確かにエリートで、最初は紫にとって、雲の上の人のようだった。でも孤児である紫や梓に親切にしてくれて、こんな人もいるのかと思った。湊も紫たちに親切にしてくれたが、どこかよそよそしかった。
いや、都さんが親しみやすかっただけか……。
苦い思いが込み上げる。無条件で優しくしてくれた人。娘たちと仲良くしてくれて、ありがとう、とお礼を言ってくれた大人は、都さんが初めてだった。円の父親とは訳あって別れたらしく、妹夫婦と一つの家族のように、子供たちを育てていた。紫には分からない苦労も沢山あっただろうが、常に幸福そうだった。
最後の泣き顔を除いて。
あの時は、分からなかった。でも、後になって思った。
その幸福を壊したのは、俺だったのか。
保は庇ってくれたが、湊が変わったのは、紫は自分のせいだと思っている。昔は決して湊も、姪の円や、孤児の紫、梓に、あんな風に接しなかった。ちゃんと、面倒を見てくれる優しいおばさんだった。
変わったのは、都が亡くなってからだった。
最初は、姉が亡くなったからだと思った。都と湊は仲の良い姉妹で、その子供たちが姉弟のように仲が良いのは、当然と思えるほどだった。だから、姪の円を遠ざけているとは思わなかった。だから紫も、梓から円の話を聞いた時には驚いた。確かに、後から考えると、湊が灯に現れた日、円に対しておかしかった。その時は、円が記憶を失くしているからだと思った。
「紫君!」
「あ、ああ、円」
「さっきから呼んでたんだけど……、どうしたの? ぼーっとして」
「いや、別に。悪い」円に、その理由を話すわけにはいかない。
「なんか、疲れた?」雅にも訊ねられる。灯の閉店後、後片付けの最中である。
「いや別に」「本当に?」尚も疑うのは円だ。「叔父さん……何かあった?」
「いや、大丈夫」円には、決して言えない。自らの叔父と、紫の間に何かがあることは、薄々気付いているだろう。そう言えば、雅も。
「なあ、雅……」「ん?」言いかけたが、その先が続かない。司も、そして自分もおかしかったが、雅も何かあった。自分が言えないのに、雅に聞き出すのもおかしいだろう。そもそも、雅と保の間に、何も無い筈だし。
「どうかした? 本当に疲れた?」
ーー疲れた。雅はそう言った。別に、今日の仕事もいつも通りで、疲れを感じるほどの量ではなかった筈なのに。むしろ余裕があった方だろう。
それとも、本当に疲れたのだろうか。保相手に激昂していた雅。何故か、その表情は苦しそうで、どこかで見たことがあるように思えた。今すぐそんな表情を止めてほしいと、願った。そして、いつも通り、苦労なんかしてないみたいな、そんな風に笑って。
それなのに、俺のことを気遣って。
ーー都さん。
そう。似ていた。最後の日の都さんと、今日の雅。自分も何か抱えているのに、俺のことを気遣って。雅が今日、激昂した原因も、俺だ。都さんは、もうどうしようも出来ない。でも雅に、円に、これ以上つらい思いをさせる訳にいかない。
何となく紫には、都さんもその決意に賛同してくれる気がした。
何でもない。そう言って作業を続ける紫を見ながら、雅は何となく不安を覚えていた。保が知る紫のこと。何の根拠も無く、雅は思っていた。
それが、全ての原因だ。
四人全員と保を会わせようと、今回の話は前々から考えていました。前後編になってしまいましたが。
今回は珍しく、雅さんがでしゃばっていません。保相手だと、やっぱり違うんでしょうか。お陰で収まりましたが、それはそれで、つまらないです。