53.嵐の前
「申し訳ありません。妻が無礼なことを申し上げたようで……」
葛西保が頭を下げる。「妻も、悪い人間ではないのです。ただ少し、不器用で……」
雅が笑顔で、両手を左右に振る。「解っております。大事な姪ごさんをお預かりしているんです。奥様も、当然のご心配ですよ」実際、雅はよく解っている。知っている。ただ……。いや、それは別に気にすることでもないだろう。
雅は、目の前の人物を改めて観察する。円の叔父。先日来店した円の母親の妹、葛西湊の夫。つまり、円と直接の血の繋がりは無い。それにしては、その顔に見覚えがある気がした。どこかの俳優にでも、似ているのだろうか。着ているものも良い服だし、実際なかなかの二枚目である。五十代も後半の自分より一回りほど下だろうが、決して若さの違いではないだろう。
そう言えば、妻の葛西湊も美人な類いだった。こちらも見覚えがあると思ったが、その理由は判っていた。
今、その葛西保は、隣に座る姪の円と話していた。円も、遠慮のあった叔母とは違い、叔父には屈託なく話している。
「ご無沙汰しています。こちら、ご注文の肉じゃが定食です」
紫が頭を下げつつ、料理をテーブルに置く。やはりこちらも、湊より愛想が良い。というより、妙にぎこちない他の客に対してより、態度が良い。紫も、保には警戒心を抱かないようだ。
「ありがとう」保は笑顔で受け取り、早速「いただきます」と呟き、料理を口に運ぶ。「うん、おいしい。これが君の料理か」リクエストされたので、注文時に予め、紫の担当した料理を教えてある。その中から保は、肉じゃが定食を選んだ。「やっと食べられた。予想以上の味だ。本当においしい」「恐縮です」
「灯」の名目は一応、「家庭料理食堂」ということになっているのだから仕方ないが、「肉じゃが定食」をこんな時に、こんな人に食べさせて良かったものかと、雅は今更ながらに考えてしまった。
一方、叔父の様子を見ていた円が、首を傾げる。「叔父さん。どうして、紫君や梓ちゃんを知ってるの?」「あ、ああ。そうか、円は知らないんだったね」保は少し慌てた様子で、「ーー実は……」と、重そうに口を開く。「紫君や梓ちゃんは、都さん……円のお母さんが亡くなってから、妻と知り合ったんだ。僕も、知っていてね……。最初は、妻も優しかったんだが……」
「俺がいけないんだ」
保が言い淀むと、突然、紫が口を挟んだ。「俺が、裏切ったから」「でも、あれはーー」保が反論しようとすると、紫は首を静かに横に振り、「貴方には感謝しています」と、穏やかに告げる。普段の様子からすると、それはとても悲しげに、雅には見えた。「憎まれても仕方がないことを、俺はやったんですから」
「憎むって……憎むって何を……?」
思わず、雅は口に出す。”憎む”という、決して穏やかではない、言葉の響き。彼が抱えているものを知らない自分。
「荻田さん。今、ここでは……」それを知っている、目の前の人物。「しかし……!」
突然雅は、この男に嫌悪感を抱いた。それも、強烈に。紫を苦しめたくなくて、自分が聞かないことを選んだ筈なのに。今は、苦しめたくなくて、聞き出したかった。それを邪魔した、この男。
ーーあの時も。
自分の気持ちに驚き、いきなり身体中から力が抜けたように、椅子に座り込む。雅は自分がいつ、椅子から立ち上がっていたのか気が付かないほど、激昂していた。そのことに今更気付き、その理由に思い至り愕然とした。紫を守りたくて、でもそれだけではなかった。
ーー僕は、未だに。
「雅さん……?」円が不思議そうにこちらを見つめる。その顔で我に返った。いや、その顔に似た、記憶の中の顔に。
ーーそう。自分に口を出す権利なんか無いのだ。とうの昔から。いや、そもそもが最初から。
僕には、何の関係も無かった。
「ごめんごめん。大丈夫」笑って誤魔化す。雅には、それしか出来ない。あくまで、第三者の風を装うしか。
「すいません。失礼しました」保にも頭を下げる。「ああ、いえいえ」雅の不審な態度にも笑みを崩さず、許す保。「本物」だ。叶わない。何故かそう思った。
と、その時、ふと視線を感じた。顔を上げると、紫がこちらを見ていた。何故か、その顔を見ていたら、声が聞こえた気がした。
ーー大丈夫?
「あ……」甦った二つ目の顔。自分を救った彼の顔。相手に何があるのかも知らず、ただ、ひたすらに自分を心配するだけの。
「大丈夫。ごめん」
「雅?」紫の顔を見れず、俯く雅の肩に置かれた手。
ーー本当に、大丈夫?
かつて聞いた声が、現在の紫の心の声と重なったようにして、雅の耳に届く。
乗り越えた筈だった。完璧ではない。多少の苦さは残った。今度は、自分が助けようと思った。
だが、紫を守ろうと思えば思うほど、あの苦さが甦ってくる。
繋がっているのか。あの三つの出会いと別れが。一見バラバラのようで、実は必然的だったのか。
「雅さん」
円、紫、そして梓。不思議な感覚に陥る。「灯」に集まった彼ら。その中にいる自分。そして、目の前にいる葛西保。偶然か、必然なのか。それとも運命によるものなのか。
まるで、遠い昔の彼らが自分を試しているかのようで。
こういう時、こういう人は何を頼むのだろう、と考え、でも、「灯」で豪華な料理なんて出ないと思い直し、肉じゃが定食に……。
あくまでも、家で食べる料理というコンセプトなので。普段は良いですが、こういう人にはちょっと考えます。雅さんに慣れると、葛西保みたいな人は書き辛いです。出まくる雅さんも、大変なんですが。