44.回想の両親
どこかにいる。
もう二度と会うことはなくても。
この広い世界のどこかに、確かに存在している。
そう思うだけで充分だった。
「紫君……。どうかした? もしかして二日酔い? 仕事だるい?」
紫はジロッと雅を睨んだが、また視線を下に戻すと「別に」とぶっきらぼうに答えてせっせとお弁当を詰めていく。
言うまでもないと思うが、紫と雅は仕事中で、定休日には、朝早くから一定量のお弁当を作っておく。心得ている常連客などは、予めメニューのリクエストをしておく人もいる。
「俺は二日酔いだけはしない。酔いが醒めるまで寝てるから」「なるほど~、それは便利だねえ」雅は、ますます顔をしかめる紫に、笑いをこらえることに必死であった。
紫が顔をしかめる理由は二日酔いなどではなく、水と間違えて酒を飲んでしまったことにあった。あの梓の爆笑にはそういう理由もあったらしい。紫の体質を知った先輩たちは、懲りるどころか、倒れるのをもう一度見たいと、紫に再び酒を飲ませようとしたが、紫自身はコンプレックスらしく、全然飲もうとしなかった。その押し問答を聞きつけた碧先生を始めとする先生方が、未成年の紫相手に酒をとは、と、その先輩たちを怒るということがその後、何度か続いたらしい。
「絶対恥ずかしがるから、見ててね~」と梓が言っていたが、翌朝、つまり現在大当たりしているのを見て、雅は笑いをこらえ、紫は顔をしかめているということになっている。
「……」
「ん? どうかした?」ほぼ仕事が終わるかという頃、紫が探るような目で雅を見ている。
「あ、あのさ」
「ん?」弁当を並べ終わり、その様子を見渡していた雅は、振り返って紫を見る。だが、紫は続きを言う前に後ろを向き、片付けを始めてしまう。その様子を見た雅は、何も言わず隣に自分も立ち、一緒に片付け始める。
「あのさ」「ん?」「あの……梓、何か言った?」「んー、いや別に」「……本当に?」「うん」「……」
再び黙ってしまった紫を横目で見て、雅はそうか、と思った。
そうか。気にしてたのか、自分が寝た後、梓が何か言ったんじゃないかって。
でも、別に何も言ってないんだよなあ。
あの時聞いたのは、紫の「お祖母さん」がみどりさんって名前だったこと。漢字も聞いてない。「先生」と呼ばれているということは、そういう職業の人だったのだろうか。料理関係ではないことは、以前紫に聴いたが。それに、紫に酒を飲ませた「先輩たち」とは誰なのか。
昨夜は円が寝たのを皮切りに、宴会もお開きとなった。あとは、紫のために布団を敷いて寝かせ(元々紫の部屋であるから、本人が熟睡している間に、本人の部屋を漁った。物が少ないので、大した手間ではなかった。)、取り敢えずの後片付けだけはして、司と雅は自分の部屋に戻って行った。梓は円と一緒に、無断で紫の部屋に泊まった。
起きたら、梓と円が仲良く、司提供の客用布団にくるまって眠っていたので(そこまでは、紫も持っていないし、彼らも漁らなかった)、紫は更に顔をしかめる原因になった。
とにかく、そんなことをしている時に、梓の酔っ払いならではの、高いテンションで紫のそんな話を聞いただけであった。
聞きかじっただけの情報。それでは、「聴いた」内には入らないだろう。
そもそも梓は紫とどういう関係なのか。
それに、もしかして「みどり先生」は紫のお祖母さんですらない?
「碧先生のことも?」不意に紫が言った。あまりに驚き過ぎて、思わず紫の方を向いた。だが、再び紫が雅に背を向けてしまった。「本当は、それが正しいんだ」雅が何も言えない内に紫が呟いた。
「ばーちゃんなんか俺にはいない。家族なんて、誰もいない。母にも、だ。父を育てたついでというだけで」
「私にとっても、その人は母なんだよ。恩人なんだ、お二人とも」
不意に雅の脳裏に浮かんだ声。父親が妻の母を、父親を、そんな風に言っていた。
紫が振り向いた。雅を見て言う。「俺は、孤児なんだよ」
何を言えば良いのだろう。ちゃんと息子を愛した両親がいたと?
わざとらしく、まるで他人事のように。
ーーどうすれば良いですか?
雅の幻想の中ではなく、確かに優しい人たちが存在していた。
めげそうになった時、思い出していた。頑張って、頑張って。それでも駄目だった時。
あの懐かしい声を、もう一度聴きたくて、会いに行っても、場所も分からなくなっていた。
もう二度と聴くことはないと諦めた彼の両親の声。
今甦ったのは、家族を切り放そうとする息子のことを、見放してなどいないからじゃないか?
確かに店に現れた時から、紫は何かを背負っていた。それでも幸せに生きていて欲しかった。優しい両親に愛されて、優しい人に。
ありえないと分かっていても。
そんなことはなかったと、すぐに分かったけれど。
そう言えば、あれはどうしただろう? もう捨てたかな。いつの間にか消えていたことに、気付かないほど。意識もしないほど。役に立たないまま。
雅は関係無い記憶まで出て来るのを必死に押し止めた。
今はそんな場合じゃない。
「碧先生は、俺が育った養護施設の創始者ーー院長先生だった。早くに死んだ友人の子供だった俺の父親を引き取って育てたのが始まり。母は、捨て子だった。父親に認められず、母親にも生まれてすぐ捨てられた。ろくでもない大人達だったと、ば……」紫がそこで言葉を切った。
彼らが、どこにもいなかったことを知るのは、後の話。
前回の続きで、そのまま梓に語らせようと思って、書いていましたが、流石に夜中すぎるので止めました。
お陰で、全書き直し。作者も予想外な、紫が語っているという事態に。
さあ、これからどうなるのでしょう。