40.「祖母」の話
事も無げに訊いたのは、雅だ。
「もしかして……君に料理を教えたのも、お祖母さん?」
「……」
「あー、そうなんだー。凄い人だねえ」
一人、納得している様子の雅に紫は不満げな目を向ける。
「何で、そう言える?」「え、だって」
雅は相変わらずの笑顔のまま、あっさりと答える。「だって、ここで君を雇ってからまだ一度も後悔していないから。お客さんからそういう不満も無いし。それって、君の、そのお祖母さん、その人の教えが良かったってことでしょう?」
「確かに、あれだけの料理を作ってしまえるんだもんな。その人、実は料理人とか?」
「別に」紫は、司からの素朴な疑問に、やはり仏頂面な様子で答える。第一、そういう話は聞いたこともない。とある仕事をしていたが、関係はあまり無いだろうと紫は思っている。本人は、その一環かのように、「ただ、美味い料理を作れって感じだった」
雅が頷き、「舌が利くんだね。円もこの中じゃ一番利くけど、鍛えられたっていうのもあるし。その人は紫を育てる時には、もう完成されてたんだろうね。天性のものかな」
「凄い。ちょっと…どころじゃないなあ。羨ましい。それで料理の仕事に就かれてないなんて……勿体ない」
「……」円の素直な賛辞に紫は口を挟めない。そういえば、と振り返ると、本物の「料理人」だったという人が家に来て、ばあちゃんの味覚を絶賛していた。「本物だよ」その人はそう言った。「本物の、確かな味覚に鍛えられたその腕もまた、本物だよ。紫君」
「「芸は身を助ける」。良いものを授かったねえ。一生使える、技だ」
雅が、相変わらずの屈託のなさで、嫌われ者だった彼の育ての親を称える。だが――それに対して紫が――彼がした事は――。「意味が無い。一生なんて使えない。殺人を犯せばな」
「紫君!」紫がバッと飛び出す。反射的に雅が追い駆けた。円と司は互いに目を見交わせ、頷く。大丈夫だろうと。何しろ紫が駆け込んだ先は――店の控室だったからだ。
「やっぱ追い駆けて来るんだな」紫が自嘲的な笑みを浮かべながら、雅を見上げる。椅子に座った紫に合わせ、その真向かいに雅が座る。
「まあね」
雅の悪びれる様子の無い笑顔に、紫は顔を背ける。――これ以上本音を悟られないために。
「殺した。確かにな。それで――あのばあちゃんに直接は怒られなかった。いつも怒鳴り飛ばしていたのにな」
「うん」
いきなり話が始まったのに、雅は一切表情を変えない。ことは見ないでも判った。
「というか判っていた。俺に聴かないでな。勝手に――思い込まれていた。決められていた。――そういう人なんだ」
「……」雅の沈黙は話を促すものだと紫には思えた。
「育ての親といっても、ほとんど目の敵だった。俺を引き取る時も――うっすら覚えてる。まだガキだったけど、凄い嫌々だった。それからも、俺、昔からこんなだったからしょっちゅう、学校に呼び出しされて、その度に矢面に立たされてな。まあ、色々積もり積もっていたんだろうな、ばあちゃんは」
ふっと、紫が笑う。雅は何も言わなかった。「うん」とさえ言わなかった。いや、言えなかった。声にしたら、他の、言うべきではないことまで口から出てしまいそうだった。雅は自分の中の思いを出さぬように必死だった。
「親に育てられてないから、と、周囲から言われ続けて、挙げ句殺人だ。――祖母は、さぞ呆れたろうな」
「……お祖母さんのこと、ずっと「ばあちゃん」って言ってたの?」
色々我慢して、何か言わねばと思ったら何だかどうでも良い事を尋ねてしまった雅である。
――雅の前でならあの人を「祖母」と呼べる気がする。紫は、雅には結局甘えてしまっていた。
「折角育ててやってんのに、全然敬意を払わないからな、凄い険悪な表情だったけどな。こんな俺にもう諦めてんのか、訂正もしなかった。実際は年寄り扱いされること嫌いだった」
紫が「祖母」と呼ぶことすら忌々しそうだった。お前など「孫」ではない、と言われているような目をしていた。でも、紫もそんな人に対して、敬意を払う性格でもなかった。馬鹿にしたように「ばあちゃん」と呼ぶのは、一種の反撃だったのだ。
――それもあの日で終わった。
「それでも18歳までは引き取るって言われてた。無事に高校ぐらいは出ろと。そうでなければ育ててる意味が無いって。一応体面もあったのかね。そういうこと気にするんだか気にしないんだか」紫は雅ではなく反対側の壁に向かって呟きます。まるでその壁にその頃の祖母の顔でも映し出しているみたいに。
「――でも、俺は18までいなかった。15で出て行った。一応受けさせられた高校受かってたけどボイコットして。最初っから嫌だって言ってたんだぜ、中学出たら出て行くって。なのに、無理矢理……」
でも、まさか、「そんな理由」で出て行くとは思ってもみなかった。ただ、高校に行く意味が見付からなかっただけだ。「どこまで話したっけ。まあ、とにかく、中学卒業してたし、出て行った。もう……」
雅から、紫は後ろ姿しか見えなかった。でも、彼が両手を握りしめ、俯き、怒りで背中を震わせているのは、むしろ見なくても判ったかも知れない。
「もう……あんな……」必死で言葉を吐き出す。近寄りがたい雰囲気をまとった彼に、雅が出来たことはただ待ち続けることだけだった。
「もう……あんな家にいたくなかった! 耐えられなかった!」紫は一呼吸した。何を言ってしまうか判らなかった。あの日のように。
思い出すのはあの日の風景。怒りにまみれながらも、頭を下げ続ける祖母。周りからの非難の目。たとえ罪に問われなくても、同じことだった。
そんな中、紫に出来たことは、祖母を怒鳴ることだけ。いつもそうすれば怒鳴り返したのに、祖母はただ何も言わずに紫を見ていただけだった。
「良かったよ。殺した時点で中学卒業しててさ。一応義務教育って終わってたから。始まりはまだ――卒業していなかったから」
ご無沙汰してます。「紫の灯」です。39話から2年経ちました。時の流れは早いですね~。私は遅いですね~。すぐに次に行く筈だったのに、「おばあさん」の話が続いてしまいました。それだけ紫の思いは深いんでしょうが。何年経とうと後書きの内容は変わらない。