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6.青年と失われた少女の崩れさるちかしつ

 ここで話したことは全て、今まで誰にも話したことがないことです。きっと、これから話すこともないでしょう。

 私にとってあの地下室で暮らし、そして見聞きしたすべてのことが、今の私にとっての枷であり、罰であり、そして生きる意味でした。

 あの日全てを失った私に、それを簡単に手放せようはずもありません。

 ――さて。

 まもなく私の話せることもなくなります。私があの場所で過ごした期間は決して短くはありませんでした。しかし変化に乏しいあの場所では印象に強く残る出来事など、決して多くはないのです。

 そして、私の記憶に焼きついたあの地下での最後の記憶。

 ……それは、あの日の前の晩のことでした。


★★★★★


「今夜中に荷物をまとめておけ」

 私はかけられたその言葉に、咄嗟に反応することができませんでした。

 それは夕食時、ちょうど私がシャルロット謹製のひよこ豆のスープを口に運ぼうとした瞬間のことでした。もし口に含んでいたとしたら盛大に吹き出していただろうほどに、その言葉は私を焦らせました。寝耳に水のことだったのです。

 そんな私とは対照的に、シャルロットもエドガーもさして大きな反応は見せませんでした。エドガーは言うに及ばず、シャルロットでさえ一度フォークをおろして「そうですか」と言ったきり食事に戻ってしまいました。

 ――その様子を見た私の焦りようは想像がつくでしょうか。

 私にとってはこうして何年もの間ともに暮らしている彼女たちが、私だけには何も知らせずに何かの打ち合わせでもしていたのではないのかと疑ってしまう……、それほどの出来事だったのです。

 声の主であるロレッタは戸惑う私の様子など気に留めることもなく焼きたてのパンを頬張っていました。その表情は毅然としているようでどこか暗く、私のそれ以上の追及を拒むようでもありました。

 それを見た私は何も言えず、食事に戻るよりほかにありませんでした。

 シャルロットやエドガーがこうして何も言わないことや、何よりもローが私に対して告げなかったこと。そんなことを聞いたところで、私には理解できないかどうしようもないことなのだろう。……そう思うしかなかったのです。

 いえ、そうではないのかもしれません。私はロレッタや、シャルロットや、エドガーが、私を信頼してくれているのだと、そのように思っていなければもう平静を保てなかったのかもしれないと、今となってはそう思うこともできます。

 この日から数えてわずか三週間ほど前のあの件のことで私は少なからず狼狽し、後ろめたい気持ちを抱えていましたから。私はあの事実を隠したまま、平静を装って暮らしていたのです。

 その後はいつものように会話のない、しかし穏やかな食事の時間が戻ってきました。

 水のように味の薄いスープを飲みながら……、ロレッタの言葉の意味――どうして、どうやって、どこへ出ていくのか――それを考えることもできないまま。

 私はただプディングをもう一度振る舞いたかったなと、そんな感傷ばかりを考えていました。


 その日は皆、早めに入浴を済ませて床に就きました。誰も、大きな荷物は必要なかったのです。


★★★★★


 そして、その日は訪れました。いつもより少しだけ肌寒い日でした。

 結局ほとんど寝ることも叶わないまま私は目を覚ましました。寝床にはもう温もりはなく、乱れた衣服の隙間からひやりとした風が潜り込みました。

 私はしぶしぶと起き上がるといつものように身支度を始め、それもあらかた済ませると、久々に調理場に向かいました。

 食糧庫にあった今日と明日でぴったり使い終わるであろう食品から、朝食に相応しいだろうメニューを考えていきます。食材もそれを使ったレパートリーも、私にとっては多くはありませんでしたので、作り終えるまでをとってもそれほど長い時間ではありませんでした。

 盛り付けがほとんど終わった段階で、調理場の入り口の戸が静かに開きました。

「おはようございます。今日はまた一段と早いですね」

「おはようございます。ええ、どうにも寝付けなくて」

 今日はもともとかなり早い時間に起きる予定でしたが、シャルロットが起きてきたこの時でさえ普段よりも随分と早い時間でした。彼女の目元にうっすらと残る隈は、シャルロットもまた普段の様には寝付けなかったのであろうことを窺わせました。

「あら、おいしそうですね」

 シャルロットは無邪気に、しかし上品に微笑みます。私がここに来たとき糸繰り人形のようだった彼女は、もうここにはいなくなっていました。服装こそあの時からずっと変わらないメイド服ではありましたが、それでも彼女自身のまとう雰囲気が、ここ数年でずっと柔らかいものになったのは確かでした。

「運びましょうか」

 そう私に問いかけながらも、答えを聞くことなくシャルロットは棚からトレーを取り出して次々と皿を載せていきます。少し量が多いシャルロットのトレー、次に多いトレーは私が食べる分、エドガーが次に多くて、ロレッタが食べる分はシャルロットの六割ほど。

「もうエドガーも起きていますよ。きっと彼も眠れなかったか、早く目が覚めてしまったんでしょう」

 そう言って彼女はくすくすと笑いました。

 ――あのエドガーですから仕方がなかったのです。いかにも生真面目な彼が眠れないなどと言うのを想像するだけで、私もつられて思わず笑ってしまったほどですから。

 ひとしきり笑いあったあと、シャルロットは少しだけ昔の様子を取り戻したように言いました。

「長い間お世話になりました。他の誰も言いたがらないでしょうが、あなたには感謝しているのです」

「それは……、僕もそうです。僕はあまり役に立たなかったかもしれないですけどね」

「そんなことは。……ふふ。それならよかった。もう、こうして話せる機会があとどれだけ残っているかもわかりませんから……」

 トレーを三つ抱えた彼女は少しだけ寂しそうに私に礼をすると、そのまま調理場から出ていきました。後には私と、ひどく量が少なく見える朝食がひとりぶん。

 締め付けるような空虚さを払うように頬を叩いてから、私もロレッタの食事を持って調理場を後にしました。


 シャルロットとエドガーは既に席についていました。

 エドガーは視線をちらりとこちらに向けた後、手元の書類へと戻しました。普段は食事の席まで書類を持ち込むことはないのですが、彼にも時間がなかったのかもしれないとその時初めて思いました。昨夜寝れなかったというのもエドガーの場合は不安などではなく、ただ単純に書類の整理をしていただけなのかもしれません。

 シャルロットは普段休憩のときそうしているように、本――おそらく推理小説でしょう――に目を通していました。その速度はいつもよりややせわしなく思えましたし、そういう意味で彼女もまた必要な時間が足りなかったのでしょう。

 ――ええ、もちろん私も。本当ならあの時、私はあのお菓子を作りたかったのです。時間も、材料もありませんでしたから諦めざるを得ませんでしたが……。

 そして私が配膳を終え、席に着いたのを見計らうようにしてロレッタが自室の扉から現れました。きぃきぃと木の扉が軋む音、そしてじゃらんと床を這う鎖の音が私の目の前まで近づいてきました。

「おはよう」

 そう言ってロレッタは席に着きました。

「おはようございます」

 私とシャルロットがそう言い、エドガーは会釈しました。

 ロレッタは随分と眠そうな顔をしていました。ローもまたよく眠れなかったのでしょうか。若いせいもあってか、睡眠時間が足りない影響が最も強く出ているようでした。

 そしてこの地下室にいる四人で取る、最後の食事が始まりました。黙々と、私たちは食べていました。会話はなかったように記憶しています。しかし、それでよかったのです。何か会話が始まれば、きっと悲しい気持ちになってしまったでしょうから。

 いつもと同じ量であるはずの食事の時間は、いつもよりもずっと長く感じました。


★★★★★


 かすかな音が聞こえてきたのは、私たちが食事を終えて休憩していた時のことです。

 それは全く聞き覚えのない音でした。何の音であったのかは今でもわかりません。それは地下室の中ではなく、上から――そうです、おそらくは地上から聞こえてきた音でした。あの地下室はある程度深いところにありましたから、音が聞こえると言うだけでかなり大きな音を出していたのだと思います。

 寡黙なエドガーはその音に気づいていたのかいなかったのか。シャルロットは不安そうに私と顔を見合わせ、そしてロレッタは一つ大きなため息をつきました。

 そして僅かな時間の後に、大きな爆発音がしました。

「なっ……」

 それは先ほどまでの音よりもずっと近くで、――ええ、そうです。ベントリー伯のお屋敷そのものの中から聞こえてきたようでした。

 私は弾かれたようにこの地下室へ通じる扉を開けました。普段であれば暗い通路であるはずのそれが、今はなぜかゆらゆらとあかく照らされていました。

 爆発音と合わせて考えれば、理由など火事が起こったという他に思いつきませんでした。

「な、何が……」

「攻撃されているのさ、この館がね」

 振り返れば、転がっていたロレッタがゆらりと立ち上がっていました。

 その目はいつになく冷たく、どこまでも遠くを見ているようで。その視線は私からローを引き離していきました。

 私はこの時はっきりと理解していまいました。ロレッタは、もう私たちとともにいることはできないのだと。今となってもうまく説明できないあの感覚……、思えば私がロレッタを語ろうとしても、そのようなことばかりだったように思います。

 ――そして、なぜなのでしょうね。あの日、あの時。思い出したのは初めて出会った時の、あの笑い声でした。

 くつくつ。くつくつ。くつくつ。

 その時のローから漏れる表情を何度思い返しても、吊るされた彼女が私を見つめたあの時のあの不敵な笑みと重なってしまうのです。

「エドガー」

 ロレッタの声に、傍らに控えていた彼は頷きで返しました。それは確かに示し合わせてあったのでしょう。エドガーは荷物を持つこともないまま、地下室を出ていこうとしました。

 しかしそれをロレッタが一度呼び止めます。

「待て、エドガー。これを持っていけ」

 ロレッタはどこから取り出したのか、エドガーが普段から愛用していたペーパーナイフを投げつけました。豪奢な飾りのついたそれは、ぱしんと乾いた音とともに彼の手の中に納まると、ぎょっとするほど鋭利な刃先を覗かせました。エドガーはしばしそれを握りしめた後、今度こそ礼をして地下室を立ち去りました。


 ――私が見たエドガーの最後の姿はその時の物です。彼は怯えも憤りも、感情という感情を見せないようないつもどおりの歩きで、炎が迫る階段を上っていきました。


 私たちが茫然とそれを見送っている間にも、時折混ざる爆発音とともに館の火勢はますます増していくようで、階段はすでに随分と明るく照らされていました。

「シャルロット」

 シャルロットはロレッタの言葉にびくりと背筋を伸ばすと、おそるおそる返事を返しました。ローはそれを見て頷くと言いました。

「彼を連れて別荘に行け。私はここに残るよ」

 あの特徴的な笑みを貼りつけたままの言葉は、ひどく淡白な言い方でした。

「そんな、……ロー! ロレッタ!」

「ほら」

「はい」

 必死な形相をしていただろう私がロレッタに詰め寄ろうとするよりも、彼女に命令されたシャルロットが私の肩を掴む方がわずかに先でした。そのままぐいと引っ張られるのを無視して私はローに手を伸ばします。

「ロー!」

 私の声にびくん、と手錠が持ち上がって。

 ……そして、下ろされました。

 私の手は少しだけローに届かず、指先が彼女の手錠にかすりました。木で作られたそれに当たった私の爪は勢いよく剥がれ、私はその激痛に思わず蹲ります。

「さぁ」

「……畏まりました」

 ローに促されたシャルロットがやすやすと私を担ぎ上げて、そのまま部屋から出ていこうとしていました。

 私はその傍らで、ロレッタに、シャルロットに、ここにはいないエドガーや伯に、そしてこうなった原因であろうあの大きな音に対して、ただひたすらに喚いていました。

 ……もっといい方法はなかったのかと、私は今でも自分に問いかけます。しかし、きっとどれだけやり直そうとも、あの結末は変わらなかったのでしょう。

 離れていくロレッタの表情からあの不敵な笑みが消えたように見えました。何かを訴えるような、叫びだしたいとでも言いたいような。そんな表情をするローを、私はその時初めて見たのです。

 彼女は言いました。

「さようならだ、――。またの日に君に迎えが行くだろう」

 館が燃え落ちようかという轟音の中、ロレッタはそう言って私たちにくるりと背を向けました。


 駆けるシャルロットの背に乗って最後に見たローの姿は年相応の少女じみていて、その全身全てが崩れ落ちてしまいそうなほど儚く、そしてあっという間に壁の向こうへと消えてゆきました。


★★★★★


 シャルロットは、もはや何を叫ぶ気力もなくなった私を抱えたまま地下室を抜け出ると、今にも燃え落ちようとしている館を振り向きもせずに走っていきました。

 既にあの大きな音は鳴りやんでいて発生源を見ることはできませんでしたし、たとえやんでいなくとも火災の大きな音がしていましたからきっと気づくこともできなかったでしょう。

 シャルロットは適当なところで私を肩から下ろすと、それでも手をしっかりと握って走り出しました。彼女に手を引かれるがままに館の敷地を抜け、街道を外れてしばらくしたあたりまで脇目もふらずに走り抜けて、そこで足を止めた彼女にならいました。

 私の頭の中が混乱と悲しみで潰れそうなのとは対照的に、昇りはじめた朝日が少しずつ夜闇を退け始めていました。

 シャルロットは呼吸を乱すこともなく言いました。

「ここまで来れば大丈夫でしょう」

 息が絶え絶えであろうと、私には問わねばなりませんでした。

「……何が、……大丈夫なんだ」

「ここまで来れば、あなたが殺されることはないということです」

「だからと言って、ローが……!」

「はい」

 私の言葉を遮って、彼女はぴん、とその右手を上げました。その指先が示すのは、ここからわずかに屋根だけが見える小屋でした。

「私も、こうして彼女が死ぬことには耐えられません。あなたはここから先に行って待っていてください。私も彼女を連れてすぐに向かいます」

「なら……、なら僕も!」

「あなたが生きるということが、彼女の望みなのです」

 シャルロットは私に言い放ちました。その目は今までのどんな時よりも鋭く、この件に関して彼女は決して折れないということを伝えるのに十分に足るものでした。

 きっと私の顔はくしゃくしゃに歪んでいたのでしょう。

 シャルロットは「そんな顔をしないで、彼女は必ず助けます。あなたは、どうか先に」と私に声をかけると、先ほどまでよりもずっと速く館の方へと駆け戻っていきました。

 なすすべもなくそれを見送ってから、私は小屋に向かって歩きはじめました。

 小屋まではそれほど遠くありませんでしたが、小屋の屋根が頻繁に木陰に隠れてしまったために私が小屋に着いたのはすっかり日が昇りきったころでした。

 私は数少ない荷物を下ろすと、エドガーとアビー、ベントリー伯、思いつく限りのあの館での知り合いが無事であること、そしてロレッタとシャルロットが無事にここまでたどり着けることを祈りながら待ちました。


 しかし、あの時館へと駆けて行ったシャルロットは、再び私の前に姿を見せることはなかったのです。




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