5.青年と残された少女の紡ぎだすひめごと
「それでは行ってまいります」
シャルロットがそう言って荷物を担ぎ上げたのは、私が朝食を取り終わってから半時ほどのことだったでしょうか。
荷物は肩から提げる小柄なもので、しかし本来私物の少ない彼女のものとしては最も大きい鞄でした。
服装も常日頃着ているものではなく、外出用にやや動きやすく華美でないドレスを。その上で鞄の中には茶会用のドレスも入っていると聞いていましたから、当時は大変驚きました。
「寂しくなりますね」
「半月ほどのことですから」
シャルロットの出張が決まったのは一週間ほど前で、伯爵のお付として海を越え、会議に出席せよとのことでした。
アビーがそう告げた時、シャルロットは躊躇いもなく「畏まりました」と言いました。その声はどこか大理石を思わせる硬質さと冷やかさを孕んで、まるであの日――私がここに来た日に時が戻ってしまったかのように錯覚させました。
彼女の旅支度はあっという間で、まるでいつかこの日が来ることを知っていたかのようで。
その姿に、シャルロットがこのまま帰ってこないのではないかと不安にもなりました。
「それでは行ってきます。留守を、どうかよろしくお願いします」
「はい、わかりました」
最後に一度振り向いて私に会釈をすると、あの狭くて長い地上への階段を昇って行きました。
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シャルロットが旅に出てから三日ほど、私は何をしていても落ち着きませんでした。今思えば当然でしょうね。シャルロットか、あるいはエドガーが半日ほどここを留守にしたことはあっても、これだけの長い期間留守にすることはいままでにはありませんでしたから。
簡単に言えば、私は少しうわついていたのです。少しばかり羽目が外せるなと思っていたのです。
当時の私にとって、最も付き合いがあったのがシャルロットでした。ですからたとえ家事が増えたとしても、誰かといる時間は減るのですから、その分気が楽になると考えたのです。
だから大事なことを見逃していたことにも、そのためにひどく慌てる羽目になることも、そしてこの後起こるすべての出来事に当事者として絡んでいくことさえも――。
この時は、全く気付いていなかったのです。
私がこの後ひどく慌てることに気付いたのは、外からゴン、ゴンと扉叩きの音が聞こえた時でした。
鈍く光沢を放つその扉叩きは、普段は決して叩かれることはありません。それは私やシャルロットが毎週の食料品を取りに扉の外に出る日でも変わりませんでした。この地下室へ訪れるのは、本当にわずかな人たちでしかないのです。
唯一の例外は月に一度、エドガーが伯に報告をしに地上に上がる日その夜に、エドガーを呼びにこうして訪れるのです。
それを聞いて初めて私は、今日がその日であることに気付いたのです。
数分ほどの間をおいて再び、扉叩きが叩かれます。
ゴン、ゴン。
まるで同じ感覚で鳴らされたその音は、エドガーが未だ地下室のその扉を開けていないことを意味しました。それは几帳面かつ仕事熱心な彼にしては珍しく、準備ができていなかったということなのでしょうか。彼は常日頃から準備などを怠ることを嫌いましたから、そこで初めて違和感を覚えました。
『――なぜエドガーはまだ部屋を出ないのだろう』
頭を巡らせることもないままとりあえず扉の外にいるであろうメイドに「今しばらく待ってもらうように」と告げようと扉を出たところで、すでに準備を整えたエドガーと目があいました。
ゴン、ゴン。
後ろで鳴っている扉叩きを気にするでもなく、彼は私を見つめていました。
普段から得体のしれぬ不気味さを滲ませていたエドガーのことがこの一瞬、本当に何もわからなくなったような。私はそんな錯覚に囚われたのを覚えています。
彼は決して何かを話すわけでもなく、私をしばし眺めるとステッキをかつんと鳴らしました。
ゴン、ゴン。
その四度目のノックに流石に耐えかねたのか、面倒くさがりなローでさえも寝室から出てきます。
「なんだ、うるさいな」
エドガーはロレッタをちらりと見やると、それで満足したとばかりに私たちに背を向けます。
もう一度扉が鳴らされる前に、エドガーは扉の外へと出ていきました。
ロレッタはそれを見ると用事は済んだとばかりに部屋に戻っていきます。困惑の見えないその動きに、私はますます混乱しました。
話すことができないエドガーが、私に、私たちに何を伝えようとしたのか、それは今となっても私にはわかりません。ロレッタがそれを理解したのであればそれでいいと、短絡的に考えてしまったということもあります。
しかしこの時きちんとその意味を考えておけばよかったと、私はこのあと幾度となく後悔することになるのです。
そして、こうしてこの狭い地下室に、私とローだけが残されたのです。
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私はその時までこの日を楽しみに、あるいはとても恐れていました。
楽しみにしていたのはエドガーやシャルロットがいないことで得られる解放感であり。
そして何よりも恐れていたのはロレッタに対する感情と、直接向き合わねばならないということでした。
そう、あの日――ロレッタと初めて会ったあの日から、私は数えきれないほどたくさんの感情を彼女に対して抱いてきました。
――それは恐怖であり、親愛であり、友情であり、あるいはあまり認めたくもないことですが恨みであり、支配欲求であったりもしました。
人が人に向ける感情は多様ですが、私がロレッタに向けていた……あるいはロレッタの知り合い全員が彼女に向けていた感情はそれが好意であれ、嫌悪であれ、総じて極端であったように思います。
そしてもし、私がロレッタに向けている感情が彼女にとって害になると知った時、私は彼女の元に居続けられないと信じていました。
シャルロットやエドガーに対しても同様に思っていたに違いありませんが、それは誰もが多かれ少なかれ家族に対して持つのと同じような感情であったのでしょう。
ロレッタにだけ強くそう思っていたのは、彼女特有のの強い存在感と違和感が所以なのだと、今ではそう思います。
――ロレッタがこの状況をどう思っていたか、ですか。
あなたも私も同じように、当然ながら人の心を直接読めようはずがありません。それはあの意味深な発言を繰り返すロレッタも例外ではないでしょう。
……しかし、その時の私はロレッタがこの状況を楽しみにしているように感じました。表情も行動も、決して普段と違う様子はありませんでした。でも確かにあの時ロレッタはうきうきと、この状況を待ちわびていたようにさえ私には思われました。
その日の晩は私が料理を作りました。
この地下室に来てからはほとんどシャルロットが晩御飯を作っていましたが、私が調理する日も少なくありませんでしたし、それに何よりロレッタは私の作るプディングを大層気に入っていましたから、それを作るために台所に立つことも多かったのが幸いしました。器具がどこにあるのかは把握していましたし、何かを作る上で困ることもさほどありませんでした。
「シャルロットほどうまくも作れないし、種類も豊富じゃないけれど……」
私が作ったメニューは鶏肉と何種類かの野菜を香辛料で煮込んだスープとチーズを挟んでこんがりと焼きあげたパン、そして恒例のプディング程度。それでもロレッタは「構わんさ」と笑っておいしそうに料理を頬張りました。
私も、そしてローも食事のスピードはあまり早くはありません。食事が一番早いのはエドガーで、それと同時に食事量が人一倍少ないのも彼でした。シャルロットも食事は早い方でしたが、エドガーとは逆に食事量が多かったので、私とローとシャルロットがほぼ同時に食べ終わる、というのがいつもの風景でした。
二人きりの食卓はいつもより寂しいのも確かでしたが、そこにある沈黙は決して居心地の悪いものではありませんでした。
きっとそれはローも同じように感じてくれていたのだと、そう思います。
食後はローと一緒に入浴しました。
手枷足枷でまともに体を洗えないローは普段、シャルロットに手伝いをしてもらっているのですが、彼女が長期出張中の間は私が手伝いをすることになっていました。
ロレッタの体はちいさく、数年前に私がここに来た時とほとんど変わらないように見えました。あの日ぱっくりと裂けていた手首の痛々しい傷跡も残ったままです。
からだは白く、シャルロットよりも不健康なほどに青白く、艶のある黒髪とは対照的で、ローを見ているとまるで世界が白黒になったような気分にさえなりました。木製の頑丈な手枷と鉄製の足枷がガチャガチャと硬質な音をさせながら、私はローの体を洗っていきます。
隅々まで洗い終えると、私は自分の体を洗っていきます。どこにでもいそうな農夫の倅は、ここ数年で随分と筋肉が落ち、体も白くなっていました。もはや自分は生家の息子とは呼べぬだろうなと若干の寂しさを覚えながら、髪を洗い、そして体を流します。
「そうだな、きっともう戻れんよ」
そして、見透かされたかのようなローのその一言で、私ははっと我に返りました。
「あ、あぁ。そうだね。ここでの生活も楽しい、楽しいよ」
今にして思えば、まるで下手な誤魔化しのようなその台詞でも、彼女は満足したようで。
「そうか。そうだな、きっと楽しい」
私は丁寧にローの体を流していきました。
お風呂を出て寝室に戻る前、私たちは暖炉の前で体を温めていました。
――今となっては、私が「僕」のままでいられた最後の時間です。
パチパチと穏やかに燃える薪を前にして、私たちはぼんやりと過ごしていました。そこにある沈黙は初対面のような気まずさでも、緊張から何を話していいかわからないようなものでもなく、ただ沈黙が最も心地いいからそうしていたのです。
私たちは少しだけ、他愛のない話をしました。
きっと何の意味もない話です。ロレッタは学者が好んで選ぶような小難しい話を好みましたが、その日はそうではありませんでした。
私たちは外には出れませんから、そういった話ではほとんどの話は話しつくされたようにも思うのですが、彼女の話はそれを感じさせることなく、常に楽しいものであったように思います。
時間にしてみればわずかなものだったのでしょう。しかし、その時間は私にとって特に強く印象に残る時間でした。
やがてローは眠くなってきたのか、私の前を通って自分の部屋へと向かいます。
その後ろ姿を見ながら、枷の立てる硬質な金属音を聞きながら、私の胎の中にはむくりとあの名状しえない感情が湧きあがってきました。
あの時、私がロレッタに首輪をかけたあの時。その時とよく似た、しかしそれよりも濃密で恐ろしいあの感情を言い表す言葉を私は持ちません。
私はその強烈な感情に突き動かされふらふらと立ち上がり、
――はい。
気づいた時には、ロレッタを組み敷いていました。
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これは、私とロレッタ以外の誰も知らぬ話なのです。
帰ってきたエドガーやシャルロットにも話しませんでした。ロレッタはそういった話をすることを嫌いましたから、おそらく二人でさえ知ることはなかったでしょう。
私はこの罪の懺悔を誰にもしませんでした。
それは何より伯に罰を下されるのが恐ろしかったからであり、自らの感情と向き合うのが嫌だったからであり。
そしてあの日あの時あの場所で、くつくつと粘り気のあるロレッタのあの笑みの中に、私と同じように名状しがたい感情を見出してしまったことが何よりも恐ろしかったのです。
それは恐怖で、寂寥で、愉悦で、悲痛で、愛情で。
けっして私には理解できえない何かを背負っていたローが、今まで出そうともしなかった彼女の本心のかけらを表してきたことが、まるでもうこの地下室に私はいられないのではないかという根拠のない錯覚を覚えさせたのです。
こうして何度目にもなる回想をしてみても、あの時の感情を言い表すことができません。ローの瞳の中に浮かんでいたあの感情たちも、きっと同じでしょう。
そして私は私の、あるいはロレッタの感情と向き合うこともなく終わりの日々を迎えます。
今から8年ほど前の、あの日。
私が全てを置き去りにしたまま、何をかもを失くしてしまったあの日に。




