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4.青年と繋がれた少女の紛れこむくらやみ

 すみません、長々とお待たせしてしまったようですね。

 ――ええ、あの頃のことは思い出すだけで胸が痛くなるような、私の中でもとびきりいとおしい記憶になっているのです。ロレッタ、シャルロット、エドガー。3人と過ごした記憶は今でも私の中で鮮明に焼き付いていて、ともすると不意に話しかけてでも来そうなほど身近で、そして遠く過去に置き去りにしてきてしまった、そんな記憶なのです。

 もし私が過去に戻れるとするなら……、もう一度だけやり直したいものです。あの幸せだった日々を。

 ――前置きが長くなりましたか。

 ではあの不思議な少女。ロレッタの話をしていきましょう。

 

★★★★★


 ロレッタは、ローはアンバランスな少女でした。

 両手で数えられる程しかない年齢相応の女の子らしさと、年齢を感じさせないコケティッシュな魅力、そして時に老獪な知識を悠然と語る様は当時の私からしても、そして外に出て様々なものを見てきた今の私にとってはそれ以上に、とても少女と呼べるような存在ではありませんでした。

 しかしどうしてか、ローに少女以外の呼び方などないように感じるのです。たとえどれだけ言葉を積んだとしても、少女以上に彼女を表すに相応しい言葉などないことでしょう。少なくとも私は、それ以上の言葉を知りません。

 もしかしたらそれはローの低い身長や、性的に未発達な体のせいでそう思えたのかもしれません。ローはその年齢に比して身長も低く、身体的な発達が緩やかな方でした。栄養状態も決して悪くなかったローの成長が遅かったのは遺伝のせいなのでしょうか。

 身長や体重が伸び悩むのとは反対に、爪や髪が伸びるのは比較的早かったと記憶しています。暑い時期になると、ローは日に二度三度と湯浴みを繰り返したものでした。


 そういったあくまで普通の少女であるというものとは別に、ロレッタはその性格――いえ、人格が奇妙であったのは間違いありません。

 傲慢で横柄で貴族よりも貴族らしく、時に見せる儚さは少女よりも少女らしく、何より怪しげな魅力は関わるものすべてを虜にしていたと言っても相違ないでしょう。

 少なくとも、あの屋敷で私が関わった幾人もの人間はみな、私も含めてロレッタという年端もいかぬ少女に対して、あるものは尊敬を、あるものは愛情を覚えていましたし、あるいは畏敬や畏怖の感情すら湧き上がってきたことがあると言いました。女中たちのほとんどはロレッタを不幸を呼ぶものとして忌み嫌っていたとも聞きますし、それを裏付けるかのようにアビー・ボイエット以外の女中が地下室まで来たことは数えるほどしかありませんでした。

 この屋敷で最も偉い伯爵ですらローに上からものを言うことができなかった、という噂すら流れていたのも確かです。そのような噂話を肴に、私やシャルロットは夜な夜な真とも偽ともつかぬ噂話に興じることができたとも言えます。その噂がなぜ囁かれるのかをを語るとき、私たちは何よりも目を輝かせましたし、そして声が決して漏れないようにひそめるのが常でした。

 それほどまでに、一見なんの変哲もない少女ロレッタが放つ魅力、魅惑の力は強いものでした。

 ……そして、それはまるで悪魔のように不安の種を心の奥底に芽吹かせるのです。

「君は人の死をなんだと考える?」

 いつだって彼女の問いは唐突で、時に脈絡なく現れました。そんな時には決まって私と二人の時で、私は頭を悩ませたものです。

 紅茶を楽しみながらたっぷりパンが焼きあがるほどの時間を考え続けて、私はこう返事をしました。

「僕は、死は審判の時だと思っているよ。生前に良い行いをしたのかそうでないのか。悪い行いをしたのかそうでないのか。きっと主は正しく見極めてくれるのでしょう」

「ありきたりだな」

 私の答えが少女の想像を超えることは結局一度としてなく、それでも少女はあの笑みを浮かべると、まるで悪巧みをするかのように声をひそめて言うのです。

「もしも審判なんてものが存在せずに、もう一度だけやり直すことができるとしたら、君ならどうする?」

  ローの質問と問いかけは時に身近なことであり、時に世界を見据えたものだったり、時には概念の話であったりしました。詰めチェスのような論理ゲームから突拍子もない思考まで話題も様々で、まるでロー自身が伯の書斎の書架そのものであるような錯覚すら覚えました。

 ロレッタに、彼女にわからないことはあったのでしょうか。

 わからないことがなかったとはとても言えません。言えないのですが、それでもなお森羅万象について知っているのではないかと疑ってしまうほどローは博識で教養と学のある少女だったのです。

 私はいつものように、ゆっくりと考えていました。ローが紅茶のカップを空にするぐらいの時間は考え込んでいたはずです。彼女はどんな回答でも機嫌を悪くすることはありませんでしたが、それでも考えないということにはひどく腹を立てましたから。

 ローがカップを置いたのを見て、私は口を開きました。

「もし死が審判でないのだとしたら、その時は僕が僕自身の手で審判を下すよ。やり直すなんて選択は、やっぱりできるならしたくない。やり直したいと思ったのなら、僕はその足で煉獄に向かうよ」

「それならもし、もしも」

 ローはその時、食卓に並んでいたバターナイフを手に取りました。それをくるくると手元で玩びながら、 楽しそうに続けます。

「たとえば今、私がこのナイフで君の眉間を穿ったとして君は煉獄に向かうかな」

「キミはそんなことをしな――」

「事実が問題ではないのだ」

 いつの間にか少女の手元のナイフは動きを止めていて、その切っ先がまっすぐ私の額を狙っていたのです。彼女の目はとても真剣で、私は続きを飲み込んでしまいました。

「今ここで死んだとして、君がどうするか。問題になっているのはそれだけなのだ」

 私が考え始めたのを見て、ローは再びくるくるとナイフを回し始めました。しかし、今回の私の沈黙はそれほど長くは続きませんでした。

「僕は」

 口を開いたと同時に、ローはナイフをテーブルへと戻しました。そしてあの特徴的な笑みを浮かべながら続きはまだかと目で促します。

「僕は今死んだとしたら、何も悔いはないよ。もしもキミに殺されたんだとしたら、どうしてキミを怒らせてしまったのかだけは悩みそうだけれど」

「そうか」

 ローはカップに手を伸ばしてからその中身がないことに気付くと、苦々しげに口元を歪めて言いました。

「茶を」

 そばでずっと待っていたシャルロットが紅茶を注ぐと、香りを楽しむようにしてからローはゆっくりと啜ります。

「あぁ、おいしいな」

「そうですね」


★★★★★


 ローはいついかなる時も厳めしい木の手錠と鉄の鎖が繋がれた足枷をしていました。

 手錠は大きく、足枷は重く、どちらも日常生活にすら支障を及ぼしかねないものでしたが、慣れているのかローが困った様子を見せる事はありませんでした。

 そんなローの姿をみて、私は憐れみと、そして安堵を覚えていたのです。もっともそれに気づいたのは、かなり後になってからなのですが。

 しかしその安堵は、決して自分より下の相手がいるからという下卑た理由ではありませんでした。私はその時確かに、この少女が解き放たれるのを何よりも恐れていたのです。

 ローは天邪鬼でこそありましたが従順で、知識や戦略には優れたもののとても非力でした。例えばこの鎖がなかったとしても、彼女が何かをできたとは到底思えません。それを知ってもなお拭い去れない不安を抱かせる、ローとはそのような少女だったのです。

 ある時、私が屋敷に入って数年もした頃でしょうか。その日は上から食糧が届けられる日だったのですが……。

 ――ええ。週に一度、一週間分の食糧を、ほとんどの場合はアビー・ボイエットが地下室の入り口まで持ってくるのです。

 先述の通り、アビー以外の女中はここに来ようとはしませんでしたし、そのアビーでさえ来ることには躊躇いがあったようでした。おそらく彼女は、ここを疎んでいたのではなくロレッタを関わり合いになりたくなかったのでしょう。

 その日もアビーと、そして伯を迎えたのは私とシャルロットでした。ローを部屋から出すわけにはいきませんでしたし、食糧を運ぶという肉体労働の側面を考えれば私達が行くのが最も都合が良かったのです。

 しかしその日は、珍しく伯も共に来ていたのです。

 私は、そしてシャルロットも。そこに伯がいるのを見て大変驚きました。そもそもここまで伯がやってくる事が珍しかったというのもありますし、上質そうな白い木の箱を持っていたのも気になりました。

 伯は驚いている私に箱を渡すと、それ以上言う事はないとばかりに階段を上がって行きます。彼もまた、ここに長居はしたくないのだと、私は咄嗟にそう思いました。

「これは?」

 呆気に取られている私に代わって赤い女中に尋ねたのはシャルロットでした。

「新しい枷だそうよ」

 アビーはすっと私を指差して続けます。

「貴方が彼女につけなさい、と伯は仰せです」

「僕が……?」

「ええ」

 白塗りの箱は次第にずっしりと重みを増して、私はそれがなんであるかを確かめなければ、不安のあまりこのまま持っていることすらできなくなりそうだと感じました。

「開けても、いいですか」

「構いません」

 木箱だというのにつややかに白く塗られたその箱に、私は緊張していました。

 新しい枷をつけるということはローをより哀れにすると同時に、私にとって少しの安心をくれるものだろうと。そしてその思考に自己嫌悪を覚えてしまうぐらいには、私は聡くなっていてしまったのです。

 中のものが傷つかないようにと、私は慎重に蓋を開けました。

 中から出てきたのは、鈍い光沢をもった大きな革製の首輪と、そして意図的に外せないように強いる大ぶりの南京錠でした。

 首輪はこの場にいるだれの首よりも小さく、そして間違いなくロレッタにとってぴったりと装着できる大きさの首輪で、それでありながらかなり太く、おそらくロレッタの首を完全に覆ってしまうことは想像に難くありませんでした。

「それから、これが今週分の食糧です」

 アビーは上質な生地でできているだろう背嚢をおろすと、それをシャルロットに手渡しました。本来はこちらの方がよほど重大事だというのに、あの時の私にとってはそんなことなどどうでもいいとすら思えていました。

 ――そうです。私は気づいてしまっていたのです。

 首輪をつけることで、今は囚人として暮らしているローの立ち位置が、家畜というものになってしまうことを。それは彼女にとってどれほど耐えがたい屈辱なのかを。

 私は、その時ここに来てから初めて来たことを後悔していました。

 まだ、本当の後悔というものすら知らなかったというのに、私は打ちのめされていたのです。


 伯に言われたからといって、私にはその首輪をすぐにつけることはできませんでした。

 私は首輪の入ったその箱を食料とともに持ち込むと、こっそりと寝台の下に隠したのです。寝台の下には荷物がありましたから、当分はローには見つからないだろうと思っていました。

 シャルロットはそのことを咎めませんでしたし、次にアビーが来るのは1週間後だとわかっていましたから、それまでに結論を出せばいいと考えたのです。

 ――はい、それは明らかに逃げの一手でした。私はそんな役目を押し付けられたくはなかったのです。

 しかし、そうして隠してからわずか1日と待たず、ローは、彼女はその存在を言い当ててしまいました。

 ――ええ、ローはそれを見つけたのではありませんでした。その存在を言い当てたのです。けれどそれは彼女にとって、何の不思議もない事実だったようなのです。

 ベントリー伯が地下室に来てから私は素知らぬ振りをしてその日を過ごしました。その疲れが出たのか、その日は早く寝入ってしまったのを覚えています。

 ですからその翌日、目を覚ました私の枕元にローが腰掛けているのをみて、文字通り私は寝台から転がり落ちました。

「やぁ、おはよう」

 少女はそう、何でもないように言います。

「お、おはようございます」

 私もまたそうであるように必死でした。高鳴る心臓の音ですら少女に何かを伝えかねないと、私は確かに怯えていました。彼女がいつも通りでも、そこにある圧迫感はいつも以上でした。

「なにもそう怯えなくてもいい。聞きたいことがあるだけなのだから」

 少女はあの奇妙な笑みを浮かべて、「昨日、来たのだろう?」私にそう問いかけました。それが何を意味しているのか、思考が完全に止まってしまった私でも察しました。いえ、ローがそこにいた時点で気づいていたのかもしれません。

「隠さなくてもいいのだ」

 ローは言いました。

「伯がそうすることなど、ずっと前から予想していたのだから。君が怯える必要などどこにもないのだ」

 彼女の口調は私に言い聞かせるようであり、そしてまた彼女自身に言い聞かせるようでした。

 ローも、本当はそれを恐れているのではないか。私はそう思いました。ローは感情を表に出すことを良しとしない人間でしたから、この時も私は表情を読み取ることはできませんでしたが、その行動がなによりも彼女のこころを表しているのだと思ったのです。

「ローは……」

「探し出すのは、それほど難しいことではないのだ」

 ローは私の言葉を遮って、「君のことだ。この部屋の中で見つかりにくい場所、箪笥の中か、寝台の下か、あるいは荷物に紛れ込ませたかと言ったところだろう」そう何でもないことのようにそうつぶやき、そして私の反応を見て隠し場所の目処をあらかたつけたようでした。そして私がそれに気づいたことにも、もちろん気づいていたのでしょう。瞳がそれを雄弁に語っていました。――もっとも彼女にとっては本当に何でもないことだったのでしょう。

 私はため息をついてしぶしぶ箱を取り出しました。

 一晩がたってなお、中にあるものの存在感は強くこびりついたままで、それがローの首に装着されている様子を想像して、私は強く首を振りました。

「僕はこれを、キミにつけたいとは思っていないんだ」

「気にすることはない」

「キミには、こんなものをつけていてほしくないんだ」

「知っている」

 ローは淡々と私の言葉に相槌を打っていきます。

 私はそんなローを極力見ないようにしながら箱を開けていきます。中に入っているのは革の首輪と、南京錠。

「それでも、君はやらなければならない」

 私はそれをゆっくりと取り出して、ローの前に掲げました。頭の中で様々な感情が溢れてきて、少しだけふらふらとしたのを覚えています。

「さぁ、やりたまえ」

 少女は寝台から降りると、私の目の前に座りました。足枷に少し窮屈そうに座り、手を下して。目をつぶりながら首を前に出すさまはまるで――。

 彼女の長い髪をかき分けながら、私は首輪をローの首の後ろに回して、

 その細い首を絞めつけるように黒い革を手前に引いて、いともたやすく首輪の装着は終わってしまいました。

 私はもう、ローの顔を見ることもなく、手に取った南京錠を、彼女の首輪が外れないように、それに取りつけたのです。

「ありがとう」

 少女の言葉がどんな意味を持っていたのか、その時の私は考えることすら、しなかったのです。


★★★★★


 首輪を付け終わった私がローの顔を初めて見た時、私が思った感情がなんであったか、お分かりになるでしょうか。

 ――後悔、安堵、怒り……、どれでもなかったのです。

 もちろんそれらすべてが渦巻いていたのも事実です。しかしそれとは別に、ある一つの感覚が私をゆっくりと飲み込んでいきました。


 それは、背徳感と呼ばれるものだったのだと、今は思います。


 それがのちにどういった結果をもたらすのかも知らず、

 ただただ私は、そこで茫然としていたのです。

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