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2.青年と囚われた少女の暮らしたまいにち

 メイドと執事はともに寡黙で勤勉でした。ローが何かを気に入らないと一言口にすれば、以後二度と同じことを繰り返したことがないほどです。恐らく、伯爵が教育の行き届いた二人をよこしたのでしょう。

 それゆえ私には、彼女たちが酷く人間味のない人形のように感じられたのです。一度、シャルロットに「脱げ」と言ってみたことがあります。彼女がすぐさま染みひとつない柔肌を晒そうとしたことで、私はそれを確信しました。

 エドガーの方はもっと酷いものでした。数年間付き合ったのですが、結局声を聞いたのは初対面のときだけでした。髭は常に整えられ、同じ部屋に暮らしていたというのに執事服以外の服を見たことすらありません。驚いた顔さえ、私は初めの1か月で幾度か見たほかは見ていないのです。もしかしたら彼は人間ではなかったのかもしれない。今でも時々、そう思わざるを得ないのです。

 一方ローはといえば、見れば見るほど違和感は存在感を増していきました。白いワンピースに包まれた肌はまさしく白磁のようで、健康的な血色も病的な青白さも一切感じさせない不思議なものでした。その手首に何重にも巻かれた包帯は翌々日でもわずかに血の痕を滲ませ、先日の面接がいかに危険なものであったかを物語っていました。手首足首には無骨な……、今では考えられないくらいごつごつとした手錠を課せられ、その枷を決して外すこともなく器用に日常生活を送るさまは、私にローがまるで囚人であるかのようにすら思わせました。そうでありながら、そこにいるだけでも放つ圧倒的な存在感はシャルロットとエドガーが人形的であるのと対照的に、怪物的とでも言うべきほどでした。ありていに言ってしまえば、私はこの時からずっと、あの少女におびえながら生きているのです。

 その後幾日かを経てなお、私はローの手錠や足枷が外れていることを見たことはありませんでした。私はそれを見てローが不便な思いをしないかと心配し、そして安堵していたのです。まるでそれから解き放たれた時、ローが別の何者かに変わってしまうような……、そんな気がしていたのです。

 何日間か暮らしてみてわかったことですが、あの地下室にはあまり設備がありませんでした。せいぜい申し訳程度に備え付けられているのはトイレぐらいなもので、水や食料は定時になると上で働いているメイドが持ってくるということになっているようでした。そのため恒常的に水は余分にはなく、ほとんどの日は体は濡らした布で拭うことで清めていました。ローは手が届かないのか、背中の一部をシャルロットに手伝ってもらっていたようでした。当時私たち――農村で暮らしていた人々は、二三日に一度、柔らかい布に水を含ませて体を拭うのが普通でした。今でこそ庶民にも入浴という文化が普及してきましたが、その頃はむしろ一般的な生活よりずっと良い衛生環境でした。おそらくそれ以上のものも望めば手に入ったのでしょうが、ローがそこまでを望んでいなかったからか、結局そこまで至ることはありませんでした。

 娯楽品といえばもっぱらチェスでした。私ははじめ、駒の動かしかたすら知らないほどの初心者だったのですが、遊び続けるうちにめきめきと腕を上げ……、ているとは言われました。最も、私自身にはその自覚すらなく、ローには負け続けていましたが……。

 想像していた以上に、地下での暮らしは私にとって楽しいものでした。ローとチェスで対局し、シャルロットの手伝いを日に幾度かし、エドガーとはあまり顔もあわせないまま書庫に眠っている本を紐解くという単調なものにもかかわらず……。もともと文字を読むのが好きだったことも幸いしたかもしれません。そうでなければあっという間に息が詰まってしまったでしょうから。

 さらに伯の元で働くようになってから数日間で、私の元には家族のものを含め、何通かの手紙が届いていました。祝福してくれるもの、伯の下で働くことを羨んだり妬んだりするものなど内容は様々でしたが、その一通一通に丁寧に返事を書きました。もしかしたらもう会えないかもしれないのだから、とやけに切なくなったのも今では懐かしいですね。

 書庫は、私が地下室に行ってからそこを出るまでで一番よく入り浸っていた場所でした。古今東西の数千をはるかに上回る書籍がたった二つの書庫に所狭しと並べられているのはそれはそれは圧巻でした。つんと鼻に付くか黴の匂いも、本の持つあの涼しげで静寂な空間も、 湿気がやや多くなりがちなことを除けばひどく居心地のいい空間だったのです。それ以外にはまともな部屋があまりなかったというのもあるかもしれませんが……。この地下室にあったのは他に4人の部屋と食料庫、厨房に氷室くらいなものでしたから、一人時間を潰すにはやはり不向きだったのです。

 ――そうです、氷室は昔、氷を貯蔵するのに利用していたと聞いていました。当時も氷の貯蔵は多少とはいえありましたので、ローは夏場になるとよく氷室で涼んでいたものです。私やシャルロットがたびたびお腹を冷やすと心配するのですが、それでもやはりここがいいと譲らずにたまにお腹を壊していたりしました。時には手枷が冷え切って手首から先の感覚がなくなって出てくることもありました。実際凍傷になりかけで、エドガーですら驚いていたほどです。……それだけのことが起こっても、外される様子だけはありませんでしたが。

 失礼、話を戻させていただきましょう。――ええ。私がそのようにしてローを畏れつつ、そしてこの生活にも慣れてきた時期の話です。しかし、私はことこれほどこの部屋でくつろぐようになるに至っても、ローが何者であるか考えることを恐れ、ローと向き合うことを怖れていました。ローや、そしてシャルロットやエドガーにもそれがわかっていたのでしょう。私たちは互いに必要以上の会話をせずにこの地下室での日々を過ごしていました。それが崩れたのはそう……、あの時の話です。

――その時私は書庫の中で一人、今日はどの本を読もうかと吟味していました。


★★★★★


 ドン、と強い音がして私は顔を上げました。書斎にいたので細かいことはわからなかったのですが、顔を出してみるとそれは地下室中央の広間――と言ってもそこまで広くはないものの便宜上そう呼んでいた部屋ですね。その広間にある机を、ローが叩いた音でした。

 私たちは普段、特に昼間に関してはあまり音を立てず、静かに暮らすことを好みましたから、その大き目な音は物珍しく、私が広間に顔を出すのと前後してシャルロットやエドガーも顔を出しました。エドガーはいつも通りの無表情でしたが、シャルロットはやや驚いた顔をしていたのを覚えています。

「誰だ?」

 ローは顔を出した私たちにそう問いました。――ええ、突然、何の脈絡もなくです。ローは今後、よくこのようなことを起こしました。このようなときのローは癇癪を起こした赤子よりも手が付けられない状態とでも言いましょうか……。いつもの威圧感がより一層増して感じられるのです。そしてたいていの場合には私には何の話かすらわかりませんでしたので、そのたびになにかローを怒らせるようなことをしてしまっただろうかと冷や汗をかいたものです。そしてそれはシャルロットも同じだったようで、まずいことをしてしまったのではないかと必死になって頭を回しているようでした。もっとも、エドガーだけは目立った反応も見せず、扉から少し出てその場で直立していたようでしたが。

「……そうか、なら少し調べさせてもらおう。異存はあるまい?」

 私たちの動きがなかったことが彼女を怒らせたのか、ローはそう言うといつもの気取った歩き方に若干の怒気を孕ませながら、まずは私の部屋に歩いて行きました。

 私も、当然シャルロットやエドガーもそれを止めることなどできず、ただ見守っていました。ローは私の部屋の扉をあけ放ち、一瞥するとすぐ隣にある書斎へと踵を返しました。そこでも同様にして部屋の中を一瞥し、次の部屋、次の部屋とローは次々と覗いては、ここではない、ここでもないと呟いていました。私には、そしてシャルロットやエドガーたちにもおそらくは理解できていなかったのでしょうが、ローは自らの探し物がそこにないことを瞬時に見抜いていたようでした。一体どうしてそんなことが分かったのか、いまだに私にはわからないのですが……。

 ローは全ての部屋を一瞥すると再び食卓まで戻ってきました。その様は今では明確な、数日しかともに過ごしていない私でさえ気圧されてしまう怒りに満ちていて、私たち3人は何も言うことができませんでした。

 そしてローは言いました。

「犯人はこの中にいる」と。

 それも私たち3人はぽかんと聞いていることしかできなかいのでした。ローは順番に私たちを見回しますが、そもそも彼女が何を探しているかもわからない私たちは当然、困惑するばかりです。

 私にもわかるような怒気を放っていたローは、私たちのその反応を見て何かに気づいたのか、どこか拍子抜けした様な表情を浮かべました。まだこの少女と会って間もない私やシャルロットはこの豹変に驚くばかりで、一体どうしていいのかと迷うばかりでした。もちろん、エドガーだけはその様子を悠然と眺めていましたが。

「……はぁ」

 ローは嘆息すると、「食べようと思っていた菓子がないのだ。誰か知らんか?」と半ば投げやりに問うてきました。恐らくは誰かの不注意で処分してしまったのか、あるいは食べてしまって言い出せなのではないかなと私は考えていましたが、私も、そしてシャルロットもエドガーもその質問に答えることはできませんでした。ローがすでにそんなことを考えつくしているだろうと、そう感じたからです。

 ……あるいは答えが見つからなかったのは知らなかったからではなく、その違和感に飲まれてしまったからではないかと、今になっては思います。私は、そしてシャルロットやエドガーもですが、始めてこの少女を、得体のしれない何者かではなく年端もいかぬ少女としての見たのではないかと思います。その間には深い溝があって、私たちはその溝に落ちてしまわないようにと必死だったのかもしれません。

 今になって後悔しても遅いのです。ですが、もしこの表情を見ていなかったら。最近はよくそう考えます。もしかしたら全ての結果は違っていたのかもしれません。今言っても仕方のない事ではありますが、そうであるならばきっと、私はここにはいなかったでしょう。

 ただ、そうであるなら私は決してローを、あの少女を思い返すことはなかったでしょう。恐怖に支配された思い出として、一刻も早く忘れ去ってしまいたいと、そう思っていたでしょう。きっと、そう思えるだけ私は幸運だったのです。

 結局、ローの探し物は見つかりませんでした。ローは私たちの追求を終えると、私を名指しして代わりの菓子を作れと無茶を言ったものです。――それがどうなったかですか? そうですね。シャルロットにいろいろと聞きながら簡単なプディングを、なんとか完成させました。菓子など作ったこともありませんでしたから、形はぐずぐず、味も湿気ったパンのように薄いものでしたが、ローもシャルロットもそれを美味しいと言って頬張っていました。エドガーだけはいつも通り、黙々と食べていましたが……。



 ……あぁ。いけませんね。やはり年は取りたくないものです……。……こうして、涙腺が脆くなる……。あの時作ったプディングの味は、今でも忘れられないのですよ……。

 ……すみません。少しだけ休みをいただいてもいいでしょうか。もしよければあの頃作ったプディングを、今からでもご馳走しますよ。今でも時折作るんですよ。材料もありますし。

 ……味ですか? もちろん、あの少女にも喜んでもらえるようなとびきり美味しいものをご用意させていただきますよ。



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