1.青年と縛られた少女の巡りあうおはなし
あれはもう20年ほども前の話になりますか、その頃は私も少年と呼ばれても文句の言えない年頃でした。あくまで一般の農民でしかない私に突然、ベントリー伯邸でお仕えすることができるかもしれない、という話が舞い降りたのです。そう、あの日のことはなかなか忘れることができません。きっとあの頃、私とともに遊んでいたものの多くはそう言うことでしょう。彼らが生きていさえすればですが。……失礼、少し話がそれましたか。その日、確か春先の、ちょうど13日の金曜日のことでした。日付と相まって妙に不吉な知らせだと思ったことを覚えています。いつもと同じように朝起きてみると村のあちこちにベントリー伯の名前を冠した看板がいくつも立っていたのです。村の者はそれはもう大騒ぎでした。行商の者の話では、ここら一帯の村すべてにお触れが出されたそうで。
――ええ、それはもう大変な騒ぎでしたとも。今とは違って、貴族様が平民たる我々にお触れを出すだけでも大事だったのに、それもただのお触れではなかったのです。細かい文面こそ覚えていないのですが、それは住み込みのお手伝いの募集でした。それこそ、対象が女児であれば囲ってしまうのかと思えたのですが、それが男児だったもので村ではやれ伯爵は男色なのだ、いや誰にも言えぬ秘密の仕事をさせるのだ、それとも貴族様にはできぬ汚い仕事をさせるのだろうかなどと囁かれたものです。このように不穏な噂も飛び交いましたが、その募集には目も眩むような報酬が用意されておりました。募集に応募するだけでひと月は家族そろって食べていけるような報酬が用意されていたのです。そのため男たちはこぞってその募集へと飛びついたのです。そう、そして私もその応募に参加した一人でした。
私の応募した理由についてはよく覚えていません。当時の私はそれほどお金に執着もなく、活動的な人間でもありませんでしたから、恐らく両親に言われたから行ったのでしょう。大して能もない私がいなくなった上にお金がもらえるとあれば、そうしないのが不思議なくらいですから。家の中で妹だけが、私がいなくなるかもしれないと泣きながら見送ってくれたのを覚えています。
村から2時間ほど歩いたところにあるベントリー伯邸には、周囲の村々からかなりの数の人が集められていました。絶対に召し抱えられてやると意気込む人から、家長の指示で渋々といった態度の人まで、中には女性も何人か、混じっていたようでした。合わせると人数としてはとうてい千人はくだらなかったと記憶しています。
集められていた人々は少しずつ、執事やメイドによって連れ出され、面接を受けていたようでした。中には時間がかかりすぎると腹を立てて出て行った人もいたようでしたが、ほとんどの人はその報酬が目当てだからか、その数はあまり多くなかったように記憶しています。次第に私の番が近づいてきましたが、どうせ採用はされないと周りにも緊張している者は少なく、私自身もそれほど意気込みがあったわけではないので緊張はあまりありませんでした。
私の番が来ると、一緒に待っていた数人とともに廊下へと案内されました。ふかふかと柔らかく毛先まで赤いカーペットが敷かれていたこと以外には、あまり覚えていることがありません。この地域では春先には冷え込むことも珍しくないですが、燭台が暖房の代わりになっていたのか、それほど寒さは感じませんでした。
私たちはとある部屋の前まで案内され、メイドが順番に案内するから待つようにと指示されました。その部屋の扉は他の部屋の扉に比べて装飾が少なく、これまでに通り過ぎてきた部屋と比べればやや質素ともとれるつくりでした。大体2,3分おきに前の人が入室していき、私はその場で10分ほど待ちました。
「次の方、こちらへ」
メイドに促されて入室した私を待っていたのは、手首を鎖で縛られて宙吊りにされた、年端もいかない少女でした。足先は地面に辛うじて届くか否かで絶妙ともいえる具合に調整されていて、既に数時間吊られているからか……面接が始まってからそれぐらいの時間は優に経っていたのです……手首は皮膚が裂けて垂れた血が赤く染めていました。すらりとした肢体を覆う布はぼろぼろの麻で、長い黒髪と相まってその姿は幽鬼そのものだと感じるほどでした。それだけを見るならばエロティシズムを感じてもおかしくない、背徳的な構図でしたが、不思議と少女はそう見られないような、不思議な存在感を放っていたのです。
その理由はもしかしたらその目にあったかもしれません。目、というよりかは表情というべきなのかもしれませんが。手先は真っ白になり、足元にできた血だまりも決して小さくはないというのに、唇は皮肉気につり上げられ、目は不敵に私に笑いかけてくるのです。
私はすぐに、その瞳が怖くなって顔を背けてしまいました。とはいっても広くない部屋の中、家具も調度もなく、亜麻色に塗られた壁紙だけしかない部屋でしたので必然、視線は少女に戻ってしまうのでしたが。もしかしたらそのためだけにこの部屋を作ったのではないか、とも思えるような作りの部屋でした。
しばらくのあいだ、私が面接ということも忘れて視線を彷徨わせていると、不意に少女がくつくつと笑いながら話しかけてきました。――えぇ、実際にくつくつという声で笑ったんですよ。聞いているだけで背筋に鳥肌が立つようなアンバランスすぎる笑い声で。……そして少女は口を開きます。
「少年、名は何と云う」
初め、私はそれが目の前の少女から発せられたものだとは思えませんでした。老熟し、高い知性を感じさせる独特の喋り方は声こそ高く、少女らしさを感じさせるものでしたが、いかにも作り物めいて、そのような声を出せる人が本当にいるのかすら疑わしく思えてくるほどでした。――今でも覚えていますよ。初めて出会った時のその衝撃を。私はその声に、一瞬で惹きつけられました。そして同時に、急速に恐ろしくなったのです。この人形のような少女があまりにも人間に見えなくなってしまったためです。
「僕は――」
「ふむ、そうか。……――。良くも悪くもない、凡庸な名だ」
その言葉に私は決して腹を立てたりはしませんでした。私にとってはそんな言葉で腹を立てるよりは早く、この場を逃げ出したいとそう思っていたのです。しかし運命の女神は――えぇ、まさしく女神だったわけです。私にそんな楽な人生を歩ませてくれる気はなかったようです。少女が手元の鎖をじゃらりと鳴らすと、天井近く、鎖に結び付けられた鐘がからころと鳴りました。その直後、先ほどとは違う扉から赤い……、いや、真紅と評したほうが適切そうな色の、おおよそメイド服とは言い難いメイド服を着た女性が現れました。……いえ、もしかしたらその赤にはほんの少しだけ黒が混じっていたのかもしれません。私にはそれが血の色を表しているような気がして、不吉である感じてならないのでした。
メイドは私に会釈をすると「こちらへ」とだけ呟くようにして、たったいま入ってきた扉から部屋の外に出ていきました。私が慌ててついていくと、メイドはとある一室の前で私を待っていました。顔にはいかにもな仏頂面が浮いていて、いかにも怒っているといった風なのですが、先ほど少女と出会ったばかりの私にとってはその顔ですらとうてい恐いとは思えませんでした。私が部屋に近づいて扉を見ると、普段このような場所に縁がない私ですら豪奢な飾りからして客間、それも賓客をもてなすための部屋だとすぐにわかりました。
しかし、メイドが開けた扉から中に入るとそこは伽藍として、おおよそ客間には向かないように私には思えました。複数のソファーがあり、気品を感じる調度が並べられていましたが、あってもよいはずの絵や工芸品などは見当たらず、しかも客間には必要であるはずのベッドすら置いてありませんでした。果たして何に使われている部屋なのか、部屋にあるべきものとともにそれすらも隠してしまったようだと、幼心に思うほどでしたから。そして一見したところ、まだ誰もここで待っている様子はありませんでした。――そうです、この時点で私は、自分がこの求人で、伯に選ばれたのではないかと少しずつ自覚していました。どうしてそうなったのかはわからずとも、雰囲気でそうであることは理解していたのです。
しかしそれは現実には伯にではなく、少女に選ばれたとは気付けない私の浅はかさの露呈でもあったのです。
それから数時間ほどはそこにいたでしょうか。幾度となく手持ち部沙汰になり、ソファで一眠りしようとしてはいやいけないと思い直すことを繰り返していようになっても、おそらく合格者たる同室者はあらわれませんでした。面接が続いているのか、長い時間が経ちました。恐らく、私はあの少女があの後もああして血を流して嗤っているのか、それが気になってたまらなかったのだと思います。真っ白な頭の中にその光景だけが繰り返し再生されていました。
そしてようやくその時がやってきた時、私はすでにいつまでここにいればいいのかと頭を悩ませてすらいました。途中で一度眠り込んでしまっていたために、この時の正確な時間は今でもわからないのです。一体如何ほどの間、あの少女はああして吊られていたのか、それだけは少しだけ気にかかりました。
カツカツという高いヒールの音を響かせ、足音が扉の前で止まりました。ノックの音はドン、ドンと二回、……粗雑さを見せないためでしょうか、ゆっくりと叩かれました。私は即座に姿勢をただし、次は何をすればよいのかと必死になって考えていました。
「おめでとう。君に働いてもらうことにしたよ」
ゆっくりと扉を開けた直後に、彼はそう言いました。やってきたのは恰幅のいい、いかにも貴族然とした初老の男性で、おそらく彼がベントリー伯爵なのだと一目でわかる威厳をもっていました。彼はその鋭くとがった目元を細めて、生まれてこの方貴族を見たこともない私と相対していました。
私が慌てて首を垂れると、しかし彼は笑って顔を上げるようにといいました。それは高圧的ではなく、旧友にものを頼むときのような親しげな響きを持っていました。
「君にはあの少女の世話を頼みたいのだよ」
私がするすると伯と目を合わせてからしばらくすると、伯爵は自己紹介すらせずにそう切り出してきました。どう名乗ろうか必死になって考えていた私も必然、そのタイミングを見失ってしまいました。
「本当なら私の召使いにやらせようと思っていたのだが、どうにもあの少女はそういうのを好かんようでね」
「君にはあの少女とともに地下室で生活してもらおうと思っている。……心配せずとも、君の生家よりずっとよい生活ができることを保証しよう。多少の外出制限はあるが基本的には貴族の家でのびのび暮らせると思ってくれていいのだよ」
「要するに君に課せられる仕事は3つ。一つは少女を世話し、その言葉にできる限り従うこと。2つ目は地下室で暮らし、不用意に少女が出歩かないように見張ること。そして3つ目は平穏無事に暮らすこと。これだけだよ」
「引き受けてくれるなら、この話はこれで決まりだ。君に感謝する」
……もう、さすがにこのあたりは一言一句同じであるとも思えないほど忘れています。しかし会話の流れ自体はこれで間違っていないでしょうし、あの日感じたベントリー伯の嘆きや好意も、大方これで正しいのでしょう。少なくとも私があの日に聞いた条件や情報は、間違いなくすべて入っているはずです。――ふふ、そうですね。そんな注釈より、話を進めましょうか。
そうして働くことになった私にあてがわれたのは、広大な敷地の地下深くに作られた階層の一室と、優秀なメイドと寡黙な執事でした。部屋は地下だけあって薄暗く、じめじめとした黴のような臭いがしましたが、その一室だけでも暮らしていた我が家よりも広く、快適だったのですから文句の出ようもありません。幸いにも黴の臭いは入ってから2,3日の掃除で全て取り除くことができました。
メイドと執事には地下室に入る前に顔を合わせました。
「シャルロットと申します。旦那様からあなた様のお世話を申し付かっております。これからよろしくお願い致します。こちらは……」
シャルロットが自己紹介とともに頭を下げ、そしてそのまま執事を紹介しようとした矢先に当の執事が割り込みました。
「エドガーです。よろしくお願いします」
執事が挨拶をすると、メイドは少なからず驚いたようでした。後で知ったことですが、彼は恐ろしく口数の少ない人だったので、仕方がないかもしれません。
シャルロットは紺地の長いスカートに白いエプロンという一昔前のような服装で、エドガーは黒い、ともすれば喪服のようにも思える仕立てのスーツを着こんでいました。皺ひとつなく着こなされたそれらは、どちらもしっかりとした強度に高級感のある薄手のもので、その服を着込んでいるというだけで格ある地位に就いていてもおかしくないとすら思えるものでした。
「家事などは私どもにお任せください。日常業務から外敵の排除までご用命とあらばどんなことでも致しましょう。……ただし、旦那様から禁じられていることもございますので、全てというわけにはまいりませんが」
私はそれに笑うことができませんでしたが、もしかしたらそれが彼女なりの、精いっぱいの冗談だったのかもしれないと気付いたのは、私が伯邸を退去した、そのあとでした。
「来たか」部屋に入ると、少女は先ほどと同じように笑んでいました。あぁ、ほの暗い部屋の中でもその表情には一切の陰りが見当たらなかったのです。私は曖昧に返すことしかできませんでした。
先程まで吊られていたこの両手首は痛々しい包帯の白と、止まらない血の赤に彩られていました。しかし服装だけはぼろ布から白いワンピースに変わっていて、いまは宙吊りにもなっていませんでした。相変わらず手錠で手足を拘束された姿ではありましたが……。
少女はそのやたら偉そうな口調とは裏腹に、妙に行儀よく椅子に座っていることが多かったのですが、この日もそうでした。木製の椅子に腰かけて膝に手を置いている図はまるで子供がご飯を待ちわびているかのようで、顔に張り付く嘲笑めいた笑みがなければと、惜しがる気持ちさえ湧いてくるほどでした。
「私の名前はロレッタ。これからよろしく頼む」
「ロレッタ。ロレッタ・ベントリーで間違ってませんか?」
「そんな無理に敬語を使わなくてもいいのだよ。君はメイドや執事ではないのだからね。そして私に姓はない。ロレッタかローとでも呼んでくれればそれでいい」
「……わかった。ロー、でいい?」
「もちろんだ」
ローはそう言うとぴょんと立ち上がり、やるべきことはやったと、器用にも足枷をほとんど揺らさないようにとことこと自分の部屋に戻って行きました。その動作ですら年相応の行動であるように見えるのに、どうしてあの笑みだけはそうは見えないのか、そして私は本当にこの調子でやっていけるのかなどと不安になりながらその日を過ごすほかありませんでした。
その日の私の晩餐は――笑い事ではなく実際に晩餐と呼べるくらい豪華なものでした。柔らかな肉の塊、新鮮な野菜、何よりも久しく食べていなかったパンがいくつもでてきたことが何よりも嬉しかったものです。あまりにも慌てたものでデザートまでにお腹を壊すんじゃないかとすら思われていたようです。かたや少女は手錠をかけられたままでも器用にナイフとフォークを動かし、優雅に食事を進めていました。
食事が終わるとシャルロットが下膳をしに上がっていきました。隣を見ると少女は退屈そうに暇を持て余すばかりで、どうやら上に行きたいと思うこともないようでした。伯爵には四六時中見張ってなくてもよいと言われたので、上がろうと思えば上がることもできるのでしょうが、しかしこれから先、ここから上るようなことにはあまりならないのではないか……。そんな予感が、私の心に重く圧し掛かってきていました。
当然のことですが、その夜はなかなか寝付けませんでした。いつもと違う部屋、柔らかすぎるベッド、期待と不安……。いろいろなものが入り混じって、私は明日からの予定を夢想したりしながら、宵深くごろに眠りにつきました。
「……もうすっかり遅くなってしまいましたが大丈夫ですか? もしよろしければお泊め致しますが……。――そうですか、それでは今から準備をしましょう。実のところこの話を終えるまで一人でいることが怖かったのですよ。だからあまり気にしないでくださいな」