#07
「―――ノっ! スノーっ、しっかりしろ!」
蓮が必死に呼びかけているのが聞こえた。
「っ……!」
スノーは後頭部に鈍い痛みを感じた。そこに手を当ててみると、べっとりとしたものが付着した。
雨は降っていない。空も青空だ。そして何より、ここは戦場でなかった。
「何が起きた……?」
―――さっきのは夢だったのか。不吉な夢だ。
「スノー……。まさか、覚えていないのか?」
「ああ。服屋のところからだ」
先程の少年がスノーを心配そうに見ているのが目に入った。新しい服に着替え、髪を切り揃えた彼はもはや『不潔』という言葉は当てはまらなかった。
「あれから僕らは次の街に行こうとしていた。でもその時運悪く……」
蓮は歯切れ悪く言葉を切った。なんだ? とスノーが尋ねる前に、少年が口を開いた。「びょうきのお兄ちゃんが口から血を出したんだ」
「―――あ?」
それ見たことかとスノーが蓮を見やると、彼は申し訳なさそうに話を続けた。
「あんたは僕の血を見てぶっ倒れたんだ」
「え?」
蓮が血を吐き、嘔吐か、と近寄ってきたスノーは、血を見るなり気絶してしまったというわけだ。
「本当。めんどうくさいのはどっちなんだか」
「……後で覚えてろよ」
記憶にないので、何とも不思議な気分だった。
山の上の屋敷にて。
「患者が逃げた?」
桐生氏は朱峲に尋ねた。朱峲は何も言わなかった。その代わり、脱走した患者のぶ厚いカルテを差し出す。
「『長谷宮蓮』か……」
桐生氏は深い溜息をつき、カルテをぺらぺら捲る。そのカルテにはびっしりと文字が書き込まれていた。
桐生氏は彼が屋敷に運び込まれた日のことを思い出した。あの日は蒸し暑かった―――。
穏やかな午後が過ぎ去ろうとしていた。昼食を終え、書斎に入ろうとしていたその時だった。
「主よ!!大変です!!」
声と共に担架に乗せられて運ばれて来たのは十九、ニ十くらいの青年だった。外傷がないことから、持病を患っているのかと彼は推測する。しかし。
「これは……」
「さっきはすまなんだなぁ、兄ちゃん。外にいる卑しい奴らかと勘違いしてしまって。思わず殴ってしまった。お詫びと言っちゃあなんだが、今日一日ここでゆっくりしていってくれや。街一番の宿屋を紹介してやるけん」
人当たりの良さそうな老人は、本当にすまなさそうな顔をして僕らを宿屋に招き入れた。どうやら彼は宿主らしい。
自称・街一番の宿屋は、確かに他の建物よりはまともだった。けれど、ところどころ壁紙が剥がれているのが目立つ。申しわけ程度に観葉植物が植えられていたが、どれも元気がない。床はみしみしと音を立て、腐敗具合を知らせている。
「街一番か」
スノーは鼻で笑った。あまりにも無遠慮な音量だったので、僕は宿主に聞かれやしないかと焦ったが、それは杞憂に終わる。
「おい、蓮」
唐突にスノーが言った。「あのガキはどうするんだ?」
彼が言う『あのガキ』とは、無論あの少年のことである。
「いつまでも付いてこられちゃ困る」
同情しないというのが暗黙の了解、らしい。僕には理解できないが。とにかくそういうルールがあるからこそ、同情された人間は同情した側の人間の傍にいたくなる。自分の安全が保障されるまで。
「ぼく、めいわくかな?」少年が言った。
「そんなことないよ」
僕は彼年が傷つかないように、慎重に言う。だが結果的に、上手く言えなかった。
「うそ。お兄ちゃんは、困っている。―――あっちにいる変なお兄ちゃんも、困っている」
まともな教育を受けていないせいか、彼も宿主も何とか言葉を思い出そうとするかのように一言一言区切って話す。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。何が間違っていたのだろう。何も知らなかった僕は、その答えを見つけることができない。
いつか屋敷の書斎で読んだ本の中に、砂漠を旅する人の物語があった。
旅人。僕はその言葉に強く惹かれた。彼らは一切のしがらみもなく生きてゆける。僕は旅人になりたかった。
「ありがとう、もう行くよ」
少年はにこりと笑って去って行った。僕らはお互いの名を知ることもなく―――もはや知る必要はないのかもしれない―――利用し合って生きていくのだ。