09 契約者との距離感、対応の変化について
「どこに行ってたの?」
家に帰るなり、母親からこんな声がかけられた。
怒りを含んだような響きには心当たりがあった。食卓の上に手付かずで残っている皿のせいだろう。
「いつもより早いね」
お互いにおかえりの一言もないまま牽制し合っていたが、刺すような母の視線がどうしようもなく鬱陶しくて、想はやむを得ず口を開いた。
「ちょっと、クラスの奴のところに行ってたんだ」
「この間言ってた子?」
「近所に住んでるんだ。そいつのところで飯を食った」
トゲトゲしていた視線が、急速にやわらいでいく。
「そうだったの。お友達と一緒にね」
自分が作った料理を食べてもらうよりも、息子に友人ができて、一緒に食事までしてきたことの方が嬉しかったらしく、母親は安堵したような笑顔を浮かべている。
「ちょっとコンビニ」
午後十時、想は一言両親に声をかけて家を出た。向かった先はコンビニではなく、マンションの向かいにあるボロアパートの一〇三号室だ。
ノックをしようとした瞬間、やはりドアは開いた。
「諌山想、願いができたのか」
「まあね。ちょっといいか」
夕方の時と同様にすんなりと中へ通されて、想は笑った。
「テーブルがあるぞ」
「心から望んでいるようだったからな」
四谷はいつも通りの無表情だ。弁当片手に寄ってから約三時間。どこでこの小さなテーブルを用立ててきたのだろう。その辺のホームセンターで買い物でもしてきたのかと考えると、面白くなって少年はニヤニヤしながら腰を下ろした。
「次はクッションだな。心の底からクッションが欲しい」
「では用意しておこう」
「命令は聞かないんじゃないの?」
「諌山想はこの部屋を気に入ったようなので、これから先願いや質問がある際にここを訪れる可能性が高く、快適に過ごせるような工夫が必要だと判断し、要望をなるべく聞き入れるようになった」
「はははっ」
おそらく邪魔者が訪れないであろう四谷の部屋の心地良さを、想は確かに気に入っていた。
ズバリ心の内を当てられる気味悪さよりも、これから先入り浸ってしまうだろうという思いと、それを許してもらえた喜びが心の内から湧いてきて、思わず笑ってしまう。
「喜んでもらえてなによりだ」
「このテーブル、いくらだった?」
「九八〇円だ」
「あはははっ」
――超幸運、ケチくせえ!
しばらく笑った後、想は改めて四谷に向き直った。
今度は、大真面目な顔で正座をしている姿に再び笑いがこみ上げてくる。
「諌山想、願いがあるのなら早く言うべきだ。コンビニに行くと言って出てきたのだろう」
「お前がただのストーカーだったらマジでおっかねえな」
こんな冗談には一切反応しない。四谷の青白い顔に一気に素に戻って、想は小さく咳払いをすると新しい願いについての相談を始めた。
「俺の母親が張り切って料理するのをやめさせたいんだけど、どのくらいかかる?」
「料理をやめさせるとなると、最短で三年四ヶ月かかる」
「長えよ」
あのへたくそな手料理を毎日用意されるなんて、気が滅入る。残しても捨てても険悪になるし、食べれば具合が悪くなる。少年が顔をしかめて腕組みをすると、意外なセリフが四谷の口から飛び出してきた。
「諌山想、わたしから、この問題を解決するために有効な願いの提案ができる」
「あん?」
想は冷めた視線を超幸運に向けて放った。
「提案はしないんだろう?」
「今回の諌山想の願いは料理をやめさせるというものだが、この料理をやめさせたい理由は諌山ルミの腕が悪いからだ。それを解決する願いを叶えれば、料理はやめなくても問題は解消される」
「……えーと?」
――どういうことだ?
「単純に、諌山ルミの料理の腕が上達すれば良い。そのように運命を動かせば、現在諌山想を悩ませている問題は二ヵ月後には解消される」
「……嘘だね。あの母親は散々あっちこっちの料理教室に通ってあの腕なんだぞ? どうにかなるのかよ」
「われわれは契約者に対して真実のみを述べる」
「提案しないっていうのはどこに行ったんだ?」
「基本的にこういう願いはどうかという提案はしない。ただし、今回のように問題解決がより早く、また関わる者がより幸福を感じられるであろう代案がある場合のみ、言及させてもらう」
いつも通りの表情で話す四谷に、想は呆れた表情を浮かべた。
「そういう後出しルール、あといくつあるんだよ?」
「確かにそう取られても仕方がない。先に謝罪させてもらおう。すまなかった。われわれ超幸運は人知を超えた存在であり、契約者がどのくらいのスピードでどの程度われわれを受け入れるかはその人物によって違う。契約者の理解度にあわせて公開していくルールはいくつかある」
――じゃあ俺が、超幸運とやらを信じて受け入れてるって判断されたってか?
こっ恥ずかしい気分が心の底からはみだしてきて、少年は超幸運から視線を外した。
――でも、確かにそうか。だってこうやって遊びに来ちゃってるわけだしな。
それに、四谷と話すことは想にとって、少し「面白いこと」になっている。認めると心がラクになって、少年は視線を戻すとふっと笑顔を浮かべた。
「わかったよ。俺はまだ、ちょっとばかり半信半疑なんだけどね」
「問題ない。代案を採用した場合、二ヶ月で問題は解決する。そして明日から解決の日まで諌山ルミは息子のために手料理を作らない」
「マジか」
それは恐ろしく魅力的な提案だった。
ほんのちょっとだけ考え、少年は大きく頷き、超幸運に向けてはっきりと願う。
「俺の母親の料理の腕、上達させてくれ」
「お前の願いを叶えよう。この願いは今からちょうど二ヵ月後に叶えられる」
コンビニで飲み物を買って、少年は家へと戻った。
帰宅の挨拶をすると、リビングでくつろぐ両親も少し微笑んだような顔で「おかえり」と返してくる。
――あったか家族かよ。
鼻の辺りに皺を寄せて自分の部屋に戻り、ペットボトルの蓋を開ける。プシュっと鳴ると同時にドアを叩く音が響いた。
「想、ちょっといいか?」
父親の声だ。こんな風に部屋にやってくるなんて、今までにあったかどうか。記憶の中にはなかったレアイベントに驚きつつ想がドアを開けると、父親が中へと入ってきた。
「なんか用?」
「ああ。夕食のことなんだが」
小さな、ささやくような父の声はこう続いた。
「友達のところで食べてきたのは、母さんの料理を食べたくないからなんじゃないのか?」
「え?」
「ほら、下手だろう、料理が。お前のためにって言ってるけど、美味しくないもの用意されたら迷惑だよな」
――親父もそう思ってたのか。
これは少しおかしくて、想はニヤリと笑った。
「まったくね」
「やっぱり。母さんのために言わないでいてくれたんだろう?」
これはすぐに肯定できず、少年は真顔で黙る。
「……すまなかったな。父さんが言うべきだった。もっと早くに言えたのにごめんな。料理教室まで通ってたから、なかなか言いづらくて」
鼻のあたりをポリポリと掻く父親に、想はこくこくと頷いてみせる。それだけで気持ちは通じたようで、父は情けない笑顔を浮かべて息子の肩を一度叩くと、部屋を出て行った。
リビングから夫婦の話し声が聞こえる。
ちょっと大きな、母の怒ったような声。なだめる父の低い声。涙で震える、母の声。
順番に聞こえてくるそんな音に少しだけ意識を向けながら、想はいつものようにネットサーフィンをした。お気に入りの痛いニュースのまとめブログには、今日も世界中から痛々しい事象が集められ、トピックになって並べられている。
――俺と母親も、痛いニュースに分類されたんだろうな。
料理がマズイからって食べない息子に、激怒して、苛立ちを募らせて。
なにもかもにやる気のない息子に幻滅して、不倫相手と立てた殺人計画が、あやうく実行されるところだった。
父の作戦がどんなものかしらないが、うまくいくのだろうか。
超幸運の力の見せ所だなんて考えて、想は馬鹿馬鹿しさに少しだけ笑う。
――すっかり信じちゃってるのかよ。ナンバー4、黒の、超幸運なんて存在を。
いつの間にか、リビングからはなにも聞こえなくなっていた。
明日の朝、とりあえず手料理がなければもう少しくらい信じてもいい。そんなことを考えながら、想はペットボトルの中身を空にして、ベッドに身を投げ出すとそのまま眠った。